ポロックというと画家本人の顔よりもエド・ハリスの顔が思い浮かぶのろではございますが
愛知県美術館で開催中の生誕100年 ジャクソン・ポロック展へ行ってまいりました。
回顧展の名にふさわしく、画業の最初期である20歳頃に描かれたものから最晩年(といっても42歳)の作品まで集められておりまして、ドリッピング技法の名品はもちろん、そこに至るまでにポロックが歩んだ、模索というか七転八倒の道のりをたどることができます。また、床に残る絵具跡もそのままに再現されたアトリエ(実物の床の写真がプリントされており、靴を脱いで上がることができます)や、制作風景を記録した映像からは、まさにアクション・ペインティングという言葉どおりの創作方法の、動的・身体的な要素の大きさがダイレクトに伝わってまいります。これは壁にかけられた完成作品を見るだけではちょっと味わえないものでございました。
1940年代半ばまでの作品を見ますと、キュビズムとフォーヴィズムのあいの子のような作品があったり、ピカソやミロからの影響がはっきりと分かるものがあったりと、まあこれはこれでいいんですけれども、ものすごくオリジナルということもございませんで、ポロックよりひと世代前のヨーロッパの芸術家たち、とりわけポロック自身の言葉を借りるならば「ピカソが何もかもやっちまった」後の世界で、新しい、独自の、「だれそれ風」ではない作品を創ることの困難さということがいたく感じられました。
で、その困難さからポンと抜け出た1940年代後半の作品はやっぱり非常によいものでございまして、米アートシーンで熱狂的に迎えられたのも頷けます。

インディアンレッドの地の壁画 1950 テヘラン美術館
この時代のスタイルに留まることをポロックが自らに許していたら、あるいは後年あのように激しいスランプに陥ってほとんど自殺のような最期を遂げることもなかったかも、などということを、ちらと考えました。こんなことをご本人に言ったら「おめーは芸術ってもんが分かってねえぇぇ!」とちゃぶ台ひっくり返されそうですが。
40年代前半にそれなりの評価を得ながらも、「だれそれ風」の良作では満足することができなかったように、独自の表現で名声を築いたのちも、自分自身の模倣に終ることは我慢ならなかったのでございましょう。
スタイルを変え続けたという点ではポロックが超えようと目指した巨人、ピカソも同じでございますが、ピカソは技術的な器用さもさることながら、取材に応じる前に綿密に応答の予行演習をしたり、「ピカソの贋作を描かせたら私にかなう者はない」と言ってのけるなど、心的余裕やメディアさばきの巧みさ、いわば生き方の器用さをも身につけておりました。ポロックは技術においても生き方においても、そうした器用さを持ち合わせておらず、しかもなお、成功と賞賛が約束されたスタイルに留まり続けることもできなかったのでございました。
破滅型天才を地で行くような人生を夏の夜の自動車事故で閉じたポロックが、亡くなったその時に履いていた靴(実物)も、最後に展示されておりました。何てことのない、普通の革靴でございます。画家の所持品であたことを示す痕跡は何もございません。そもそも彼は制作時には靴を履き替えていたようですので、普段靴に絵具がついたりはしなかったのでしょう。しかし、ほとんど新品のようにきれいな革靴、画家の痕跡のかけらもないその靴を見ておりますと、亡くなった1956年には作品を一枚も描いていないことや、映画『ポロック 2人だけのアトリエ』での、糟糠の妻リー(マーシャ・ゲイ・ハーデン)の「ジャクソン・ポロックが絵を描かないなんて!」という悲痛な叫び、そしてこの映画のラストなどが思い出されてしんみりといたしました。
というわけで、ポロックのさまざまな側面をまんべんなく見られるという点でたいへん有意義な展覧会であったかと。ただ、欲を申せば、やっぱり大画面のドリッピング作品をもっと見たい所ではございましたよ。
愛知県美術館で開催中の生誕100年 ジャクソン・ポロック展へ行ってまいりました。
回顧展の名にふさわしく、画業の最初期である20歳頃に描かれたものから最晩年(といっても42歳)の作品まで集められておりまして、ドリッピング技法の名品はもちろん、そこに至るまでにポロックが歩んだ、模索というか七転八倒の道のりをたどることができます。また、床に残る絵具跡もそのままに再現されたアトリエ(実物の床の写真がプリントされており、靴を脱いで上がることができます)や、制作風景を記録した映像からは、まさにアクション・ペインティングという言葉どおりの創作方法の、動的・身体的な要素の大きさがダイレクトに伝わってまいります。これは壁にかけられた完成作品を見るだけではちょっと味わえないものでございました。
1940年代半ばまでの作品を見ますと、キュビズムとフォーヴィズムのあいの子のような作品があったり、ピカソやミロからの影響がはっきりと分かるものがあったりと、まあこれはこれでいいんですけれども、ものすごくオリジナルということもございませんで、ポロックよりひと世代前のヨーロッパの芸術家たち、とりわけポロック自身の言葉を借りるならば「ピカソが何もかもやっちまった」後の世界で、新しい、独自の、「だれそれ風」ではない作品を創ることの困難さということがいたく感じられました。
で、その困難さからポンと抜け出た1940年代後半の作品はやっぱり非常によいものでございまして、米アートシーンで熱狂的に迎えられたのも頷けます。

