1983年創刊 月刊俳句雑誌「水 煙」 その2

創刊者:高橋信之
編集発行人:高橋正子

明治を読む/2008年7月号

2008-05-04 14:23:02 | 本文
 ①正岡子規 高橋信之

 正岡子規は、「病牀六尺」で、
 草花の一枝を枕元に置いて、それを正直に写生して居ると造化の秘密が段々分って来るやうな気がする。
と言っているが、芭蕉は、「笈の小文」で、
 風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。見る処、花にあらずといふことなし、おもふ所、月にあらずといふ事なし。造花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ造化にかへれとなり。
と言い、また、「三冊子」では、
 松の事は松に習ヘ、竹の事は竹に習ヘ
と言う。芭蕉と子規は、俳句についての考えがそれほど違っているとは思われない。また、時宗の祖として知られている捨聖一遍上人が、次のように語っているのとも同じであろう。
 華の事は華にとヘ、紫雲の事は紫雲にとヘ、一遍はしらず
(一遍上人語録)
 子規の写生の本質を探っていけば、それは、結局日本人の古くからある思惟方法と、全く同じものであると気づくことができるであろう。つまり、『比較思想論』というユニークで綿密な業績をなしとげた中村元氏が言っている「与えられた現実の容認」ということなのである。それを、中村元氏は、日本人の思惟方法の第一の特徴にあげている。
 まず第一の特徴は、「与えられた現実の容認」ということです。われわれは与えられた現実の中で生きている、それをそのまま認めるという観念です。「絶対者の把提」というテーマでは、西アジアの宗教や西洋の思想においては、人間を離れたかなたにそれを求めようとする。神と人との間には絶対の断絶があるわけです。ところが日本の場合には、絶対のものを現象界の内においてとらえようとする。その考え方はすでに古神道に見られる。たとえば山があればその山を御神体として拝み、川があれば、川の神をあがめる。木には神が宿ると考え、石にさえも神がましますという。謡曲にも例がある。
 いずくにか神の宿らぬ影ならん。嶺も、尾の上も、松杉も、山、河、海、村、野田、残るかたなく神のます。
 こういう考え方が日本人の中にずっと続いている。
 この日本的な「現実容認」は、また、仏教の方でいう「即身成仏」とか、「人々無量寿所遇皆極楽」とか言っているのと、根本のところでは同じであろう。これらはすべて、単なる理想主義や主観主義を否定しており、仏教の論理「色即是空」で支えられているものである。現実の世界にこそ真実がある、とする考えであり、真実は、他ならぬ現実の世界に見ることができる、とする態度なのである。

 をとゝひの糸瓜の水も取らざりき

 子規絶筆三句の中の一句。他の二句は
 糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
 痰一斗糸瓜の水も間に合はず
であり、子規の生涯を思い、心うたれる。芭蕉最後の吟として有名な「旅に病で夢は枯野をかけ回る」は、旅をすみかとした詩人の生涯の象徴として意味を持つが、それと同じであろうと思う。

 鶏頭の十四五本もありぬべし

 この句の評価は、まちまちであるが、子規の写生論を取りあげるときには、必ずといってよいほど間題になる句である。歌人斎藤茂吉によって、子規晩年の代表作の一つとして賞揚されたが、高浜虚子は、子規の佳句と認めることはなく、終生黙殺したのである。
 この句は、鶏頭の生命力を、子規の主観が捉えたものであり、明らかに虚子のいう客観写生の句ではなく、だからといって、単なる主観的な思い出の句でもない。子規は、晩年の一連の句で、過去の思い出に耽っているのではなく、表面的な写生から、内的な真を詠う写実へと一歩を進めていることは、間違いない。

②正岡子規鑑賞 高橋正子

 菜の花や小学校の昼げ時

 校舎を囲んで菜の花が咲き、昼げ時の小学校は、校舎や運動場には日があたたく差して眠気をさそうのどかさだ。明治時代の句ではあるが、農村地帯では、今でもこのような外見の風景に出会うが、小学校の内実はこのころとは随分と違っている。 

