コメント
ありがとうございます
(
石徹白 宇留生
)
2005-09-02 11:54:19
長い間の疑問が解けました。
北方民族=騎馬民族という考えは、一方的あるいは一面的な見方だったというより私の偏見だったということがわかります。
女真は、多方面に陸や海などで経済活動を行っていたという事実は非常に面白いですね。
刀伊の入寇も高校の歴史でも扱われますが、単なる出来事の1つとしてで、関連づけが全くないのは悲しいことです。
”白村江の戦い”や”元寇”はわりと他国と関連づけていますが、”刀伊の入寇”は突然女真がやってくるかのごとくですから。
高校の歴史の授業
(
蒸しぱん
)
2005-09-03 01:25:52
高校の歴史の授業 (蒸しぱん) 2005-09-03 01:24:30
そうそう、学校での世界史の時間は寝てました。つまらなかったんで。なんていうか、名所だけをピンポイントで見ていくバスツアーみたいな。
やはり歴史の面白さは関連性をどれだけ知ることができるか、で大きく変わってきますね。
渤海と藤原仲麻呂政権が連携して新羅を挟撃にかかろうとするエピソードなんかを知ると、日本もユーラシア史とちゃんとリンクしているんだなとうれしかったりもします。
#二重の書き込み、消しておきました。ご安心ください。
恵美押勝の乱
(
石徹白 宇留生
)
2005-09-04 13:07:28
二重書き込みの件ありがとうございました。
>新羅を挟撃
藤原仲麻呂の新羅征伐ですね。計画当初の段階での要因といいましょうか。動機や理由がやや不明瞭といわれておりますね。
結局、道鏡への排斥計画の一環に利用されてしまいますね。仲麻呂の節度使に任命されたあたりから、すでに新羅征伐は仲麻呂の頭の中になく、乱の方へシフトしていったようですが、発覚してしまい恵美押勝の乱のいたってしまうようです。
新羅征伐は、動機に不明瞭な部分があるようですが、その動機の1つとして父である武智麻呂が新羅征伐を計画していてこれを継ぐつもりだったとか。そういえば安禄山の乱にあおられたのではないかと話もあるようです。その安禄山の乱の状況を伝えたのが遣渤海使の小野田守だそうですね。
少し知っていることを整理して見ました。そこでですが、せっかく面白い話をいただきましたのでお聞きしたいのですが、日本国内の内的要因はおいとくとしまして、渤海側の当時の状況ですね。それとこの計画は結局仲麻呂の死でなくなってしまいますが、その後の国際状況をお話し願えないでしょうか。また日本からの遣新羅使や新羅からの新羅使も当時は行き来していますが、それらも何か動きあったのなら併せてふれていただけたらと思います。
了解です
(
蒸しぱん
)
2005-09-08 00:47:16
週末までお待ちいただければ幸いです(^^;;
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北方民族=騎馬民族という考えは、一方的あるいは一面的な見方だったというより私の偏見だったということがわかります。
女真は、多方面に陸や海などで経済活動を行っていたという事実は非常に面白いですね。
刀伊の入寇も高校の歴史でも扱われますが、単なる出来事の1つとしてで、関連づけが全くないのは悲しいことです。
”白村江の戦い”や”元寇”はわりと他国と関連づけていますが、”刀伊の入寇”は突然女真がやってくるかのごとくですから。
高校の歴史の授業 (蒸しぱん) 2005-09-03 01:24:30
そうそう、学校での世界史の時間は寝てました。つまらなかったんで。なんていうか、名所だけをピンポイントで見ていくバスツアーみたいな。
やはり歴史の面白さは関連性をどれだけ知ることができるか、で大きく変わってきますね。
渤海と藤原仲麻呂政権が連携して新羅を挟撃にかかろうとするエピソードなんかを知ると、日本もユーラシア史とちゃんとリンクしているんだなとうれしかったりもします。
#二重の書き込み、消しておきました。ご安心ください。
>新羅を挟撃
藤原仲麻呂の新羅征伐ですね。計画当初の段階での要因といいましょうか。動機や理由がやや不明瞭といわれておりますね。
結局、道鏡への排斥計画の一環に利用されてしまいますね。仲麻呂の節度使に任命されたあたりから、すでに新羅征伐は仲麻呂の頭の中になく、乱の方へシフトしていったようですが、発覚してしまい恵美押勝の乱のいたってしまうようです。
新羅征伐は、動機に不明瞭な部分があるようですが、その動機の1つとして父である武智麻呂が新羅征伐を計画していてこれを継ぐつもりだったとか。そういえば安禄山の乱にあおられたのではないかと話もあるようです。その安禄山の乱の状況を伝えたのが遣渤海使の小野田守だそうですね。
少し知っていることを整理して見ました。そこでですが、せっかく面白い話をいただきましたのでお聞きしたいのですが、日本国内の内的要因はおいとくとしまして、渤海側の当時の状況ですね。それとこの計画は結局仲麻呂の死でなくなってしまいますが、その後の国際状況をお話し願えないでしょうか。また日本からの遣新羅使や新羅からの新羅使も当時は行き来していますが、それらも何か動きあったのなら併せてふれていただけたらと思います。