
日本の真珠湾攻撃を機にドイツもアメリカに宣戦し、ついにアメリカも第二次世界大戦に突入した War comes to America。すぐさまアメリカに渡ったチャーチルは、ルーズベルトとのあいだで、最初に打倒すべき相手は日本ではなくナチス・ドイツ、主戦場はヨーロッパであるとの戦略一致を確認、ルーズベルトの意思で1942年元旦に連合国共同宣言が示された。今週は日本でG8サミット、構成国メンバをみれば、チャーチルが夢見た西欧の融合・EUが実現した以外、あのころとあまり世界の力学構造は変わっていないのではなかろうか...
宣言自体は、大西洋憲章の格調もない軍事力共同運用と単独講和防止の縛りの文言である。しかしチャーチルのワシントン滞在中に米英の政府・三軍首脳がドイツ屈服までのシナリオを決めた「アルカディア会議」Arcadia Conference では重要な成果があった。桃源郷ならぬプラグマティズム Pragmatismのお国で詰めたためか、ヨーロッパ作戦戦域 European Theater of Operationsを最優先課題とし、「合同三軍参謀首脳委員会」Combined Chiefs of Staff Committeeのもとで着実なステップを踏み軍事行動を進める下地ができたのだ。多国籍の連合国軍のドイツへの反攻作戦のなかでメキメキと頭角を現し勝利を握る仕事を成し遂げたのが、アイゼンハワーDwight D. Eisenhowerである。第二次大戦勃発でチャーチルが首相になった時欧州駐在の彼を目に留めたが、そのころ彼はまだ陸軍大佐だった。
ルーズベルトは、「同盟国」Associated Powersよりも「連合国」United Nationsという表現を選んだ。連合国側はアメリカ合衆国、イギリス、ソビエト連邦、中国をはじめ、この時点で26カ国を数えたが実質は米英ソのビッグ3による戦争遂行であり、しかも意思と戦略までが通じ合えたのは米英とその配下の英語圏の国のみであったろう。対する枢軸国側は、有名無実の三国同盟があるだけのナチス・ドイツ、イタリア、日本、ルーマニア...フィンランドといったところ、征服国を従えたもので軍事同盟どころか精神的結束も無縁であった。ヨーロッパおよび全世界の真の脅威となるのは、ナチス・ドイツだけ、この制覇の鍵を握るアメリカには幸いなことに昨今の指導者と違い、世界の危機を冷静に理解し同盟国から信頼される優れた大統領・FDRがいた。
さて2008.7.7からの洞爺湖でのG8サミット・主要国首脳会議Group of Eightは、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、日本、イタリア、カナダ、ロシアの8ヶ国、及びEUが集まる。「アルカディア会議」から大激変の70年がたっても、世界の頂上は当時の連合国ビッグ3と枢軸側三国同盟が占める。世界を引っ張るのは力のある少数の国で残りはいつまでも第三世界 Third Worldということなのであろうか...そういえば連合国共同宣言もその他大勢のお国はABC順で...世界の出来事は数の優位・多数決で決まるのではないな、少数の国の国力で決まるのだ、相変わらず“Europe first”の顔ぶれだけど、そろそろ中国も呼びこまないとわがアジア、地球環境だって解決しないだろうなあ...あのころの旗でも並べてみるか...
<United Nations>

.....
<Axis countries >
...
