九州神社紀行-ブログ

北九州近郊を中心に神社および周辺風景の撮影日記です。

廣瀬神社(大分県竹田市)、他に参拝

2008-04-06 20:58:31 | 神社参拝
 4/04(金)、ちょっと遠出して前々から行こうと思っていた大分県竹田市に行ってきました。
 目的は、「日本さくら名所100選」に数えられている岡城址の桜と、日露戦争の勝敗を決する旅順港閉塞作戦で部下の杉野兵曹長を捜索、敵の砲弾により壮烈な戦死を遂げ軍神第一号と言われた当地竹田ご出身の廣瀬中佐を祀る「廣瀬神社」、他の参拝です。

 いつもより30分遅れの07:30出発、ルートは北九州から国道322号線を南下、香春町から英彦山、陶芸のまち小石原を通り、国道211号線で大分県日田市に入りさらに国道212号線を熊本県小国町を目指します。小国町から国道442号線で全国区になった黒川温泉、九州本土最高峰の久住連山のふもと久住高原から竹田市に到着の総距離160kmのコースです。途中で面白い事に気付きました、黒川温泉を過ぎてすぐに白川温泉とあり、さらに進むとなんと赤川温泉の案内板が目に入ってきました。黒、赤、白、とまるでウイスキーの等級みたいですね。やはり黒が最上級でしょうか。いつか全部試してみたいものです。
 第一の目的地岡城址には11時30分前に到着しました。この桜は近日中に掲載します。

 最初は廣瀬神社です。

廣瀬神社(ひろせじんじゃ)
【鎮座地】〒878-0013 大分県竹田市大字竹田2020 旧豊後国 直入郡
【御祭神】廣瀬武夫 (合祀)護國の英靈
【例祭】 5月27日 例祭
【旧社格等】県社
【御由緒】
 広瀬神社由緒記
鎮座地 大分県竹田市大字竹田二〇二〇
祭神  海軍中佐 廣瀬武夫命
    武田直入地区戦没者 一六二七柱
神社沿革
 明治三十七年三月二十七日・旅順港閉塞における広瀬中佐の壮烈な死は、時を経て益々人々にその人格を慕われ、神社創建の声が高まり、昭和五年十二月・神社敷地を決定、昭和六年十月奉賛会が結成され、全国各地からの熱心な奉賛と寄進によって、昭和十年三月・社殿が落成した。同五月二十五日鎮座祭を斉行し、県社に列せられ、仝二十七日、中佐誕生日を例祭日として大祭を挙行。
 戦後は政教分離により宗教法人廣瀬神社となり、昭和二十三年四月、竹田市及び近郷出身戦没者を合祀した。
 最近では武人としてのみではなく、上司、部下、友人とそれぞれに慕われ、よき周囲に恵まれてその本分を尽くした生き方をした中佐の人となりが改めて人々に見直されている。

廣瀬中佐略年譜
明治元年5月27日 旧岡藩士席瀬重武の次男として竹田町茶屋ノ辻に生る
仝 8年 4月    母登久子逝去
仝10年11月   父重武高山区裁判所に転任の為飛騨高山煥章小学校大学
仝15年 3月    煥章小学校卒業同校助教となる。
仝16年10月    上京 攻玉社入学
仝18年11月    兵学校入学
仝22年 4月 仝校卒業 海軍少尉候補を任ぜられ練習艦比叡に乗組む
仝27年 7月 日清戦争従軍 仝年10月扶桑乗組
仝29年 4月 横須賀水雷艇隊長となり、盤城艦に乗組む
仝30年 6月 ロシア留学を仰せ付けられる
仝30年12月 祖母ちま子病死
仝32年 4月 ロシア駐在員となる
仝33年4月~ 英・仏・独に出張
仝33年 9月 海軍少佐に任ぜられる
仝34年 4月 父重武逝去
仝35年 1月 露都出発、シベリアを経由しての帰途、チタよりハバロフ
スク迄馬橇にて単独行を果たし3月28日帰朝
仝35年 4月 戦艦朝日水雷長、兼分隊長に任ぜられる
仝37年 2月 日露開戦、第一回閉塞隊として報国丸指揮
仝37年 3月26日  海軍中佐に任ぜられる
仝37年 3月27日  第2回閉塞隊として福井丸を指揮し、午前5時旅順港口に
         て戦死す。  享年37才
  仝 日    叙功3級授金鵄勲章叙勲4等授旭小受賞(4月正4位を贈らる)
仝37年 4月13日  東京青山斎場にて海軍葬
仝40年 5月    竹田山下公園に銅像建つ(戦時中に供出)
昭和10年5月25日 廣瀬神社 鎮座祭

