Storia‐異人列伝

歴史に名を残す人物と時間・空間を超えて―すばらしき人たちの物語

佐賀の奇跡

2007-09-29 13:44:54 | 大和のひと/明治・幕末
「佐賀の奇跡」といっても、佐賀北高今夏の甲子園全国制覇のことではない、すみませぬ。アレは素晴らしい出来事だったが、佐賀というところはむかしから、ときどき突然気球を上げるところなのだ、時流から少し遅れて。鍋島の殿様はじめ一風変った人たちが育つ土壌があって、薩長とも関係ビミューだったようだ、ということについて。

右大臣が踏ン張った あと、どうなったかで、わが近過去探索がとまっていた。アジアをねらう列強がひしめくあの時代、小国は植民地にされてあたりまえのころ。西郷さんの「防衛線を大陸に」は、彼の死後そのようになっていったのだから明治日本の人たちをはじめこの国がずっと思いつづけたことだったのだろう。後世にはひとつだけの結果だけが残る。歴史にもしもなどというのは禁句、などとあっさり想像力を停止するのがふつうだが、「もし...」の別な選択肢は面白そうな題材である。とはいえあまりの空想になってもアレなので、司馬先生などにつきながら、いまは昔の状況を勉強中なのである。
そこで、大久保利通があれほど嫌った江藤新平とはなにもので、両者の死闘はどういうことであったということになる。

「しかし」と大久保はいう。「意外なことは他の参議です。かれらは西郷の尻馬に乗りながら西郷とともに辞表を出していない。これはどういうことか。それほどまでにかれらは意気地がないのか」
「とくに江藤」と、大久保はいった。大久保はこのとき体じゅうの血液が酢になる思いで、江藤の顔を思いうかべた。ついでながら、大久保は強靭な感情の抑制力をもっているがためにひとには気づかれないが、しかし内面これほどの感情家もまれであった。

さらについでながら、かれは江藤以外の政敵については少しの憎悪も感じていなかった。たとえば、板垣は大久保の目から見れば単純な血性男子で、板垣のどこをどう押せば怒り、あるいはよろこぶかというツボを大久保は知っていた。要するに板垣の思考法や行動にはかれなりの原理があり、それはたれの目にも明瞭である。明瞭であるがために無害であった。後藤象二郎は粗大でこれは意とするに足らない。副島種臣は好学の士である。其の学問と人柄の気韻に付いては定評があり、大久保自身も早くから敬慕し、蒼海先生とよんでよく意見を聞いていた。副島のほうも大久保に、政見の相違はべつとして好意をもち、大久保の政治的力量を価値相当に評価し、その点では互いに知己であった。

大久保にとって得たいのしれぬのは、江藤新平ひとりである。これはどういう男か。
(江藤だけは、私怨と権謀だけで動いている)
と、大久保は憎悪をひそめつつ観察していた。江藤の「私怨」とは、江藤がことあるごとに毒煙のように吐き散らしている薩長閥への憎しみのことであった。さらに江藤の「権謀」とは薩長の結束力を分解せしめようとくわだて、それがために征韓論を力説した。大久保からみれば、江藤はおのれの権謀のためには国家の運命を犠牲にしてもかまわぬという徒であり、いわば国家というサイコロに細工をするいかさま賭博師であった。こういう種類の才人を大久保は「権詐機巧の才」とよんでいる。

このあたりが、人間関係の微妙さであった。なぜならば、「権詐機巧の才」ということにかけては大久保は同質同類の才質をもち、しかもその点において江藤よりはるかに巨大なタレントであった。
― おれも同類の男かもしれない。と、大久保はひそかにおもったであろう。
...(おれは江藤ではない)この点で、大久保はあふれるほどの自信をもっていた。自分には満腔の赤誠がある、ということである。


すこし、江藤新平の世の出る前だけをさかのぼろう。ひとは昇ってゆくころがうつくしい。このあと、司法卿にまで昇り辣腕をふるう江藤の乱高下の短い劇的な歳月。正義漢なのだ。しかし自分を恃むこと強すぎ他人がバカにみえてしょうがないという..ことだったなのだろうか、どこか楽天的、「うかつさ」で破滅に至った不思議な生涯のようなのだ。冒頭のかれの写真も古着で写っているのだろうな...

