昨日 母親の「四十九日法要」と「納骨式」を終えました。
葬儀後およそ一か月半、慌ただしさも一段落です。
緊急入院、そして2週間の闘病後、永眠しました。
死因は老衰、数え歳100歳で天寿全う。
大正・昭和・平成・令和を生き抜いた母。
田舎に育ちながら、好奇心と「視野の広さ」は、驚くばかり。
国鉄(今のJR)入社で、電話交換手と駅長のお世話を経験。
若いころの写真には、潮干狩りやピクニックが。80年前にしては活動的。
国鉄の無料パスを使っての、国内の「着物」や「反物」を求める旅。
晩年は「青春十八切符」で、気ままなプチツアー。
電車好きで、転勤族の私の赴任地を必ず訪問してくれました。
樺太(今のサハリン)、台湾、ハワイなど海外へも。ローマ字のサインも覚えたとか。
宅配便で、子供や孫たちへ野菜やお菓子を届けた数は図抜けた多さ。年数十便。
私の娘たちは、「おばあちゃんの玉手箱」と呼んでいた宅配の中身。
新聞紙にくるんだ数多くのお菓子や珍品は、子供をワクワクさせたのでしょう。
クリスマスには、ツリー用の大きなモミの木もどきも。宅配会社も配送に困ったのでは?
国政選挙から市議選まで選挙が大好きだった母親。
交友範囲が広いため、各陣営から「票集め」を依頼されたらしい。
選挙期間中の電話の回数と時間は相当なもの。固定電話で2~3万円使っていたのだから。
一番驚いたのは、県南の大学の学長との交流。
ラジオの放送で学長の話に感動し、電話でアポを取り会いに行ったのです。
電話で学長が「何年生まれですか?」と尋ねると、「12年生まれです。」と母親。
「てっきり昭和12年と思っていたが、まさか大正12年とは・・」と後の学長談。
秘書に案内され、学長室に現れたのが、90歳が近い「婆さん」だったので驚いたらしい。
物おじしない母親は、勉強嫌いでも「社会偏差値」は高かったのでしょう。
農業経験のない母親が、兼業農家に嫁いだため、苦労も。
慣れない農作業で膝を痛め、晩年は整形に通う母親。
花が好きで山野草を集め、庭に移植。中でも「海老根」が大好きでした。
若くして父親が交通事故で亡くなり、30年間独り暮らし。
私には「帰ってこい」とは言わないのに、周囲には「息子が帰る」と期待も。
私の帰省後、旧い家を解体、新築中に脳内出血で倒れた母親。
施設にお世話になりながら、認知にはなりませんでした。
春の白いフジの花の開花時期だけ我が家に帰ってきた母親。
新築の隠居部屋から見る庭の花が楽しみだったようです。
位牌は父親と母親の夫婦位牌にしました。
100歳の人生を終え、あの世で父親と会話しているでしょう。
画像 就実大学の学長の色紙
色紙や本や就実の「せんべい」をいただきました