 夏川を二つ渡りて田神山

 明治二九年夏の作。子規の「松羅玉液」にか書かれている夏川十句のうちの一句で前書に、「昔、帰省している頃の田舎の友を訪ひたる時のけしきを思ひ出し」とある。田舎の友は永田村(現松前町)に住む武市庫太のことで、永田村からは田神山(谷上山)がよく見える。二つの川は、石手川、重信川のことであろうと思われるが、涼しい川を二つ渡り、友の住むところに来て、田神山を親しく眺めたのであろう。田神山は標高四五六mの山で、苔むした参道を登ると山頂近くに宝珠寺という立派な寺がある。私が訪れたのは、門前の海棠の花が雨に濡れているときであったが、ほどほど世俗から離れ、どこか漱石の『草枕』の雰囲気を窺わせている感じであった。また、この句は昭和五八年に句碑となって、宝珠寺山門前広場に据えられてた。 

 花木槿家ある限り機の音

 木槿は秋の季語で花期は長い。松山では今盛んに咲いている。この句は、松山市内の「かすり会館」の前庭に句碑となって、観光客が写真を撮る場所の向かいの木隠れにある。伊予がすりを生んだ鍵谷カナの生地は、石田波郷の生地と同じだが、当時機織が盛んであったので、どの家からも機織の音が聞こえた。木槿の垣根に花が咲いてしんと静まった道ながらに、トンカラ、トンカラ機の音が聞こえるのもその頃の生活である。

 赤蜻蛉筑波に雲もなかりけり

 筑波山の向こうから、東北が始まるといってもいいだろう。池袋のサンシャインシティホテルから関東平野を見渡すとそう思える。関東平野の果てまで来ると、筑波の嶺には、一片の雲もなく晴れて、明るい空を赤とんぼがすいすいと飛んでいる。澄んだ空気を感じさせてくれ、鄙びた明るさのある句である。

 夜更けて米とぐ音やきりぎりす

 その日の仕事をしまい終えた家人が夜更けに、明日朝炊く米をカシャカシャと磨いでいる。その音に交じってきりぎりすの声が間を置いて聞こえる。秋の夜更けの静かさと質素な生活の様子が偲べる。

 行く我にとゞまる汝(なれ)に秋二つ

 明治二八年の作で、前書に「漱石に別る」とある。漱石が赴任した愛媛県尋常中学校(松山中学校)、現在松山東高等学校に小ぶりの句碑がある。この年従軍して大陸へ行き、帰途船中で喀血した子規は、須磨で三ヶ月ほど療養したあと、八月に松山に帰り、四月に松山に赴任してきていた漱石の下宿にころがり込んだ。子規はこのときに、松山の俳句仲間を集めて句を作り、漱石も加わることとなった。五十日ほど松山で過ごした子規は、十月十九日に上京するが、そのときに、漱石にこの句を与えたのである。行く我は子規自身。とゞまる汝は漱石である。子規はふるさとを離れ、漱石は子規のふるさとに留まるが、ともに二人二様のそれぞれ秋を過ごすことになるだろうというお互いの身を思う友情の句である。「秋二つ」に子規らしい明るさがある。

