実はドイツの哲学者よりも七、八百年も前、中世の仏教界のみならず日本の芸術・文化に多大な影響を及ぼした源信は、「足ることを知らば貧といえども富と名づくべし、財ありとも欲多ければこれを貧と名づく」と言っています。
ここで言う「贅沢」も「多欲」ももとと言えば「自我」のなせる業ですが、インドの詩人タゴールは、「人間の意識の範囲が自我のすぐ近くにあるものに限定される限り、、、、精神は常に飢餓に瀕しているので、健全な力を示す代わりに刺激ばかりを求めるようになる」と現代社会を鋭く射ていますが、ヤスパースはこの言葉を引き受けるかのように「我意を貫こうとする粗暴な態度は反転して絶望となる」と、行過ぎた「自我」の末路を厳しく分析しています。
カントやヤスパース、それにタゴールも源信の直弟子ではないかと錯覚しそうなまでに優れた思想家・宗教家が日本にもいたことを再認識して欲しいものです。その最たる実践化の一人が皆さんもよく知っておられる、江戸時代の良寛さんです。「少欲知足」「知行合一」、彼の日常性とそこから生み出された詩と和歌は、「腹八分目」、いや「腹七分目」の精神を表現したものに他なりません。「腹八分目」は何も食事の食べる量の多い少ないではなく、正にこうした日本や世界の哲人たちの哲学思想を受け継いできた含蓄ある言葉なのです。
ここで言う「贅沢」も「多欲」ももとと言えば「自我」のなせる業ですが、インドの詩人タゴールは、「人間の意識の範囲が自我のすぐ近くにあるものに限定される限り、、、、精神は常に飢餓に瀕しているので、健全な力を示す代わりに刺激ばかりを求めるようになる」と現代社会を鋭く射ていますが、ヤスパースはこの言葉を引き受けるかのように「我意を貫こうとする粗暴な態度は反転して絶望となる」と、行過ぎた「自我」の末路を厳しく分析しています。
カントやヤスパース、それにタゴールも源信の直弟子ではないかと錯覚しそうなまでに優れた思想家・宗教家が日本にもいたことを再認識して欲しいものです。その最たる実践化の一人が皆さんもよく知っておられる、江戸時代の良寛さんです。「少欲知足」「知行合一」、彼の日常性とそこから生み出された詩と和歌は、「腹八分目」、いや「腹七分目」の精神を表現したものに他なりません。「腹八分目」は何も食事の食べる量の多い少ないではなく、正にこうした日本や世界の哲人たちの哲学思想を受け継いできた含蓄ある言葉なのです。
昨日友人の吉澤君とネパール人の妻と一緒に康花美術館にお伺い致しました佐藤と申します。
興味深いお話、素晴らしい絵
愉しいひとときでした。
ありがとうございます。
こちらのブログを吉澤くんに教えてもらって、ブログの記事を読ませて頂いております。
また近いうちにお邪魔いたします。
私もブログを細々ながらやっております。
もし宜しければ、お時間があるときに覗いて頂ければ望外の喜びです。
http://spacenowhere.com/blog/