のすたる爺や

文明の果てなる地からのメッセージ

環境整備事業

2013年07月05日 | 日記・エッセイ・コラム

 国交省が音頭をとる「街並み環境整備事業」なる助成金制度があるそうで、私の住む地区がこの対象になりそうです。

 今日、地区の臨時総会があり説明会がありましたが、こちらから申請したのではなく役場から「こういうのがあるけど取り組んで見ませんか?」と提示された制度だったので、いまいちよくわからないまま説明に聞き入っていました。

 国と市町村で都市計画に基づいて街並みを作っていく事業で、個人の住宅などを改装する場合この取り決めに合致していた場合「公」がいくらか負担してくれる制度だそうです。

 街並みの景観整備など5年10年のスパンで見ていかなければなりませんが、何しろ高齢化が進んでいるので10年先だ20年先だと言われても実感がない。

 しかも、合併前の村では補助金・助成金を引っ張ってきては必要もない事業をして財政破綻させたばかりか、いまだにそれを引きずっているので「役人が考えることにろくなことはない」と知っている住民はいまひとつ信用していない。

 さらに、役場が「政権でも変わらなければ10年先までこの助成金制度は存在しているはずです。」と言うとおり、また政権でも変わって、頭のいかれた刈り上げ頭のおばさんが「一番じゃなくてはだめなんですか?」なんて仕分けにあえば「はい!おしまいです!」になるのでは?なんて不安があるから疑心暗鬼。

 これが景気の「気」の部分を抑えている犯人ではなかろうか?

 その予算もらってこんな村出て行くほうがよほど街並み整備になるような気もしますが、後の世代のための景観整備は街並みばかりではないと思います。荒れた里山の復興、山林の整備などわれわれ世代が金銭経済にかまけて怠けてきたつけが害獣の進出で浮き彫りになっています。

 もう少し視野を広げて里山と宿場町の復活で景観整備をしていくべきだろうな。と、話を聴きながら考えていました。

 こうした会議や事業では必ずどうでもいい意見をごり押しして話がまとまらないシーンがつき物で、こういう発言をする人は2つのタイプがいます。ひとつは自分の確固たる利益があってそれに向くように話を仕向けようとする人。もうひとつは何でもいいから意見を言って自分の存在感を示したい人。どちらも言うだけ番長で無責任。

 「孟子曰、自暴者、不可與有言也、自棄者、不可與有爲也、言非禮義、謂之自暴也、吾身不能居仁由義、謂之自棄也、仁人之安宅也、義人之正路也、曠安宅而弗居、舎正路而不由、哀哉」

 孟子が言うには、「自分自身を出鱈目にしてしまう人間とは、共に語ることができない。自分自身を投げ出してしまう人間とは、共に何かをなすことができない。何か言えば礼儀をそしる者は、これを自暴という。自分自身を仁に落ち着けて義に則ることができない者は、これを自棄という。仁とは人の『安宅』なのだ。義とは人の『正路』なのだ。その安宅を空けっぱなしにしておいて住まず、正路を捨てて通らないとは、なんと哀しむべきことではないか。」

 「己」を捨てて「公」を重んじる人物がまとめていかなければこうした事業はまとまらないもので、かつて農地の構造改善事業などが行われていた頃、まとめ役になった人は見る見る老け込んでいく様を目の当たりにしました。

 結局、役場も自分たちが非難を浴びたくないから「地域の力で」なんていっているように思えてなりませんが、私たちより上の世代は私利私欲が「公」より優先するものと日教組に教わってきたのでなかなかまとまらないような気がします。

コメント
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