>>>>>
イギリスと合衆国との間の完全な理解が他のすべてより重大さを持ち、それだけに余裕のある最高の専門の助言者の一行とともに、私が直ちにワシントンに赴かねばならないということに、私はなんの疑いも持たなかった。しかし、この時期に情況の悪い方角へ飛行機で行くのは危険すぎると考えられた。...プリンス・オブ・ウェールズはもはやこの世になかった。キングジョージ5世はティルビッツを監視していた。新たに竣成したデューク・オブ・ヨークHMS Duke of York がわれわれを運ぶことになり、同時に十分能率を発揮する訓練をすることにもなった。
われわれ一行の主なものは、戦争内閣閣僚ビーバーブルック卿、軍令部長パウンド提督、空軍参謀長ポーター空軍中将、それにディル元帥だった。彼の陸軍参謀総長の地位はすでにブルック将軍が引き継いでいたが、...彼をワシントンに同行させることにした。
モーラン卿も私に随行した。彼は1941年はずっと私の侍医になっていた。私と旅行するのはこれが初めてだったが以後すべての旅行を共にすることとなった。私の生命は恐らく彼の間違いない治療のおかげである。彼が病気になったとき、私は彼に私の忠告を受け入れさせることはできなかったし、彼のほうでも私が必ずしも指示を守らないとわかっていたけれども、われわれは忠実な友となった。さらに、われわれは二人とも生き延びたのである。
...海軍省はアイルランド海峡を通ってビスケー湾に入るように指図した。...われわれは西フランスの諸港と大西洋の狩場との間を往来するUボートの流れを横切らねばならなかった。...48時間かかってアイルランドの南を回った。われわれは、ブレスト港から400マイル以内のところを通過した。私は1週間前にプリンス・オブ・ウェールズとレパルスが海軍基地の雷撃機の攻撃によって破壊されたことを思い出さざるを得なかった。...われわれは、駆逐艦を後に残し、依然として荒れている天候のなかを最大速力で走り抜けた。
デューク・オブ・ヨークがゆっくり西に向っている間、...われわれの考えはすべて解決されなければならない新たな大問題に集中された。
真珠湾の暴挙が合衆国の国民を心底から憤らせたことを、われわれは出発前に知っていた。...われわれが危惧したのは、全体としての戦争の真の均衡が理解されていないかもしれないということだった。合衆国が太平洋で日本と戦い、ヨーロッパ、アフリカ、中東でドイツとイタリアと戦うのをわれわれに任せてしまうかもしれないという由々しい危険を、われわれは意識していた。
...すでにわれわれは、武器貸与法による引渡し予定が再調整の期間全面的に停止される旨の通知を受けていた。...難局の時はいつでもそうだが、ビーバーブルックは楽観的だった。彼はこう言った。合衆国の資源はこれまでのところ、引っかき傷すら負っていない。無尽蔵に資源がある。ひとたびアメリカ国民の全力がこの闘争に向けられるならば、計画あるいは想像されたいかなる事をはるかに凌駕する結果が成就されるだろうというのである。さらに彼は、アメリカ人は生産分野における彼らの力をいまだよくわかっていないと考えていた。...
こうした考慮はすべて、主要な戦略問題の前には色褪せた。日本の敗北はヒトラーの敗北につながりはしないこと、しかしヒトラーの敗北は日本を片付けることを、単に時間と手間の問題にするということを、われわれは、大統領とアメリカの軍部首脳に納得させることができるだろうか?
この重大問題についてわれわれは、長時間にわたって思案した。...
必然的に事務が減り出席すべき閣議も対応すべき訪問客もいない8日間の航海によって突然開けた広大な広がりの中で、私が見、私が感じていた戦争全体を、私は再検討してみることができた。...いつものようにタイピストに口授し自分の考えを陳列することによって、私はそれを実行した。そしてパウンド、ポータル両参謀首脳とディル将軍の意見が私と同じであること、またホリス将軍と事務局が事実を適時に照合することを確認しておくために、私は自分の考えた方針に従って、将来の戦争の進展について3通の文書を作成した。...