インディアンレッドの地の壁画 1950 テヘラン美術館
この時代のスタイルに留まることをポロックが自らに許していたら、あるいは後年あのように激しいスランプに陥ってほとんど自殺のような最期を遂げることもなかったかも、などということを、ちらと考えました。こんなことをご本人に言ったら「おめーは芸術ってもんが分かってねえぇぇ!」とちゃぶ台ひっくり返されそうですが。
40年代前半にそれなりの評価を得ながらも、「だれそれ風」の良作では満足することができなかったように、独自の表現で名声を築いたのちも、自分自身の模倣に終ることは我慢ならなかったのでございましょう。
スタイルを変え続けたという点ではポロックが超えようと目指した巨人、ピカソも同じでございますが、ピカソは技術的な器用さもさることながら、取材に応じる前に綿密に応答の予行演習をしたり、「ピカソの贋作を描かせたら私にかなう者はない」と言ってのけるなど、心的余裕やメディアさばきの巧みさ、いわば生き方の器用さをも身につけておりました。ポロックは技術においても生き方においても、そうした器用さを持ち合わせておらず、しかもなお、成功と賞賛が約束されたスタイルに留まり続けることもできなかったのでございました。
破滅型天才を地で行くような人生を夏の夜の自動車事故で閉じたポロックが、亡くなったその時に履いていた靴(実物)も、最後に展示されておりました。何てことのない、普通の革靴でございます。画家の所持品であたことを示す痕跡は何もございません。そもそも彼は制作時には靴を履き替えていたようですので、普段靴に絵具がついたりはしなかったのでしょう。しかし、ほとんど新品のようにきれいな革靴、画家の痕跡のかけらもないその靴を見ておりますと、亡くなった1956年には作品を一枚も描いていないことや、映画『ポロック 2人だけのアトリエ』での、糟糠の妻リー(マーシャ・ゲイ・ハーデン)の「ジャクソン・ポロックが絵を描かないなんて!」という悲痛な叫び、そしてこの映画のラストなどが思い出されてしんみりといたしました。
というわけで、ポロックのさまざまな側面をまんべんなく見られるという点でたいへん有意義な展覧会であったかと。ただ、欲を申せば、やっぱり大画面のドリッピング作品をもっと見たい所ではございましたよ。












ポロック展の感想、ピカソに関してとか、知らないことが書かれていて大変興味深く読ませて頂きました。
コメントありがとうございます。
ピカソのインタヴュー予行演習については、恋人の一人であったフランソワーズ・ジローさんが『日曜美術館』で語ってらっしゃいました。
贋作云々については、『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』(ウンベルト・エーコ/ジャン=クロード・ カリエール 著 2010)他、いくつかの媒体で見かけた言葉ですが、ピカソがこれをどんな文脈で語ったのかは分かりません。
ポロック展の記事なのですからポロック自身についてもっと書いてしかるべきなのですが、ワタクシにとってポロックの作品というのはとても言語化が難しいものなので、映画の話やらピカソの話やらで穴埋めする格好になりました。
これまたポロックが大いに腹を立てそうなことではあります笑。
ポロックの映画を観たのは、大分前の事でよく覚えていませんが、確かにポロックと言うエド・ハリスの顔を思い浮かべてしまいますね、映画の影響力は強いものがあります。 逆にエド・ハリスを他の映画で観ると、ポロックが何故ここにいるの?となりそうです。 既成概念的イメージって不思議ですね。
ところでポロックとピカソでは、やってることが違うのに「ピカソが何もかもやっちまった」と言う処がよく分かりませんがどうなんでしょう? ・・・ ポロックは「ちゃぶ台って何だ」って言うかもしれませんね。
直感的な方向へ行ってもシュルレアリスムに歩み寄りはしなかったり、西欧文明の影響を受けていない民俗的造形にインスピレーションを求めたりした点(ピカソはアフリカに、ポロックはアメリカ先住民に)においても共通するものがあるのかなと。
また、今のワタクシたちはポップアートやらミニマルアートやらをはじめ、「ピカソ後」にも数々の新しい表現が生み出され得たことを知っているわけですが、20世紀半ばに生きたポロックらの世代は、前世紀末から怒濤の勢いで展開したヨーロッパの芸術活動、そしてそこに花開いた様々の表現様式がすぐ目の前にありったけ散乱した状態にあったわけですから、「何もかもやりつくされてしまった」感は否みがたかったのではないかと。
そんな閉塞感の中で、ポロックの悪態は、とりわけその「何もかも」の親玉としての巨人・ピカソを呪ったものではないでしょうか。
それにしてもあの映画でのエド・ハリスの演技は鬼気迫るものがありましたね。思えばあの年のアカデミー賞で主演男優賞がエド・ハリスをまたも素通りしてラッセル・クロウへと渡された時から、ワタクシのアカデミー賞に対する不信が確固としたものとなったように思います。