12月17日

2008-12-17 00:05:30 | Weblog
枯草の一人の幅の径下る         篠原 梵

枯草の径はというと、人が一人通れる道である。この把握は人間探求派と呼ばれてよい梵独自の見方であって、人間を主題に枯草の径を詠んでいるのである。枯草は明るく枯れの色を広げ、人一人を通す径を作っている。現代的な句である。
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12月16日

2008-12-16 00:09:27 | Weblog
玻璃越の凩の顔とわかれたり       加藤楸邨

ガラス戸越しに外を見ていると、外套に身を包み、ポケットに手を差し込んで、凩に吹かれて寒そうな男の顔が、玻璃内から見ているとも知らずに、ふとこちらに顔を向けて、通り過ぎて行った。「わかれたり」は、相手はともかくも、楸邨には心に残る風采の男であったに違いない。
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12月15日

2008-12-15 00:05:53 | Weblog
今ぬぎし足袋ひやゝかに遠きもの     細見綾子

足袋は日常に履かれていたので、特別な日のものではない。今日一日履いていた足袋は、人のぬくもりを持って温かいが、脱がれて畳に置かれると、たちまちに人のぬくもりは失せて、冷たい足袋となって揃えられている。自分が今脱いだ足袋とは思えないほど、「ひやゝかに遠きもの」となり、物としての足袋となっているのだ。
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12月14日

2008-12-14 00:06:29 | Weblog
さむきわが影とゆき逢う街の角       加藤楸邨

街角を曲がろうとすると、自分の影が先立って伸びている。寒そうな自分の影を見て、新たに「ゆき逢う」という驚きの感情をもった。「さむきわが影」は楸邨の諸事情を象徴的に表している。決して豊かなでも、充実した影でもない自分の影にゆき逢って、余計に寒き思いを募らせたことであろう。
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12月13日

2008-12-13 00:05:10 | Weblog
冬曙六人の病床うかびそむ         石田波郷

波郷は結核であったから、長期療養を必要としたので、一人部屋ではなく六人一部屋などの大部屋で過ごすことが多かった。よく眠れずに夜が明け始めたのだろうか、窓から差してくる曙光に、静かに眠っている自分たち六人の病床が白く見え始めた。六人のいる部屋はそれなりに広い。病床の冬の朝が、ここから静かに始まることに、しらしらとした病者波郷の思いがある。
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12月12日

2008-12-12 00:13:09 | Weblog
咳の子のなぞなぞあそびきりもなや     中村汀女

家庭婦人としての母と子の、ほのぼのとした関係が品よく表現されている。風邪の熱が引いてくると咳が出始めるが、すこし元気が出た子どもは退屈で、母に甘えたがる。それが、「なぞなぞあそびきりもなや」である。ひとしきり相手をした母である作者は、やり残した家事が気にかかり始めたところだ。
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12月11日

2008-12-11 00:11:59 | Weblog
泣きしあとわが白息の豊かなる      橋本多佳子

「泣きしあと」と「白息の豊かなる」の関係から、思い切り泣いたあと、辛さが和らぎ、あるいは自己解決の方向が見えたという状況であろう。次元の高いとされる俳句は、感情の昂ぶりが作者の内部で浄化され、沈静化されてのちに表現化される場合が多いが、多佳子の場合はそれと異なっている。感情の昂ぶりが収まるや否や、寒さの中に吐く大きな白い息が生々しくて、自己愛を示すものとなっている。この生々しい感情を句に率直に詠めること自体に女性の特権、中でも多佳子の特権があると言えるだろう。
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12月10日

2008-12-10 00:10:55 | Weblog
大空に舞い別れたる鶴もあり      杉田久女

鶴が空舞う姿は、古来詩歌だけでなく装飾に、紋様に、様々な意味や意匠で日本人に詠まれて来た。日本の文化にこれほど深く関わって愛されている鳥はいないだろう。それだけに鶴を詠むと、新しさや感動を失いがちだが、久女は自身の感情をじっくり吟味して、吟味において譲るところがないのである。華やかに羽ばたき大空に舞いあがったものの、一羽はほかと別れて舞う鶴を目にしたのである。さながら、久女自身を映したような鶴である。自由に舞おうとする鶴は、ほかより離れて舞わねばならぬ運命のかなしさを引いているようである。抗し切れないものに対して舞う姿として、かなしいまでの美しさを表現している。
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12月9日

2008-12-09 23:32:47 | Weblog
生牡蛎の胸を落ちゆくさみしさ堪ふ    西垣 脩

昭和二十八年、脩三十四歳のときの作。復刊「石楠」(原田種茅主宰)で幹部として活躍していた。下五が六音の破調で、その中がまた四、二音と切れている。この破調の中に脩の感情の襞が読みとれ、生命に対する静かないとおしみを感じさせる句である。
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12月8日

2008-12-08 23:01:23 | Weblog
冬菊のまとふはおのがひかりのみ     水原秋櫻子

冬菊のひかりのような静かなたたずまいが詠まれた秋櫻子の代表句のひとつ。寒気の中の菊の花は、その香りよりも花の色に心が留まる。寂光土の光を思わせる菊の花の光である。
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12月7日

2008-12-07 23:00:27 | Weblog
鴨とほく泛けり睫毛に風おぼゆ       西垣 脩

鴨が遠く泛かんでいるのをじっと見遣っていると、やがて睫毛を凍らすほどの風を感じた。睫毛に寒風を感じ取る繊細さは詩人のものであろう。遠く水に泛く鴨と、岸辺の自分との間に思いがゆきあっている。「鴨」も「睫毛」も「風おぼゆ」も洗練された詩語である。
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12月6日

2008-12-06 00:01:16 | Weblog
冬の水一枝の影も欺かず        中村草田男

冬の水は、それに映る木の枝の一本さえも違わすことなく映している。草田男にとっては、「欺かず」である。一枝さえも欺かない冬の水の張り詰めた緊張感は、そのまま草田男の正統でまっすぐな人生を、物語っている。
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12月5日

2008-12-05 23:59:55 | Weblog
霜の墓抱き起されしとき見たり     石田波郷

病床から抱き起こされたときに、霜の厳しく降りた墓地の墓石が目に入った。一基の墓石に目を留めたときに、肺結核で療養していた波郷は自分の死と直結される感覚が体を走ったに違いない。実際、波郷の江東の住まいの北側は焼け野原で、窓からは墓地が見えた。窓から見えるものが、「霜の墓」であるなら、これほど厳しい眺めはあるまい。
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12月4日

2008-12-04 00:23:09 | Weblog
鴨の中の一つの鴨を見てゐたり      高濱虚子

多くの鴨が池に降りいるところを見に、吟行に出かけたりする。初めは、鴨全体や景色を見ているのだが、やがてその中の一つの鴨の動きに目が行って、その鴨を飽かず見ていたりする。そうするうちにその鴨に愛着が湧き、観察も深くなるということだろう。
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12月3日

2008-12-03 00:21:39 | Weblog
大佛の冬日は山に移りけり       星野立子

露座の大佛を肩から滑らかに照らしていた冬の日は、いつのまにか山へ移っていった。冬の日の移ろいは早い。全体の口調が滑らかで、冬日がライトを回すように滑らかに移っていく様子が、リズムのうちに表されている。おおらかな詠みぶりが、大佛と鎌倉の山を詠んで実に相応しいと言える。
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