のすたる爺や

文明の果てなる地からのメッセージ

一日氷点下

2016年12月08日 | 日記・エッセイ・コラム

 日陰では昼間でも氷が解けない寒い一日でした。

 が、天気が良かったので軽トラの中でお昼を食べながら日向ぼっこをしました。

 冬のハルビンに行ったとき、夜は氷点下40度まで下がりますが、昼は温かいと氷点下20度くらいです。氷点下20度なら日向ぼっこができるんです。日のさしている下でじっとしているとそこそこ温かくて気持ちがいい。これが氷点下30度になると顔の皮が張り裂けそうでとても外に立っていられない。

 お天道様は偉大です。

 年の瀬になるとあちこちで道路工事が始まります。

 なぜこの忙しい時期に道路混雑の素を?と疑問に思うけど、予算が通過して実行に入るのがこの時期になると言うのが一つの説。もう一つは農閑期の労働力を吸収する受け皿。ちょっと前までは「出稼ぎ」なんて呼ばれていました。

 私が小学生の頃は農家の半数ほどが今頃の季節になると雪の降らない地方の建設業界に出稼ぎに行ってましたし、残った農家はスキー場に行くか山にこもって炭焼をして生活していました。子供たちにすれば父親不在で寂しい思いをと思いきや、お土産が楽しみで各地の話を聞けることも興味深かったようです。父ちゃんたちも家族と離れて息抜きもあったのか、各地での生活を楽しみにしていた一面もあります。

 「出稼ぎ」とセットになっていたのが「逐電」で、出稼ぎ先で色女に引っかかって帰ってこない父ちゃんと言うのも少なからず出たものです。大人たちが話す「逐電」を駆け落ちのことのように覚えてしまったため、「逐電」=「失踪」とは少々イメージが違ってしまいました。まあ、そんな環境で育ちました。

 小学校3.4年の時の担任は日教組活動家でへき地教育に来た進歩的な教師だったのですが、宿題などを忘れると「勉強しないと父ちゃんみたいに一生炭焼して暮らすか!」が口癖でした。そう、私たちの生活は彼女らにとって進歩的ではなかったんですね。今、彼女らの言う進歩的でない生活を守ってきた人たちは「匠」と呼ばれています。彼女らが「差別用語」と位置付けた「百姓」は農業を基軸にしながらも多様な職業をこなしながら生活している人たちのことで、「教員」よりは多才です。

 冬になると炭焼農家は山の中に炭焼き小屋を建て、時としてそこに寝泊まりしながら炭窯の周りのならの木を切って炭を焼き、雪がなければ牛の背中に括り付け、雪が積もると橇で里まで下すのですが、こうした炭窯の後は今も林の中で見つけることができます。炭窯跡の木は良く育つので見分けがつきます。多分炭の残りや灰が土壌を豊かにしてくれるからなんでしょう。

 こちらでは主にコナラを炭の原材料にしていましたが、元々そのために何百年もかけて人里近くの山がナラの林に仕立てられてきました。広葉樹は萌芽更新と言って切ったカブツから新しい芽が出るので、炭焼で周辺の木を切っても十数年すればまた使える木が育っている。巨木になる前に切るのでカシノナガキクイムシもつかない。今問題になっているこの虫は老木に巣食う虫で、ナラ枯れ病の原因にもなっています。

 この虫がつく前に切って炭にして灰や炭のかすが土壌にまかれることで土地の健康も保っていた。しっかりした環境循環型システムだったんです。これって智慧ですね。

 現在、村の炭焼職人はゼロになってしまいました。

 食っていけないから離れて行った分野ですが、あと5年もすればこうした技術を持っている人たちもいなくなります。温故知新。失われていく民俗知を探っていけば新しい産業が生まれるのではないか?と何年ももがいていますが、いろいろ壁にあたって苦労しています。

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