
チャーチルの率いる連合王国は、マラヤ、シンガポール、ビルマと破竹の勢いの日本に侵攻され、北アフリカではロンメルにキレナイカを奪回され重要拠点トブルクまで陥落。沙漠軍Western Desert Forceは5万人もの死傷者と捕虜の大損害でエジプトに大きく後退。破竹の進撃を続ける敵への防戦だけでも懸命なのに、お国で足元からまたしても敗戦続きの戦争指導を問いただす騒ぎ、下院では不信任動議が出される始末。こちらの波風は7月初めになんとか圧倒的な票決で凌いだものの...
チャーチルにとって議場で延々続く議論など収拾は容易ではあったが、ロンメルに翻弄されつづける灼熱の沙漠の実戦こそ最重要課題。このままでは大量に捕獲されてしまった車両と弾薬を使って、もうじきカイロまで攻め込んでくるだろう。
長期の包囲戦もなくトブルクを占拠したことは枢軸側の計画を一変させた。マルタなどこだわらず一気にカイロ・スエズ運河を狙う方向に動いたのだ...トブルク陥落の翌日、ロンメルはエジプト進撃を目指し迅速に追撃軍を組織し6月末にとうとうエジプトに侵入していた。...イギリス側はいったん後退したマルサ・マトルーでも抵抗はできずさらに後方のアラメイン陣地に退いて必死の反撃、一方、補給が乏しいロンメルのアフリカ軍団も進撃はままならず、7月の沙漠での戦闘は一進一退を続けていた。
追い詰められる沙漠の第8軍Eighth Army 、最高指揮官の更迭してでも渇を入れねばならないだろう。チャーチルは自らカイロに飛ぶことにした。こんな時には難題が次から次に...7月なかばからの英米三軍首脳会議の結論は、英仏海峡を渡っての大陸反攻の第二戦線は1942年中には無理、10月末までに米軍の北アフリカ上陸の「たいまつ」を全力で決行...この重大なことは、スターリンにじかに会って納得させねばならぬ...
>>>>>
中東における最高指揮に関する私の疑惑は、多くの方面から入ってくる報告によって絶えず増大した。私がそこに出かけ、現地で決定的な諸問題を解決することが緊急に必要となった。この旅行はジブラルタルとタコラジを経由しそこから中央アフリカを横断してカイロに出ることになっており、5日あるいは6日にもなりそうな空の旅であった。
しかしこのとき、イギリスに一人の若いアメリカの操縦士が到着した。それはヴァンダークルート大尉で、合衆国からコマンド号を操縦して飛んできたのだった。コマンド号はリペレイター機Liberator Bomber B24 で、爆弾架を取り外しある種の旅客収容設備を施したものであった。
この航空機が予定路のそれぞれの行程を余裕を残して飛ぶことのできるのは確実だった。...午後ジブラルタルから東に向い、たそがれになるころ鋭く南に折れてスペインかヴィッシーの領土を横断し、アシオートAssiout付近でナイル川にさしかかるまで東に進み、そこで北上すれば1時間ほどでピラミッド北西方のカイロ着陸場につくのだから、ジブラルタルから一飛びでカイロに行けるというのである。これで予定すべてが一変した。私は2日でカイロに着けるのだ...
1942年に海峡横断は行わないという不可避的な、しかし愉快ではない知らせに対してソ連政府がどう反応するか、われわれはみな懸念を抱いていた。たまたま7月28日の夜、私は光栄にも国王をご招待し首相官邸の支柱で支えたガーデンルームで、戦争内閣を陪賓に晩餐を差し上げた。私は私の旅行について陛下の承諾を個人的に得た。そして陛下が去るとすぐに、上機嫌になっている閣僚達を閣議室に招き、問題に決着をつけた。いずれにせよ私がカイロに赴き、スターリンに会談を申し入れるというふうに話が決まった。したがって、私は次のように彼に電報を打った。
Prime Minister to Premier Stalin 30 July 1942
We are making preliminary arrangements for another effort to run a large convoy through Archangel in the first week of September.
2. I am willing, if you invite me, to come myself to meet you in Astrakhan, the Caucasus, or similar convenient meeting-place. We could then survey the war together and take decisions hand-in-hand. I could then tell you plans we have made with President Roosevelt for offensive action in 1942.