第一の文書は、ヨーロッパを舞台とする1942年戦の主要目標がダカールからトルコに至るアフリカと近東の全海岸線を、イギリスとアメリカが占領することでなければならないという理由を列挙した。
第二の文書は、太平洋の支配を奪還するために取られるべき手段を扱い、これが成就されるべき月を1942年5月とすべきことを明記した。とりわけ、空母を即時、大量に生産し、その数を増大させる必要について詳しく述べた。
第三の文書は、ドイツの占領地域で最適と考えられるところにイギリスとアメリカの大軍を上陸させ、それによってヨーロッパを解放することを最終目的とする旨を言明し、1943年をこの最高軍事行動の時と定めた。
...私はこの3通の文書を、クリスマスの前に大統領に渡した。それらが、私の個人的見解を示すものではあるが、両国参謀間の公式の意見交換に取って代わるものではない点を私は説明した。...彼は受け取ると直ちにそれを読み、そして翌日、写しを取っておいてよいかといってきた。私は喜んでそれを承諾した。
...
12月22日、日が暮れてからワシントン空港に着いた。大統領は車の中で待っていた。私は安心と喜びを感じつつ彼の強い手を握った。われわれは、間もなくホワイトハウスに到着した。ここは今後3週間あらゆる意味でわれわれの家となるべきところだった。
...とりわけ著しい面はもちろん大統領との接触であった。われわれは毎日数時間会見し、いつも一緒に昼食をとり、これに第三者としてハリー・ホプキンスが同席した。われわれは仕事以外の話はせず大小多くの点に関してかなりの程度の合意に達した。夕食は一段と社交的な機会だったが、また親密さと友好さを増す機会でもあった。大統領は必ず自分で食前のカクテルを作り、そして私は車付きの椅子にかけている彼を居間からエレベータまで押して行った。これは敬意のしるしであり、またエリザベス女王の前にマントを広げたサー・ウォルター・ローレイSir Walter Raleighのことを考えたからでもあった。ほぼ10年間にわたってアメリカの舞台を思うままに動かし、そして私の心を動かした衝動の多くに反応するような心を持つこの偉大な政治家に対して、私は非常に強い愛情を感じたが、それはわれわれの親交の年月とともに成長した。
...合衆国議会で演説するという招待を全うしたとき私は感動していた。英語を話す国民の何者にも屈しない同盟と私が信じていたものにとって、この機会は重要であった。...クリスマスの日の大部分を私は演説の準備に費やした。12月26日、私が上下両院幹部に案内されてホワイトハウスから議事堂に出かけようとするとき、大統領は私に成功を祈ってくれた。...放送を聴いていた大統領が大成功だといってくれた。
私は12月28日から29日にかけて、夜行列車でオタワに行き、総督アスローン卿のもとに滞在した。29日、私はカナダ戦争内閣の会議に出席し、30日はカナダ議会で演説を行った。休止することのない執務の流れの真っ只中にあって、全世界に伝えられたアメリカ大陸でのあの二つの演説を準備するのはきわめて困難な仕事だった。訓練をつんだ政治家にとって演説は決して格別の重荷ではないが、あのように電流の流れているような雰囲気のなかで、言うべきことと、言うべきでないことを選択するのは気がかりなことであり、気が張ることである。私は最善をつくした。...
私がイギリスから到着して以来ルーズベルト氏が私に示した最初の大きな構想は、ドイツ、イタリア、あるいは日本と交戦中のすべての国家によって署名されるべき厳粛な宣言書を作成することだった。大統領と私は大西洋憲章をつくった際の方法を繰り返し、宣言の草案を用意してそれを混ぜ合わせた。原則において感情においてそして用語においてさえも、われわれは完全に一致していた。本国の戦争内閣は大同盟が計画されている規模に驚くとともに、期待に胸を躍らせた。いかなる政府と権力がその宣言書に署名すべきか、またそれらの序列はどうすべきかについて多くの通信が矢継ぎばやに交わされ、幾つか難しい問題も提起された。われわれは、喜んで、合衆国に第一位を与えた。ホワイトハウスに戻ると、国際連合協約の調印準備はすべて出来上がっていた。...
