小室直樹『田中角栄の呪い』『田中角栄の大反撃』
(光文社カッパ・ビジネス)を読む。
小沢裁判のニュースを見たので本棚から引っ張り出しました。
一部を抜粋します。
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「角栄を縛り首の木に吊るせ」の大合唱。
日本のマスコミは暴民化した。暴民化した大衆の狂気が、
デモクラシーの墓穴を掘る。保安官は断固として、
これに散弾銃を放たなければならない。
(『田中角栄の大反撃』3頁)
いや、ジャーナリストが、法的責任と政治的責任と
倫理的責任の区別がつかない罪は、これよりずっと重い。
(『田中角栄の大反撃』11頁)
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では、法的責任と政治的責任の違いは何か。
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欧米デモクラシー諸国においては、刑事責任と政治責任とは、
いわば正反対に考えられている、ということである。
(『田中角栄の呪い』97頁)
刑事訴訟の場合だと、
挙証責任(裁判で、証拠はこれだと証明する責任)は、
一方的に検察側にある。
(『田中角栄の呪い』97頁)
しかし、欧米デモクラシー諸国における政治家の責任のとり方は、
これと正反対。挙証責任(アリバイ証明の責任)は、
一方的に政治家の側にある。
スキャンダルの疑いをかけられたとき、
反証をあげて疑いをはらすのは一方的に政治家の責任である。
賄賂を取ったようでもあり取らないようでもあるという場合には、
灰色というわけにはゆかないのだ。
政治家の方で取っておりませんということを証明しないと、
これは取ったことにされてしまう。
欧米デモクラシー諸国ではこう考える。
(『田中角栄の呪い』98頁)
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ということは、小沢氏が政治家としてなすべきことは、
国会で「反証をあげて疑いをはらす」ことです。
たとえ裁判において無罪判決が出ようとも、
国会で疑いを晴らせない限りは
政治責任を果たしたことにはなりません。
社民党は小沢氏が衆議院の政治倫理審査会で
説明を行うよう求めてきました。
手前味噌ながら、政治責任の本質を踏まえた主張です。
また、デモクラシーの本質について、
小室氏はこう述べています。
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デモクラシーの理論では、ひとたび選挙の洗礼を受ければ、
すべての政治責任は免除されるという考え方は、
いまだに日本人にアレルギー反応を起こされるが、
これがデモクラシーである。
もしこれを否定すれば、ただちに国民主権が否定される
(つまり、国民の決定が最終的であるということが否定される)
ではないか。
(『田中角栄の呪い』103頁)
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曹操の「求賢令」のように
不倫をしようが賄賂を受け取ろうが、
才能があれば用いるという考え方です。
そして用が済めば、主権者たる国民が選挙で権力の座から降ろす。
「偉大なる人々への忘恩は強い国民の徴候なり」
というのは、こういうことを指すのでしょう。
繰り返しになりますが、
小沢氏がなすべきことは国会の場で弁明することです。
そこで疑いを晴らせるかが、
議会人としての小沢さんの正念場といえるでしょう。
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