I would bring the Chief go the Imperial General Staff with me.
3. I am starting for Cairo forthwith. I have serious business there, as you may imagine. From there I will, if you desire it, fix a convenient date for our meeting, which might, so far as I am concerned, be between August 10 and 13, all being well.
4. The war Cabinet have endorsed my proposals.。
回答は翌日やってきた。
Premier Stalin to Premier Churchill 31 July 1942
On behalf of the Soviet Government I invite you to the U.S.S.R. to meet the members of the Government. I should be very grateful if you could come to the U.S.S.R. to consider jointly the urgent questions of war against Hitler, as the menace from the quarters to Great Britain, the United States of America, and the U.S.S.R. has now reached a special degree of intensity.
I think the most suitable meeting–place would be Moscow, as neither I nor the members of the Government and the leading men of the General Staff could leave the capital at the moment of such an intense struggle against the Germans.
The presence of the Chief of the Imperial General Staff would be extremely desirable.
The date of the meeting please fix yourself in accordance with the time necessary for completion of your business in Cairo. You may be sure beforehand that any date will suit me.
Let me express may gratitude for your consent to send the next convoy with war materials for the U.S.S.R. at the beginning of September. In spite of the extreme difficulty of diverting aircraft from the battle-front we will take all possible measures to increase the aerial protection of the convoy.
かくてすべての手筈がととのえられた。8月2日日曜日の真夜中過ぎ、われわれは爆撃機コマンド号でラインハムLynehamを出発した。ボーイング飛行艇の居心地よさとは非常に違うたぐいの旅であった。このとき爆撃機には暖房装置がなく剃刀のような冷たい風がたくさんの隙間から吹き込んできた。寝台はなかったが、後部客室の二つの棚に私とモーラン卿は横になることができた。...われわれは高射砲陣地に認識させるため、イングランド南部上空を低く飛んだ。...海上に出ると、私は操縦席を離れ、上等な寝袋にくるまって休むことにした。
われわれは8月3日の朝、なにごともなくジブラルタルGibraltarに着き、要塞を見回って1日を過ごし、午後6時にカイロに出発した。沙漠戦を取り巻く敵機を避けて、かなりの迂回をする必要があったので、飛行距離は2000マイルあるいはそれ以上となった。...日没までビューファイターBeaufighter4機という武装護衛を伴っていたのだから、われわれは事実上公然と両地区の中立を侵したのであった。
...このような旅行の際、日の出前に副操縦席にすわるのが私の習慣だった。8月4日の朝、私がそこに行くと、青白く輝く暁のなかに、ナイル川の果てしない銀の帯がくねくねと楽しげにわれわれの前に伸びていた。ナイル川で私は何度も夜明けを見たことがある。戦時と平時、ヴィクトリア湖から海までの「ドンゴラ環状線」Dongola Loopを除けば、私は陸路と水路でほとんどナイル川の全長を旅行していた。しかし、この水面の日光の輝きが私にとって、これほどうれしかったことはなかった。
かくて少しの期間私は「現場の人」"the man on the spot"となった。戦線からのニュースを本国ですわって待っているのではなく、私自身がニュースを送ることになった。これは爽快だった。
カイロでは、次のような問題を解決しなければならなかった。オーキンレック将軍や彼の幕僚は沙漠軍の信頼を失ったのか?...アレキサンダーHarold AlexanderとモントゴメリーBernard Law Montgomeryはともに1940年5月、イギリス兵をダンケルクまで連れ戻した戦いで、ブルックAlan Francis Brookeとともに戦った。...オーキンレックの解任を求めるとすれば、アレキサンダーに中東の重荷を背負うように命令しなければならないことをわれわれは疑わなかった。しかし、第8軍の感情も見落とすことはできない。...
最高指揮権の根本的変更を早急になすという私の見解を、戦争内閣は承認した。
(つぎに第8軍の指揮を予定されていた)ゴット将軍の戦死を伝える電報を内閣に送ったとき、私は、アレキサンダーの代わりにモントゴメリーを送るということをアイゼンハワー将軍には知らせないようにいっておいた。しかしこれは遅すぎた。彼はすでにこのことを知っていた。...アレキサンダーはすでにその大企画でイギリス第一軍を指揮することになっていた。...
