結構忙しい一日でした。
父の家の薪ストーブの煙突掃除をすることになっていたので、まだ薄暗い早朝6時に頭にヘッドライトつけて屋根に上って煙突掃除を始めました。早朝作業と言うより、こんな暗がりの中で屋根に上っていたらどう見ても怪しい人にしか見えないと思うけど、ストーブに薪をくべられる前が勝負です。
それから昨日の夕方亡くなったお婆さんの家に行き、組の人たちと葬儀の段取りをしました。今回の私の役回りはお告げと火葬場と野(お墓)の担当。最年少はいろいろ役回りが多い。いつも私と組まされている元教員の2番目の年少者は今回喪主。
告別式の後の念仏の先達も今回は私の順番だったのですが、このあたりでは「寒念仏」と言って、寒の入りから30日間は葬儀の後の地元住民による念仏をやりません。
昔と言っても大昔はこの寒念仏の期間は村人が集って鐘を鳴らし仏様の供養していたそうで、その名残と言うより恩恵で簡略できたのかもしれません。大昔はお寺ではなく自分たちで死者を弔っていた名残の念仏です。
さすが昭和のドまん中を突き抜けた人たちはすごいなと感心したことがありました。弔問に来たおじいさんが、竹を切って作った花瓶をもってきて花を一輪さしてまくら花にしました。多分、今朝この竹を切ってきたのでしょう。
枕もとの花一輪で雰囲気がずいぶん変わると言うのか、亡くなった方や供えた方の人柄を語るようで妙に胸をかきむしられました。お悔やみの言葉を口にせずとも花一輪で語ってしまう「粋」。日本映画の世界だ!と感動しました。
午前中は二人で組になって手分けをしてお告げに回りました。古い家系なので親戚も多く私の家もその親戚筋の端くれになりますが、200年以上昔からの付き合いみたいです。よばれる人の名簿を見るとだいたいつながりがわかるので田舎は恐ろしい。
弔問に来たお年寄りの話を聞いていたら、90代のお婆さんですが、足が痛くて病院に通っていたところ耳の遠いのが治って、今では補聴器が必要なくなったそうです。足の治療で耳が治るとは、大正生まれは体の構造が現代人とは違うのでしょうが「明治はもっとすごかったぞ。」と言われました。
私は地元のお告げ担当でしたが、つい先月までは頻繁に顔を合わせていた人たちばかりなので、急な訃報に驚く方も多かったです。
お告げやお寺との相談は必ず2名以上で行くのがしきたりで、この地域の民話では面倒だからとひとりでお告げに行った男がもののけに取りつかれて帰ってくる伝説があります。今は大方電話で片づけるのですが、村内は直接回るようにしています。
自宅ではなく葬祭場で葬儀を行うのにクルマを運転しないお年寄りもいるので、お告げに回りながら近所で乗り合わせて乗せて行ってもらう人の手配もしなければなりませんでした。
お告げから戻ってくると「野」の仕事の一つでお墓の掃除。我が家のすぐ下にお墓がありますが、年中このお婆さんがお墓の掃除をしていたのであらためてやるようなことはなく、バケツに雑巾もっていって石塔を洗っただけでした。
墓碑一覧には一番古いもので明和三年(1776年)の戒名がありました。20年前に亡くなったタダちゃん(このお婆さんの連れ合い)が整備したお墓ですが、タダちゃんが亡くなる5日ほど前に長年愛用のクボタの帽子をかぶって我が家に顔をだし、いろいろ山の話などしたことを思い出しました。
お墓の掃除をしているとこれも習わしの通り、葬儀委員長がお清めの日本酒をもってやってきました。
「タダちゃんが死んで20年もたつのか」とお清めいただきながら思い出話になりました。タダちゃん健在の頃はこうした儀式を仕切ってくれたので頼り切っていたそうですが、仕切るどころか、自分が送られる順番待ちになってきたなんて話題になりましたが、私より若い人がいない組なので、私の時にはどうなるんだろう?「無縁仏で決まりだな!」とお墓で酒盛りして本日は解散。
あわただしくはなかったものの、民俗学満載の一日でした。