③正岡子規『小園の記』 池田加代子

 『我に二十坪の小園あり。』で始まるこの散文は、明治三十一年に松山から発刊を引き取っての「ホトトギス第二巻」一号の誌面に発表された。子規三十一才の秋である。
 その三年前の明治二十八年、病を押して従軍志願、帰途に大喀血し神戸の病院に運び込まれている。半年後の秋に根岸に戻ると、病間の南に面する庭を我が命とも慕うようになった。
『ありふれたる此花、狭くるしき此庭が斯く迄人を感ぜしめんとは曾て思ひよらざりき。況して此より後病いよ/\つのりて足立たず門を出づる能はざるに至りし今小園は余が天地にして草花は余が唯一の詩料となりぬ。』
 庭の生気は、子規の精神に新鮮な風を送りつづける。『余は此時新たに生命を与へられたる小児の如く此より萩の芽と共に健全に育つべしと思へり』と希望を育て、時には『黄なる蝶の飛び来りて垣根に花をあさるを見てはそぞろ我が魂の自ら動き出でゝ共に花を尋ね香を探り(中略)低き杉垣を越えて隣りの庭をうちめぐり再び舞ひもどりて松の梢にひら/\水鉢の上にひら/\一吹き風に吹きつれて高く吹かれ』と心を狂おしく惑わせた。
 終段にある、鶏頭への子どもめいた執着と、鶏頭があれやこれやと増えていくエピソードには、計算なく草花が雑多に植えられてゆく庭の表情に子規らしさを感じておもしろい。因みに鶏頭論争を起こした例の句は、この翌年に作られている。横臥の目に鶏頭のカッと燃えるような赤い生命力を受け取って、屈託のない明るい精神が詠ましめた句であろうと思う。
 死へ至る日々、子規はこの小園を南に置いて、自分の文学を磨き上げ、次代に継承させる運動に揺るぎなかった。「小園の記」の発表は、その時代の標準であった古典の修辞と装飾に溢れた文章を革新するための写生文の提唱という意義も持ち、翌三十
三年には「文章には山が必要ぞな」と、作文の会「山会」を催したり、誌面に写生文の募集をするなど、小園の外に向かって隔たりなく開かれた文学活動のうちの一環であったのだ。その後も病間に筆は衰えなかったが、三十五年、虚子に口述した「九月十四日の朝」が最後の写生文となった。子規はこの中でも庭を静かに見つめ、「余は病気になって以来、今朝ほど安らかな頭を持って静かにこの庭を眺めたことはない。」と呟く。九月十九日死去。
 日本の青春期でもあったこの時代において、独創に向かう書生的精神にあふれる子規は、最後まで周囲を牽引し、結果として自身をも励ましつづけた。そして、激痛の襲いくる壮絶な病床から目をそらすことなく人々が集い、文学を楽しむサロンでありつづけたのは、根本的に明るい子規の気質故のみならず、彼の感傷を嫌い「認識する力」で「平気で生きて居る」境地が、周囲にも浸透していたからではないであろうか。
 晩春の真昼過、私は初めて根岸に子規庵を訪れ、この小園に佇んだ。雑多な草木が力むことなく、各々の生きるペースを楽しむように微風を起こし、私を和ませる。糸瓜棚の下のガラス越しに子規の居室を振り返り、子規が短い生涯に成した仕事の壮大さを思った。今、俳句をつくる私たちひとりひとりが、図らずも子規の仕事を継いでいるのである。