...(アイゼンハワーは)いまや、中東のためにアレキサンダーを取り上げられたのである。この知らせを伝え、また戦争の過酷な必要性が強いる継続の中断と連絡の阻害に対する私の釈明を伝えるため、彼のもとにイズメーHastings Lionel Ismayが派遣された。...アイゼンハワーは度量の大きい人物で、実際的でよく役に立ち、事件が起こるたびに冷静に私心をまじえずそれを処理した。しかし、彼に任された大作戦で重要な地位が2日間に二度も変わったことに当惑したのも当然だった。...彼がイズメーに「イギリス人は『たいまつ作戦』Operation Torchを真剣に考えているのか?」と尋ねたところで何の不思議があろう。...
...過去の経験から、この種の不愉快なことは口頭よりも書面によるほうがよいのを学んでいたので、私は手紙を持たせて、ジェイコブ大佐を空路オーキンレックの本部に派遣した。...彼はこの打撃を軍人らしい威厳を持って受け止めた。...その晩ジェイコブが帰って来た。ジェイコブの日記はこう記している。
< 首相は眠っていた。首相は6時に目を覚ました。私はオーキンレック将軍と私との間の会話をできるだけうまく伝えねばならなかった。参謀総長も同席した。...首相の心はロンメルの撃破と、アレキサンダー将軍に西部沙漠作戦の完全指揮を取らせることで固まっている。
男ならば、沙漠で大きな事件が起こりつつあるのにカイロに留まり、その事件の指導をどうして他人にまかせておけるのか、首相には理解できないのである。首相は部屋を大またに行ったりきたりしながらこの点を強調した。自分のやり方でいこうという意志である。
『ロンメル、ロンメル、ロンメル、ロンメル、ロンメル!』と彼は叫んだ。『彼を叩きのめす以外、何の問題があるというのだ?』"What else matters but beating him?" >

British infantry manning a sandbagged defensive position near El Alamein, 17 July 1942.
***************
画像 Montgomery in a Grant tank in North Africa, November 1942.:Wikipedia-Bernard_Montgomery
First Battle of El Alamein
本文の記述のうち、青字、緑字...(部分的省略)の部分は、以下のご本からの引用によります。
「第二次世界大戦(下)W・S・チャーチル著/佐藤亮一訳 河出書房新社 昭和49年6月15日」
「Second World War Vol-4 (Winston S.Churchill) Mariner Books ISBN-13 978-0-395-41058-5」
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チャーチルにとって議場で延々続く議論など収拾は容易ではあったが、ロンメルに翻弄されつづける灼熱の沙漠の実戦こそ最重要課題。このままでは大量に捕獲されてしまった車両と弾薬を使って、もうじきカイロまで攻め込んでくるだろう。
長期の包囲戦もなくトブルクを占拠したことは枢軸側の計画を一変させた。マルタなどこだわらず一気にカイロ・スエズ運河を狙う方向に動いたのだ...トブルク陥落の翌日、ロンメルはエジプト進撃を目指し迅速に追撃軍を組織し6月末にとうとうエジプトに侵入していた。...イギリス側はいったん後退したマルサ・マトルーでも抵抗はできずさらに後方のアラメイン陣地に退いて必死の反撃、一方、補給が乏しいロンメルのアフリカ軍団も進撃はままならず、7月の沙漠での戦闘は一進一退を続けていた。
追い詰められる沙漠の第8軍Eighth Army 、最高指揮官の更迭してでも渇を入れねばならないだろう。チャーチルは自らカイロに飛ぶことにした。こんな時には難題が次から次に...7月なかばからの英米三軍首脳会議の結論は、英仏海峡を渡っての大陸反攻の第二戦線は1942年中には無理、10月末までに米軍の北アフリカ上陸の「たいまつ」を全力で決行...この重大なことは、スターリンにじかに会って納得させねばならぬ...
