九州神社紀行-ブログ

北九州近郊を中心に神社および周辺風景の撮影日記です。

靖國神社(東京都千代田区)

2012-12-08 21:52:00 | 神社参拝ー関東

 12/08(土)昭和16年(1941年)のこの日、日本は大東亜戦争に突入しました。真珠湾攻撃のこの日から昭和20年8月15日の終戦まで日本人だけでも300万人を越える尊い命が失われました。現在の平和と繁栄はこの犠牲のうえに成り立っています。
 2度とこのような戦争を起こさないことを祈って、靖國神社(東京都千代田区)を掲載しました。

 現在、選挙の真っ最中ですが、憲法9条を変えて自衛隊を国防軍にし、海外に出て行って米軍と共に戦争をする集団的自衛権を主張する、お腹が痛くて総理大臣の重責を放り投げた出戻り総裁や、核武装を唱える自称暴走老人などぶっそうな人物が注目されていますが、絶対に認めることはできません。

 靖國神社(やすくにじんじゃ)
【鎮座地】〒102-0073 東京都千代田区九段北3丁目1-1 旧武蔵国 豊島郡
【御祭神】靖國の神
【例祭】
【旧社格等】別格官幣社 単立神社
【御由緒】
 靖國神社の概要
靖國神社は、我が国が幕府政治体制から近代国家体制に大きく生まれ変わろうとする時に、不幸にして避けられなかった明治維新の内戦(戊辰戦役)において、国のために一命を捧げた人たちの霊を慰めようと、明治二年(一八六九)六月、明治天皇が「東京招魂社」として現在の位置に建てられたのが起源で、同十二年(一八七九)には、「靖國神社」と改称されて今日に至っている御社です。

 明治天皇が命名された、この「やすくに」という御社号には、「国を平安(安の字は靖に通ずる字)にし、平和な国をつくり上げる」という御心がこめられ、祀られている神々も、すべてこの天皇の御心のように、祖国永遠の平和とその栄光を願いつつ、日本民族を守るために掛け替えのない尊い生命を国に捧げられた同胞たちで、これらの方々は、身分・職業・年齢・性別等にかかわりなく手厚く祀られています。明治二年(一八六九)六月に、戊辰戦役で戦死された三千五百余柱の方々をお祀りしたのを初めとし、その後に起こった「佐賀の乱」・「西南の役」・「日清戦役」・「日露戦役」・「第一次世界大戦」・「満州事変」・「支那事変」・「大東亜戦争」等の事変・戦役で戦死された方々、さらに嘉永六年(一八五三年、いわゆる黒船が浦賀沖に来航した年)以来明治改元までの十五年間の幕末多難時代に、「安政の大獄」や「禁門の変」等による犠牲者を始め、国事に盡してたおれられた方々(吉田寅次郎(松陰)・橋本左内・坂本龍馬・高杉晋作・頼三樹三郎・真木和泉守・清川八郎・中岡慎太郎等々、歴史上に著名ないわゆる幕末の志士、並びに平田捨四郎・仁位馬寿ら生後六ヶ月の無名の志士家族ら数千柱の方々)をも明治二十年(一八八七)ごろから合せ祀り、現在の御祭神総数は二百四十六萬余柱に及んでいます。