  ごて/\と草花植ゑし小庭かな  子規

 ④夏目漱石『草枕』 藤田荘二

 「草枕」は漱石自身の言葉である「閑文学」=非人情の世界に遊ぼうとする画家の話である。しかし、非人情の世界を体現すべく、主人公はさまざまに論理を組み立てつつも、絵は納得のいかないうちに時間が流れてゆく。
 作品は戦争のため温泉宿は訪れる者もいないという設定。一九〇四(明治三七)年から五年にかけての日露戦争の時期のことだ。漱石を論ずるに欠くことのできないのが日露戦争。戦争に浮かれ、翻弄される時代に、非人情の世界に遊ぶというのは、「電車が殺さなければ巡査が追い立てる」現実世界への大きな違和感・文明批判が背景にあろう。のどかな温泉場から日露戦争に赴かざるを得ない若者も描かれ、桃源郷のような地域にも押し寄せる時代の波や、「束の間の命を、束の間でも住みよく」すら出来ない非人情の美学の無力も記述されている。
 さて小説ではヒロインの那美が出てくるに及んで、「(那美の)表情に一致がない。悟りと迷が一軒の家に喧嘩をしながらも同居している体だ。この女の顔に統一の感じのないのは、心に統一のない証拠で‥」と「非人情」からは大きく逸脱する。
 ミレーのオフェリアを下敷きとした絵を構想しつつも、水死する美女の顔が描けずに悩む主人公。しかし破産し零落して満州へ落ちていく間際に金を与えた前夫と、いとこを送る列車で偶然遭遇する那美の表情に「憐れ」の表情を得て絵の構想が完成し、小説が終る。漢詩や俳句は作中で完成するが、絵(おそらく小説)はこの人情の最たるもの「憐れ」の結末まで完成することはない。
 多くの評論は、この「草枕」を漱石の回心のエポックとして、非人情の文学、俳文学は否定されたとする。そして次に書かれた激しい文明批判の「二百十日」「野分」を経、「虞美人草」「坑夫」という隘路を経て「三四郎」「門」「それから」へと結晶化していくと見る。
 「「草枕」のような主人公ではいけない。あれもいいがやはり今の世界に生存して自分のよい所を通そうとするにはどうしてもイブセン流に出なくてはいけない」との漱石自身の言葉が、確かに「草枕」的な世界では安住できない漱石の文学の方向を物語っている。
 私には甲野(「虞美人草」の主人公)と「草枕」の主人公は、二重写しに見える。その「虞美人草」の最後、死んだヒロイン藤野の描写に、「草枕」の主人公の描こうとした水死美人の描写を重ねてみるのは、飛躍があるだろうか?「草枕」の主人公が山を下れば、甲野になることは間違いがない。比叡山の山行きの描写が「虞美人草」の出だしでもある。那美と藤野の造型も近しいものがある。
 「草枕」以降の小説では、漢詩の素養や俳句の世界は前面に出すことはなく、時代に翻弄される男女の関係、人間の醜さ・苦悩を執拗に掘り下げようとした思想の冒険を行なった。しかし私は「草枕」以降に漱石が、漢詩の素養や俳句の世界を否定したことにはならないし、俳句を作り続けたことを説明できないと思う。
 「草枕」の中で俳句について、「十七字は詩形としてもっとも軽便であるから‥容易に出来る。‥十七字にするときは自分の腹立ちがすでに他人に変じている。腹を立ったり、俳句を作ったり、そう一人が同時に働けるものではない。これが平生から余の主張である」とある。この小説では俳句・詩を画帳に書き込みつつ、絵の完成をもくろんでいる。
 小説という舞台で、時代精神を掘り下げようと格闘するには、このような俳句や漢詩の世界も、保持することが必要であったのではないだろうか。思索と言う行為を「腹立ちがすでに他人に変じる」第三者的な客観化することも、精神の均衡の上でも、不可欠なことであったのではないか。「「草枕」のような主人公ではいけない」と漱石自身が述べた文学の方向とは、「人情」「非人情」という対立概念ではない、という風に理解してみるのもいいのではないか。

 誰でもが、社会との葛藤、人との関係の中で押しつぶされそうになりながらかろうじて自己を保とうとしている。私はそんな格闘に疲れたとき、こころして周囲の自然を見つめることにしている。それが俳句のきっかけになることもある。
 それは社会からの逃避でも隔離でも、人間関係の遮断でもない。自分を第三者の目で見るきっかけとして、私には不可欠の行為だ。そしてどこかで必ず社会との接点を保っているはずだ。
 最近手にした「俳句のはじまる場所」(小澤實)に「(俳句が)生き延びてきたのは、その小さな全身から人恋しさの思いを放っていたからではなかったか。そのいのちこそは季語が語中密かに用意しているものであった」とある。それが句会という場の根拠でもあり、人との関係を抜きに語ることのできない俳句の本性なのだろう。
 私は漱石の俳句については語る資格はないけれど、小説の書かれた時期に重ねながら俳句を追ってみるのも、漱石を理解するひとつのアプローチの方法かもしれない。