大統領は「列強同盟」のかわりに「国際連合」という名称を選んだ。私はこれを大きな改善だと思った。私はわが友にバイロンGeorge Gordon Byronの『チャイルド・ハロルド』Childe Haroldからの句を示した。
連合せる国々が剣を抜けるこの地に、
その日、わが国人は戦えり。
これは大いなること ― かつすべてなり ―
永遠に忘れられまじ
Here,where the sword United Nations drew,
Our countrymen were warring on that way!
And this is much -and all- which will not pass away.
元旦の朝、大統領が車椅子で私の部屋に入ってきた。私は浴室から出て、草案に同意した。宣言書それ自体で戦争に勝つことはできないが、それはわれわれが何者であるか、そしてなんのために戦っているのかを明記していた。その日、ルーズベルト、私、リトヴィーノフ、そして中国を代表する宋が、大統領の書斎でこの荘厳な文書に署名した。残りの22カ国の署名を集めることは国務省に委任された。最終的文面はここに記録しておかねばならない。
アメリカ合衆国、イギリス、ソビエト連邦、中国、オーストラリア、ベルギー、カナダ、コスタ・リカ、キューバ、チェコスロバキア、ドミンゴ、エルサルバドル、ギリシャ、グアテマラ、ハイチ、ホンジュラス、インド、ルクセンブルク、オランダ、ニュージーランド、ニカラガ、ノルウェー、パナマ、ポーランド、南アフリカ、ユーゴスラビアによる共同宣言
本宣言の署名諸国は、
1941年8月14日のアメリカ合衆国大統領およびイギリス首相の大西洋憲章として知られる合同宣言中に表現されたる目的と原則との共同計画に賛同し、
彼らの敵に対する完全なる勝利は人命、自由、独立、宗教の自由を防衛し、自国のみならず他国においても人権および正義を保持し、世界を征服せんとする蛮的暴力に対して彼らが共同の闘争に従事しつつあることを確信しつつ、以下の宣言を行う。
(1)三国協約の同盟国およびそれに参加するものに対して交戦関係にある各政府は、その軍事的、経済的全資力を彼らに対して用いることを誓約する。
(2)各政府は本宣言の署名諸政府と協力し、敵国と単独休戦または単独講和を行わないことを誓約する。
上記の宣言は、ヒトラー主義を打倒するための闘争において、物質的援助と貢献をなしつつある、または将来なすことのあるごとき他の国々によって参加されうるものとする。
A Joint Declaration by the United States of America, the United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland, the Union of Soviet Socialist Republics, China, Australia, Belgium, Canada, Costa Rica, Cuba, Czechoslovakia, Dominican Republic, El Salvador, Greece, Guatemala, Haiti, Honduras, India, Luxembourg, Netherlands, New Zealand, Nicaragua, Norway, Panama, Poland, South Africa, Yugoslavia
The Governments signatory hereto,
Having subscribed to a common program of purposes and principles embodied in the Joint Declaration of the President of the United States of America and the Prime Minister of the United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland dated August 14, 1941, known as the Atlantic Charter.
Being convinced that complete victory over their enemies is essential to defend life, liberty, independence and religious freedom, and to preserve human rights and justice in their own lands as well as in other lands, and that they are now engaged in a common struggle against savage and brutal forces seeking to subjugate the world,
DECLARE:
(1) Each Government pledges itself to employ its full resources, military or economic, against those members of the Tripartite Pact :and its adherents with which such government is at war.
(2) Each Government pledges itself to cooperate with the Governments signatory hereto and not to make a separate armistice or peace with the enemies.
The foregoing declaration may be adhered to by other nations which are, or which may be, rendering material assistance and contributions in the struggle for victory over Hitlerism.
Done at Washington January First, 1942
後世の歴史家は、暗号で「アルカディア」と呼ばれたわれわれの第一回ワシントン会議が持つ最も重要で永続的な結果を、いまや有名な「合同三軍参謀首脳委員会」の設置であったと思うことであろう。
...世界のいろいろなところ ― カサブランカ、ワシントン、ケベック、テヘラン、カイロ、マルタ、クリミア ― で行われた頻繁な会議では、これらの主要人物が時には2週間もの間一緒になった。戦争中、合同三軍参謀首脳委員会によっておこなわれた200回の公式会議のうち89回以上はこれらの会議地で開かれた。...