大久保はこの本で司馬さんが描く冷酷無比な男ではなかった...吉之助サァとわかい薩摩隼人たちを救うため、江藤を血祭りにあげた。しかし、西郷を慕う子どもたちは、突っ走ってしまった....これが、のり坊史観。

◆刑名家
「松菊先生」と、伊藤はいった。伊藤はこのころ、桂のことをこのころ、そのようによんでいた。
「どうおもわれます」
あの佐賀人の気質や思考方法の不可解な点について桂の意見を求めた。
...桂はやがて、あれは、刑名家だな。といった。そう、刑名家であるにちがいない、と桂はひとりうなずいた。さらに桂はいった。
「そう見る以外に江藤新平という男をとくカギはなさそうに思える」
...桂のいう刑名家とは、法家のことであろう。しかし、そういう人間が日本人の中で存在しうるであろうか。
法家とは古代中国における思想分類法からみた一派で、たとえば商鞅、韓非子がこの思想の代表的存在であり、孔子を学徂とする儒教とは真っ向から対立している。孔子の儒教は性の善なることを前提とし、道徳をもって国をおさめようとするいわば楽天的な政治哲学であったが、法家はこれとちがい、人間の本性は本来悪であるという事を大前提とし、法律を整え、刑罰を厳にし、人間の恐怖を刺激することによって国家をおさめようとする、いわば人間に対して悲観的な、そういう政治思想であった。
...

◆佐賀藩の奇跡

(大政奉還から武力倒幕へ)
幕軍は大坂にいる。その兵力は五万であり、京を占領中の薩長は四千程度の兵力しかなく、薩長の謀主たちは「これでは到底勝ち目がない」とした。この時期、彼ら京方が渇くものが水を恋うように望んだのは、佐賀藩の兵力であった。
―もし、佐賀藩が京にあれば。
とだれしもがおもった。佐賀藩は、鍋島閑叟の多年の先進的経営によって、三百諸侯のなかではもっともヨーロッパに近い藩軍を備えていた。藩軍が洋式化されているだけでなく、驚くべきことにこの藩の工業力は同時代の日本の水準をはるかに抜いており、新式火砲の鋼鉄を鋳鍛造することができたし、小銃を生産することが出来たし、その造船所では小蒸気船程度なら建造することが出来、幕府などもその保有艦船が故障すれば佐賀藩の船渠に回航して修理を依頼するというほどまでにその工業能力が至っていた。

―佐賀藩の奇跡
と呼ばれるこれらのことは、...ようするにこの藩の独裁者である鍋島閑叟の能力と努力にすべては帰せられるべきであろう。
が、閑叟は老いている。もともと閑叟は幕府ヘの同情者であり、政治的には保守主義者であり、かといってその保守主義をすら藩外に露そうとせず、佐幕派でありながらいかなる佐幕行動もとらず一藩の独善的中立をまもりぬこうとし、風雲のなかに超然としてきた。
このため、京方にあっては、
「肥前(佐賀藩)は、鵺(ぬえ)である」
「閑叟は、一個の妖怪であろう。洞ヶ峠をきめこみ京方と関東方とが争闘して両者へとへとになったときに天下の権をさらおうとする心算にちがいない」といわれてきた。

江藤はこの時期、蟄居後何度めか引越しをし、佐賀城下本行寺小路の陋屋に住んでいる。相変わらず「夫婦食せざること、月に数日」という貧窮ぶりであった。
...その時期、京にあって大政奉還の政変があった報をきき、これを同志副島種臣がもたらしたとき、おもわず(内職で製造の)雷管をなげうってたちあがった。
...


*************
江藤新平 写真画像 the Wikimedia Commons

以下のご本を参考にし、かつ内容を引用しました。
「歳月(上・下) 司馬遼太郎 講談社文庫 ISBN4-06-274996-3、274997-1」
「大山巌 Ⅱ 戊辰戦争、西南戦争 児島襄 文春文庫 ISBN4-16-714119-1」
歳月
司馬 遼太郎
講談社

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