 ある程の菊抛げ入れよ棺の中    漱石
 逝く人にとどまる人に来たる雁   〃

 ⑤樋口一葉 臼井愛代

 樋口一葉の『たけくらべ』は、明治二十八年一月から、雑誌「文学界」に連載された。一葉二十三才頃の作品である。
 冒頭部分を読み始める間もなく、一葉が生きた明治時代の東京下町の風景にタイムスリップしたかのような思いを抱かされる。一葉の独特の文体がもたらす臨場感である。
 「廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝(どぶ)に燈火うつる三階の騒ぎも手に取る如く、...」に始まるこの冒頭部分は、当時の一葉の自宅前(現在の台東区竜泉)から、遊郭のあった吉原大門までの通りの様子、行き交う人々の様子を、鮮やかに描写する。
 『たけくらべ』には、吉原遊郭に隣接する地域に生きるさまざまな人々、特に、子供達の姿や心情が、季節感たっぷりの下町の風物詩などと共に、いきいきと描かれている。場所柄、ここに描かれる子供達は、ひどくませている。家が資産家の子がいれば、極貧の子もいるが、皆が普通に一緒に遊び、同じ地域の中で育ってゆく。この時代には、親の身分や職業、親同士の上下関係が、今の子供の世界以上に大きく影響したと思われるが、『たけくらべ』に登場する子供達は、そういう人生の理不尽を含めた、自分のありのままの立場を自然に受け止め、受け入れ、バランスの取れた、無邪気で明るい子供の世界を作っていることが救いである。このような子供達を、一葉は、鷲(おおとり)神社の祭りの日の詳細な描写を通して、いきいきと伝えてくれる。祭りに臨む気合と心意気は、子供といえどもなかなかに粋であり、祭りが、当時の子供達の大きな楽しみでもあり、エネルギーの発散場所であったことが窺える。
 『たけくらべ』は、全編を通して、当時の市井の人々の描写がされていくが、物語の中心は、のちに遊女となることが運命付けられている美登利と、僧侶になることが運命付けられている信如の、淡く切ない初恋の行方である。
 遊郭という、生々しい大人の世界を間近で見ながら育ち、目や耳から大人のような知識を得ている子供達も、恋という初めて湧きあがる心の動きに戸惑い、成す術を知らずに苛立ち、翻弄される。それが最もよく描写されるのは、大事なお使いの途中の信如が、ひどい雨の中で下駄の鼻緒を切り、鼻緒のすげ替えに四苦八苦する様子を、美登利が、家の戸口の陰からはらはらしながら見守る場面である。美登利の手には、信如に鼻緒として渡したいと思っている友禅の切れ端が握られたままだ。信如も、美登利が、家の門口から自分を見ていることを知っているのだが、下駄の修繕に心を奪われた振りをして徹底的に黙殺する。やがて美登利は母親から何度も呼び立てられて家の中に戻ろうとするが、信如を見過ごしにもできず、握り締めていた友禅の切れ端を信如に向けて投げ出し、走り去ってしまう。
 「思ひの留まる紅入りの友仙は可憐しき(いじらしき)姿を空しく格子門の外にと止めぬ。」という、美登利から信如に渡り損ねて置き去りにされた友禅の切れ端は、信如に寄せる美登利の心を象徴するものであり、将来を遊郭と仏門という全く相容れない世界を生きることになる美登利と信如の、決して触れ合うことの無い人生を暗示しているようでもある。
 『たけくらべ』は、信如が僧としての修行のために仏教学校に入学すべく、町を去るところで筆が置かれる。美登利の家の格子に信如が挿した、一輪の水仙の造花の描写は、深い余韻を残して、物語に幕を引く。
 女性が学問に接する機会が、大幅に増えた明治という時代において、女性に学問は必要ないという母親の意向に従い、学業を断念せざるを得なかった一葉であったが、学問への思い捨てがたく、古典を愛読し、和歌を学び、王朝日記風の格調高い文体で作品を書いていたという。後に、貧しさから、糊口のための作品を書くことにした折、大衆にうける文体に変える工夫をしたというが、もともとの文章の格調の高さは失われること無く、一葉作品に独特の美しさを与えている。
 一葉の文体の特徴は、歌塾「萩の舎」で学んだ、王朝風の雅俗折衷体であり、地の文は文語体、会話は口語体で書かれている。一葉は、歌と同じように、小説においても、朗読した時の言葉の調べを大切にしたという。『たけくらべ』も、流麗な文体のなか、文章のリズムにはいきいきとした疾走感もあり、声に出して読んでみたいと自然に思えるような作品である。
 一葉は、膨大な量の日記や雑文の類を書き遺した。望んでも叶わなかった学問への渇望感や、父亡きあと、十七歳で女戸主となったのちの厳しい極貧の生活の苦しみが、「書く」という行為に昇華され、彼女の類まれなる文学的才能を更に磨きあげたのだろう。明治二十九年に、二十四歳の短い生涯を胸の病で閉じた一葉だが、亡くなる二年前から前年にかけては、『大つごもり』、『たけくらべ』、『にごりえ』、『十三夜』といった、後世にまで名を残す一葉の代表作が相次いで発表されている。その作品たちは、明治の市井の人々をいきいきと描ききり、彼女が生きた時代を私たちにありありと垣間見せてくれる。