 靖國神社というと、戦死した軍人ばかりを祀っている神社のように思われがちですが、決してそうではなく、五萬七千余柱の女性の御祭神も含まれ、これらの中には、従軍看護婦を始め、主婦、小・中学校の児童・生徒、それに二歳にも満たぬ童女さえも含まれています。
 一、二の具体例をあげますと、幕末時代のことですが、元治元年(一八六四)、常陸国(現在の茨城県下)水戸藩で起こった事件で死歿した田原彦三郎道綱という侍の妻多加(三十五歳)とその長女千代(十七歳)、二女喜代(二歳)は、連帯者として幕府の手に捕えられ、獄中でたおれたため、明治二十四年に合祀されました。
 また、沖縄で戦歿した「ひめゆり」・「白梅」等の七女学校部隊の女生徒の方々、「対馬丸」で沖縄から鹿児島への学童疎開中、悲惨にも敵潜水艦によって撃沈されて、幼い生命を断たれた小学校女子児童たち、大東亜戦争終結直後の昭和二十年八月二十日、ソ連の不法侵攻を最後の最後まで内地に通話し続けて、ついに自決殉職された樺太(現在のサハリン)真岡の女子電話交換手の方々らも皆、昭和三十年代から四十年代にかけて合祀された女性御祭神の方たちです。
 さらにまた、大東亜戦争終結時に責任を負って自決された方々、いわゆる戦争犯罪人として連合国側によって一方的に処刑された千余名の方々(当神社においては、これらの方々を「昭和殉難者」と呼称しています)、民間防空組織の責任者として敵機の空襲下に活躍中爆死された方々、学徒動員中に軍需工場等で爆死された学徒らも皆、御祭神としてお祀り申し上げております。
 このように靖國神社には、戦場で戦死された軍人、軍属ばかりでなく、文官、民間の方、女性をも含めた多種多様の御祭神が祀られており、日本国民だれしもが崇敬し、奉賛するに相応しい御社なのです。

 なお、御本殿に向かって左側回廊の外側に、元宮と鎮霊社という二つの小さな御社があって、元宮というのは、文久三年(一八六三)、幕末の国事にたおれた志士の霊を慰めようと、京都において少数の有志が幕府の目をはばかって、ひそかに建てた小祠が元で、改築等幾多の経過を経て七十年後の昭和六年、靖國神社に奉納され、招魂社の元をなすともいうべきものとして、元宮と称して今日に至っています。
 鎮霊社(昭和四十年七月創建)には、靖國神社に合祀されていない方々の御霊と、国籍を問わず、萬国の戦死者あるいは戦禍犠牲者の霊が祀られています。右二社は、御本殿の神々と同様、日々宮司始め神社職員によって奉仕されています。

 神社として一番重要な祭典は春秋の例大祭と合祀祭です。「春季例大祭」は、毎年四月二十一日から二十三日まで、「秋季例大祭」は、十月十七日から十九日までのそれぞれ三日間にわたって執り行われ、これらの祭典には勅使(天皇の御使者)が差しつかわされ、皇族方も親しくご参拝になります。
 また、神社ご創立以来、天皇・皇后両陛下のご参拝も度々行われ、明治時代に十一回、大正時代に五回、昭和になってからは実に五十四回の行幸啓をあおいでいます。「みたま祭」は、昔から我々日本国民の多くが先祖の祭をする、いわゆる「お盆」にあたる七月十三日から十六日までの四日間執り行われ、奉納された各界名士の揮毫ボンボリ、御遺族・戦友・崇敬者らから奉納された提灯が参道を埋めつくし、年間一番多くの参詣者をお迎えする夏祭ともいうべきものです。
 この外神社としては、新年祭、建国記念祭、御創立記念日祭、明治祭、天皇御誕辰奉祝祭、月次祭(毎月一日、十一日、二十一日)、さらに毎日の朝夕の御饌祭、永代神楽祭、御遺族・戦友による慰霊祭、昇殿参拝等をご奉仕申し上げ、永代神楽祭では、お申込みの御遺族等のご参列を求め、毎年永代にわたり御祭神のお名前を申し上げ、御神楽を奉奏して神霊をお慰めいたしております。

 遊就館とその周辺は、神社参拝後必ず立ち寄らるべき聖域で、館内には御祭神方の魂魄のこもった御遺書・御遺品等が展示され、館外にも、これまた御祭神方が愛撫駆使された火砲・機関車・魚雷等が展示され、参拝で浄化された参詣者の心は、さらに一段と浄化感応されることと思います。

 以上が靖國神社の創建とその性格、御祭神並びに祭典についての概要です。
今日の我が国の安泰と繁栄が、靖國神社の御祭神となられた方々の献身奉公によってもたらされたということに思いをはせて、子々孫々に至るまで、この御社を護持していただきたいと願う次第であります。
(平成祭データ)