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中東における最高指揮に関する私の疑惑は、多くの方面から入ってくる報告によって絶えず増大した。私がそこに出かけ、現地で決定的な諸問題を解決することが緊急に必要となった。この旅行はジブラルタルとタコラジを経由しそこから中央アフリカを横断してカイロに出ることになっており、5日あるいは6日にもなりそうな空の旅であった。
しかしこのとき、イギリスに一人の若いアメリカの操縦士が到着した。それはヴァンダークルート大尉で、合衆国からコマンド号を操縦して飛んできたのだった。コマンド号はリペレイター機Liberator Bomber B24 で、爆弾架を取り外しある種の旅客収容設備を施したものであった。
この航空機が予定路のそれぞれの行程を余裕を残して飛ぶことのできるのは確実だった。...午後ジブラルタルから東に向い、たそがれになるころ鋭く南に折れてスペインかヴィッシーの領土を横断し、アシオートAssiout付近でナイル川にさしかかるまで東に進み、そこで北上すれば1時間ほどでピラミッド北西方のカイロ着陸場につくのだから、ジブラルタルから一飛びでカイロに行けるというのである。これで予定すべてが一変した。私は2日でカイロに着けるのだ...
1942年に海峡横断は行わないという不可避的な、しかし愉快ではない知らせに対してソ連政府がどう反応するか、われわれはみな懸念を抱いていた。たまたま7月28日の夜、私は光栄にも国王をご招待し首相官邸の支柱で支えたガーデンルームで、戦争内閣を陪賓に晩餐を差し上げた。私は私の旅行について陛下の承諾を個人的に得た。そして陛下が去るとすぐに、上機嫌になっている閣僚達を閣議室に招き、問題に決着をつけた。いずれにせよ私がカイロに赴き、スターリンに会談を申し入れるというふうに話が決まった。したがって、私は次のように彼に電報を打った。
Prime Minister to Premier Stalin 30 July 1942
We are making preliminary arrangements for another effort to run a large convoy through Archangel in the first week of September.
2. I am willing, if you invite me, to come myself to meet you in Astrakhan, the Caucasus, or similar convenient meeting-place. We could then survey the war together and take decisions hand-in-hand. I could then tell you plans we have made with President Roosevelt for offensive action in 1942.
I would bring the Chief go the Imperial General Staff with me.
3. I am starting for Cairo forthwith. I have serious business there, as you may imagine. From there I will, if you desire it, fix a convenient date for our meeting, which might, so far as I am concerned, be between August 10 and 13, all being well.
4. The war Cabinet have endorsed my proposals.。
回答は翌日やってきた。
Premier Stalin to Premier Churchill 31 July 1942
On behalf of the Soviet Government I invite you to the U.S.S.R. to meet the members of the Government. I should be very grateful if you could come to the U.S.S.R. to consider jointly the urgent questions of war against Hitler, as the menace from the quarters to Great Britain, the United States of America, and the U.S.S.R. has now reached a special degree of intensity.
I think the most suitable meeting–place would be Moscow, as neither I nor the members of the Government and the leading men of the General Staff could leave the capital at the moment of such an intense struggle against the Germans.
The presence of the Chief of the Imperial General Staff would be extremely desirable.
The date of the meeting please fix yourself in accordance with the time necessary for completion of your business in Cairo. You may be sure beforehand that any date will suit me.
Let me express may gratitude for your consent to send the next convoy with war materials for the U.S.S.R. at the beginning of September. In spite of the extreme difficulty of diverting aircraft from the battle-front we will take all possible measures to increase the aerial protection of the convoy.