 岡城址から竹田市街への道を下ってトンネルを出たすぐの竹田郵便局の手前が参道入口です。

 廣瀬中佐像
日露戦争の旅順港閉塞作戦における壮烈な戦死で軍神題一号と云われる中佐の勇姿です、一の鳥居の左にあります。

 参道から神門
 石段の参道を上り、境内入口の鳥居をくぐると綺麗に手入れされた境内です。右に手水舎、左は社務所です、ご朱印をいただきました。

 拝殿

 拝殿の扁額「忠勇義烈 海軍大将伯爵 東郷平八郎題」とあります。

    中佐の遺影

 本殿 
 昭和10年3月完成しました。台湾桧材が使われています。
社殿の左および裏は岩盤を切り開いた壁が迫っていて境内整備に多大の労力を要したように思われます。

 慰霊碑
 戦没者合祀十周年記念事業として、昭和三十四年・遺族会の発起で建立、製作は郷土出身の彫刻界の大家故朝倉文夫翁の御厚意になるもので、石は翁が自ら厳選した岡山産赤御影石を寄贈されたもの、その石組は、仁・義・礼・智・信を意味している。(神社パンフレット)

 巡洋艦比叡のマスト
  神殿向かって左の岩上に設置。中佐が兵学校卒業後初めて乗艦したのが初代比叡である。二代目比叡は第二次大戦に活躍したが、昭和十三年マスト取替の際、中佐とのゆかりをもって海軍より奉納された。昭和二十八年の台風で上部が破損し、昭和四十八年、地元海友会の発起により修理復元されたが、又老朽化の為平成八年五月に上部を解体した。(神社パンフレット)

廣瀬武夫記念館(境内右にあります)
 神社創建五十年を記念し昭和六十一年五月に建てられたもので、軍艦朝日カッターを始め、中佐及び家族の手紙や写真、ロシア駐在時代の愛用品、合祀された戦没者の遺品等を展示。

中佐ゆかりの戦艦朝日のカッター
  カッターの由来
 このボートは、戦艦朝日のカッターで、昭和12年海軍から奉献されたもの。
軍艦朝日には、広瀬武夫が少佐当時水雷長兼分隊長として乗組み、艦隊のカッター競技には指揮官となり、朝日のカッターが優勝した深い因縁が残されている。
 名称   アサヒ3号
 長さ   8メートル70センチ
 巾    2メートル70センチ
 オール数 10挺
 定員   12名
 最大乗員 50名 
  (案内板)
 
16歳の廣瀬武夫

 境内から参道竹田市街地

 ご存知の方はご存知の文部省唱歌「広瀬中佐」
お聞きになりたい方はつぎからお聞きください。
 http://www.d1.dion.ne.jp/~j_kihira/band/midi/hirose1.html
1.とどろく砲音(つつおと) 飛来る弾丸
  荒波洗う デッキの上に
  闇をつらぬく 中佐の叫び
  「杉野は何処(いずこ) 杉野は居(い)ずや」
2.船内くまなく たずぬる三度(みたび)
  呼べど答えず 探せど見えず
  船は次第に 波間に沈み
  敵弾いよいよ あたりに繁(しげ)し
3.今はとボートに 移れる中佐
  飛来る弾丸に 忽ち失(う)せて
  旅順港外 うらみぞ深き
  軍神廣瀬と その名残れど
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2 コメント

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私も参りました廣瀬神社へ (aonosato)
2010-10-25 07:32:05
はじめまして。
10月23日に竹田市で開催された「廣瀬武夫
フォーラム」参加の折、廣瀬神社へ参拝させて
いただきました。竹田は鄙びた城下町ですが、
廣瀬中佐をはじめ各界偉人を輩出している地、
なのですね。山口県萩市を思い出しました。
ご来訪ありがとうございます。 (noyama)
2010-10-26 06:59:57
aonosato 様

貴ブログ拝見しました。

 竹田のお土産品の数々、YOU TUBEの「明治天皇と日露戦争」など簡潔に纏められていて、大変楽しく、参考になりました。

 今後とも宜しくお願いいたします。

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