 東京都千代田区九段にあります。地下鉄都営新宿線、東西線、半蔵門線の九段下駅から徒歩5分で表参道入口です。
右手に「靖國神社」の社号標、緩やかな坂道の上に大鳥居が聳えています。

一の鳥居(大鳥居)から参道
 「空を突くよな大鳥居、、」と歌われた大鳥居です。現在の鳥居は昭和49年(1974)再建された2代目で高さ25mあります。

大村益次郎銅像
 参道を進むと、石鳥居からの参道との交差点中央にあります。日本最初の西洋式銅像として、明治26年(1893)建てられました。 氏は近代日本陸軍の創設者で靖國神社の創立に尽力された長州藩士です。

石鳥居
 表参道の左(南側)にあります。参道南側の駐車場への入口です。昭和7年(1932)建立、正面に大村益次郎銅像が見られます。

二の鳥居
 大村益次郎銅像から100mほど進むと神門の前にあります。明治20年(1887)建立、青銅製の鳥居としては日本一の大きさを誇るとのことです。


神門
 二の鳥居をくぐると左に昭和15年奉納された大手水舎、正面に昭和9年(1934)に建てられた神門です。

神門から社殿のある境内
 神門を入ると左に斎館・社務所、右には能楽堂があります。正面参道両側に靖国の桜、中央の二つの扉の菊花の紋章は直径1.5mあります。

三の鳥居(中門鳥居)
 社殿のある境内の入口にあります。現在の鳥居は平成18年に埼玉県の檜を用いて立て替えられたものです。

拝殿 
 中門鳥居をくぐると直ぐ右に授与所から参集殿、正面に拝殿から本殿と続いています。
現在の拝殿は明治34年(1901)建てられたもので、平成元年(1989)屋根が葺き替えられています。

本殿
 現在の本殿は明治5年(1872)建てられたもので、昭和61年(1986)から改修工事が行われ平成元年(1989)竣工しました。
御祭神は幕末の嘉永6年以降明治維新から大東亜戦争までの諸事変、戦争において祖国に殉じた英霊240余万柱です。

社殿全景 
 当社は明治2年(1869明治天皇によって創建された東京招魂社が始まりで、明治12年(1879)「靖国神社」と改称されました。
明治天皇が命名された「靖国」という社号は、「祖国を平安にする」「平和な国家を建設する」という願いが込められています。

 創建の目的は世の平和を願い国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝えることにあります。

元宮
 社殿の左(南側)回廊の南門外にあります。
文久三年福羽美静ら津和野藩士が中心となり、京都祇園社に小祠を建て徳川斉昭卿等維新の志士四十六人の霊を祀る。
後に幕府の嫌疑を恐れてこれを取り壊し、福羽邸内にひそかに建てた小祠に霊璽を移して祀った。
奠都に伴ひ更に東京に移されて祭祀が続けられたが、招魂社のさきがけとも言ふべき由緒に鑑み、昭和六年福羽邸より神社に遷座、元宮と称して今日に至る。
   例祭日 四月一日
 (社前案内板より)

鎮霊社
 元宮の左に並んであります。
明治維新以来の戦争・事変に起因して死歿し靖國神社に合祀されぬ人々の霊を慰める為昭和四十年七月に建立し萬邦諸國の戦歿者も共に鎮齋する。
  例祭日 七月十三日
 (社前案内板より)

遊就館
 境内右(北側)にあります。明治15年1882)に開館。遺品などを収蔵、展示する施設で、内部には零戦、泰緬鉄道C56型機関車なども展示されています。

遊就館から靖國会館等
 周囲には、特攻勇士の像、母の像、戦没馬慰霊像、鳩魂塔、軍犬慰霊像等が奉納されています。背後のビルは法政大学富士見坂校舎です。

拝殿から中門鳥居
 表参道は中門鳥居から神門、大鳥居まで綺麗に整備された参道が一直線に続いています。

神門から二の鳥居
 表参道は両側に樹木が繁り、都心と感じさせない雰囲気が漂います。

二の鳥居から大鳥居
 一直線に延びる参道両側には多くの灯篭が奉納されています。大鳥居の向こうには東京理科大学九段校舎が見られます。

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