社民党 京都府連合 野崎靖仁 副主席語録
社民党 京都府連合 政審会長・幹事長(近畿ブロック協議会副議長) 野崎靖仁、47歳。
日々の思いを綴ります。
 



小林正信『明智光秀の乱―天正十年六月政変 織田政権の成立と崩壊』
(里文出版)を読む。



「本能寺の変」は武田家滅亡以降、
室町幕府に代わる新しい政治体制をつくろうとした信長に対して、
室町幕府の統治機構を束ねていた明智光秀が起こした
「明智光秀の乱」と呼ぶべきだとしています。

「室町幕府は足利義昭が京から追放されて滅亡していたのでは?」と
思ってしまいますが、義昭は信長の死後も征夷大将軍の地位にありました。

暗殺された将軍足利義輝の弟・義昭を奉じて上洛した信長は、
室町幕府の統治機構をバックアップする形で畿内を安定させました。

義昭追放後も、室町幕府の統治機構はそのまま残されています。

江戸幕府の旗本に相当する「奉公衆・奉行衆」を中心とした
室町幕府の統治機構を束ねていたのが、明智光秀です。

信長が「副将軍」として軍事力で幕府を支え、
光秀は「政所執事」として幕府を統括する
「織田・明智体制」で畿内支配が行われていたというのが著者の考えです。

ここで状況証拠のみの推理になりますが、
明智光秀の正体についての仮説が述べられています。

明智光秀は信長の命で改名した後の名前であり、
もともとは足利義輝の側近にして側室小侍従の兄、
奉公衆の進士藤延であった、とするものです。

義輝と同時に戦死したと思われた進士藤延は出家して生きており、
義昭と信長の上洛を機に還俗し、「明智光秀」として幕政に復帰します。

義輝の側近として幕政の中核にいた光秀は、
室町幕府の統治機構を統括するのに最適の人物でした。

室町幕府の統治機構を温存しつつ畿内を支配し、勢力を広げた信長は、
武田家を滅ぼした後、ようやく室町幕府の解体を実行に移そうとします。

それに対する明智光秀を中心とした奉公衆による反撃が「明智光秀の乱」です。

光秀の個人的な野望や怨恨ではなく、
室町幕府の組織防衛のために信長を排除した、ということになります。

光秀は信長をはじめとする織田家の中枢を葬り去ることに成功しましたが、
秀吉との山崎の合戦で官僚機構を構成していた奉公衆が多数戦死し、
室町幕府の統治機構は物理的に壊滅してしまいました。

室町幕府が組織的として滅亡するのは山崎の合戦の結果です。

かなり大胆な仮説ですが、なるほどと腑に落ちることばかりでした。

読みごたえのある一冊です。

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