かくてすべての手筈がととのえられた。8月2日日曜日の真夜中過ぎ、われわれは爆撃機コマンド号でラインハムLynehamを出発した。ボーイング飛行艇の居心地よさとは非常に違うたぐいの旅であった。このとき爆撃機には暖房装置がなく剃刀のような冷たい風がたくさんの隙間から吹き込んできた。寝台はなかったが、後部客室の二つの棚に私とモーラン卿は横になることができた。...われわれは高射砲陣地に認識させるため、イングランド南部上空を低く飛んだ。...海上に出ると、私は操縦席を離れ、上等な寝袋にくるまって休むことにした。
われわれは8月3日の朝、なにごともなくジブラルタルGibraltarに着き、要塞を見回って1日を過ごし、午後6時にカイロに出発した。沙漠戦を取り巻く敵機を避けて、かなりの迂回をする必要があったので、飛行距離は2000マイルあるいはそれ以上となった。...日没までビューファイターBeaufighter4機という武装護衛を伴っていたのだから、われわれは事実上公然と両地区の中立を侵したのであった。
...このような旅行の際、日の出前に副操縦席にすわるのが私の習慣だった。8月4日の朝、私がそこに行くと、青白く輝く暁のなかに、ナイル川の果てしない銀の帯がくねくねと楽しげにわれわれの前に伸びていた。ナイル川で私は何度も夜明けを見たことがある。戦時と平時、ヴィクトリア湖から海までの「ドンゴラ環状線」Dongola Loopを除けば、私は陸路と水路でほとんどナイル川の全長を旅行していた。しかし、この水面の日光の輝きが私にとって、これほどうれしかったことはなかった。
かくて少しの期間私は「現場の人」"the man on the spot"となった。戦線からのニュースを本国ですわって待っているのではなく、私自身がニュースを送ることになった。これは爽快だった。
カイロでは、次のような問題を解決しなければならなかった。オーキンレック将軍や彼の幕僚は沙漠軍の信頼を失ったのか?...アレキサンダーHarold AlexanderとモントゴメリーBernard Law Montgomeryはともに1940年5月、イギリス兵をダンケルクまで連れ戻した戦いで、ブルックAlan Francis Brookeとともに戦った。...オーキンレックの解任を求めるとすれば、アレキサンダーに中東の重荷を背負うように命令しなければならないことをわれわれは疑わなかった。しかし、第8軍の感情も見落とすことはできない。...
最高指揮権の根本的変更を早急になすという私の見解を、戦争内閣は承認した。
(つぎに第8軍の指揮を予定されていた)ゴット将軍の戦死を伝える電報を内閣に送ったとき、私は、アレキサンダーの代わりにモントゴメリーを送るということをアイゼンハワー将軍には知らせないようにいっておいた。しかしこれは遅すぎた。彼はすでにこのことを知っていた。...アレキサンダーはすでにその大企画でイギリス第一軍を指揮することになっていた。...
...(アイゼンハワーは)いまや、中東のためにアレキサンダーを取り上げられたのである。この知らせを伝え、また戦争の過酷な必要性が強いる継続の中断と連絡の阻害に対する私の釈明を伝えるため、彼のもとにイズメーHastings Lionel Ismayが派遣された。...アイゼンハワーは度量の大きい人物で、実際的でよく役に立ち、事件が起こるたびに冷静に私心をまじえずそれを処理した。しかし、彼に任された大作戦で重要な地位が2日間に二度も変わったことに当惑したのも当然だった。...彼がイズメーに「イギリス人は『たいまつ作戦』Operation Torchを真剣に考えているのか?」と尋ねたところで何の不思議があろう。...
...過去の経験から、この種の不愉快なことは口頭よりも書面によるほうがよいのを学んでいたので、私は手紙を持たせて、ジェイコブ大佐を空路オーキンレックの本部に派遣した。...彼はこの打撃を軍人らしい威厳を持って受け止めた。...その晩ジェイコブが帰って来た。ジェイコブの日記はこう記している。
< 首相は眠っていた。首相は6時に目を覚ました。私はオーキンレック将軍と私との間の会話をできるだけうまく伝えねばならなかった。参謀総長も同席した。...首相の心はロンメルの撃破と、アレキサンダー将軍に西部沙漠作戦の完全指揮を取らせることで固まっている。
男ならば、沙漠で大きな事件が起こりつつあるのにカイロに留まり、その事件の指導をどうして他人にまかせておけるのか、首相には理解できないのである。首相は部屋を大またに行ったりきたりしながらこの点を強調した。自分のやり方でいこうという意志である。
『ロンメル、ロンメル、ロンメル、ロンメル、ロンメル!』と彼は叫んだ。『彼を叩きのめす以外、何の問題があるというのだ?』"What else matters but beating him?" >

British infantry manning a sandbagged defensive position near El Alamein, 17 July 1942.
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画像 Montgomery in a Grant tank in North Africa, November 1942.:Wikipedia-Bernard_Montgomery
First Battle of El Alamein
本文の記述のうち、青字、緑字...(部分的省略)の部分は、以下のご本からの引用によります。
「第二次世界大戦(下)W・S・チャーチル著/佐藤亮一訳 河出書房新社 昭和49年6月15日」
「Second World War Vol-4 (Winston S.Churchill) Mariner Books ISBN-13 978-0-395-41058-5」
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