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本音と建前の中身を考える

2017-05-05 15:25:01 | 日記
 復興省の大臣が東北に対する度重なる差別的発言で辞任しました。マスコミは一様に鬼の首でも取ったかのように報じていましたが、何時ものことながら、特に最近では、この種の報道には首を傾げざるを得ない気持ちでいます。一強多弱という政治状況がその背景にあることも確かだと思いますが、でもそれだけなのでしょうか。根底には、経済成長の終焉と不確実性の増大による格差社会の進行と社会不安に対応できない人々が抱く本音の部分を政治屋が汲み取った発言であったようにも思えるのです。
 東日本の被災者に対し、「つまるところはお金なんでしょ」とか言った某大臣(その父親の障害者に対する侮蔑的発言も重なります)、更には教育勅語の復権を堂々と語る防衛大臣などなど、背景には彼らの発言を支持する人々がそれなりに増えていることも彼らを力づけているような気がしています。度々取り上げているように、「金持ち喧嘩せず」、その反対に分け前が少なくなれば、他人の懐が気になったり、愚痴不満も膨らむのが世の常です。良くも悪くも、親方日の丸と言われた公務員の給与叩きやかつての労働組合い潰しなどはその良い成功例? だったでしょうし、対外的には今や日常化している嫌中・韓・北朝鮮問題もその延長線上にあることになるのでしょう。元と言えば経済不況のなせる業。

 かつて社会心理学者のE.フロムは「人間は、その努力の大部分を商品ないし物質の生産と交換に集中することによって、自分自身を一個の物質に変えてしまった。」と指摘していますが、フロムが今日の有様を分析すれば、正に経済的価値にしか重きを置かなくなった物質に変換されてしまった現代人の本音を政治屋が代弁したに過ぎなかった、と分析するかもしれません。政治屋の「失言」? を建前で批判することもマスコミの避けられない役目なのでしょうが、それに振り回されて一件落着では何とも情けなく、内外共に刺々しい時代状況を考えると危惧感ばかりが募ります。
 
 現在松本の康花美術館で、「食4」という作品の横に「まず食うこと、それから道徳」という言葉をパネルにして展示しています。今から90年ほど前、ドイツの劇作家で詩人のブレヒトが、『三文オペラ』という戯曲の中で残した言葉です。この言葉から連想されるのは、イギリスの文豪ディケンズ(『オリバー・ツイスト』)や樋口一葉(『にごりえ』や『十三夜』)の世界です。文学で表した当時の食うや食わずの貧困状態を社会科学的に分析したのが、エンゲルスの『イギリスにおける労働者階級の状態』という著書でした。それから一世紀以上もたった第二次大戦後の物のない時代、僕は、芥川龍之介の息子で作曲家の芥川也寸志が、学生時代アルバイトで稼いだお金で、母親の大好きなまんじゅうを買って帰る途中、そのまんじゅうを道に落としてしまったけれど、拾って持ち帰りまんじゅうの汚れた部分を拭いて母と食べた、という自伝を読んだことがあります。多少、その時代を共有している部分があるだけに、芥川也寸志は、僕にとってブレヒトやディケンズ、樋口一葉とともに食にまつわる忘れ得ぬ人の一人となっています。
 それからさらに70余年、今日の格差社会はそれと比肩するほどのものなのか。巷には物があふれ、おもてなしのご馳走も目移りするばかり、そのあげく、食べ残しは年間1千万トン近くにも上ります。こんな「豊かさ」を持続させる経済成長が続くはずがないのは当然なのです。と言って、政治屋ばかりでなく官製の「知識人」が言うように、経済成長終焉の先にあるのは「不確実性」という「闇」ばかりなのか。僕にはそうとは思えないのです。古来より、自省するところに希望あり、至言だと思います。
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