***************
Winston Churchill en Franklin Delano Roosevelt op 22 december 1941.
...photo;Arcadia Conference /Wikipedia
本文の記述のうち、青字、...(部分的省略)の部分は、以下のご本からの引用によります。
「第二次世界大戦(下)W・S・チャーチル著/佐藤亮一訳 河出書房新社 昭和49年6月15日」
宣言自体は、大西洋憲章の格調もない軍事力共同運用と単独講和防止の縛りの文言である。しかしチャーチルのワシントン滞在中に米英の政府・三軍首脳がドイツ屈服までのシナリオを決めた「アルカディア会議」Arcadia Conference では重要な成果があった。桃源郷ならぬプラグマティズム Pragmatismのお国で詰めたためか、ヨーロッパ作戦戦域 European Theater of Operationsを最優先課題とし、「合同三軍参謀首脳委員会」Combined Chiefs of Staff Committeeのもとで着実なステップを踏み軍事行動を進める下地ができたのだ。多国籍の連合国軍のドイツへの反攻作戦のなかでメキメキと頭角を現し勝利を握る仕事を成し遂げたのが、アイゼンハワーDwight D. Eisenhowerである。第二次大戦勃発でチャーチルが首相になった時欧州駐在の彼を目に留めたが、そのころ彼はまだ陸軍大佐だった。
ルーズベルトは、「同盟国」Associated Powersよりも「連合国」United Nationsという表現を選んだ。連合国側はアメリカ合衆国、イギリス、ソビエト連邦、中国をはじめ、この時点で26カ国を数えたが実質は米英ソのビッグ3による戦争遂行であり、しかも意思と戦略までが通じ合えたのは米英とその配下の英語圏の国のみであったろう。対する枢軸国側は、有名無実の三国同盟があるだけのナチス・ドイツ、イタリア、日本、ルーマニア...フィンランドといったところ、征服国を従えたもので軍事同盟どころか精神的結束も無縁であった。ヨーロッパおよび全世界の真の脅威となるのは、ナチス・ドイツだけ、この制覇の鍵を握るアメリカには幸いなことに昨今の指導者と違い、世界の危機を冷静に理解し同盟国から信頼される優れた大統領・FDRがいた。
さて2008.7.7からの洞爺湖でのG8サミット・主要国首脳会議Group of Eightは、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、日本、イタリア、カナダ、ロシアの8ヶ国、及びEUが集まる。「アルカディア会議」から大激変の70年がたっても、世界の頂上は当時の連合国ビッグ3と枢軸側三国同盟が占める。世界を引っ張るのは力のある少数の国で残りはいつまでも第三世界 Third Worldということなのであろうか...そういえば連合国共同宣言もその他大勢のお国はABC順で...世界の出来事は数の優位・多数決で決まるのではないな、少数の国の国力で決まるのだ、相変わらず“Europe first”の顔ぶれだけど、そろそろ中国も呼びこまないとわがアジア、地球環境だって解決しないだろうなあ...あのころの旗でも並べてみるか...
<United Nations>

.....<Axis countries >
...>>>>>
イギリスと合衆国との間の完全な理解が他のすべてより重大さを持ち、それだけに余裕のある最高の専門の助言者の一行とともに、私が直ちにワシントンに赴かねばならないということに、私はなんの疑いも持たなかった。しかし、この時期に情況の悪い方角へ飛行機で行くのは危険すぎると考えられた。...プリンス・オブ・ウェールズはもはやこの世になかった。キングジョージ5世はティルビッツを監視していた。新たに竣成したデューク・オブ・ヨークHMS Duke of York がわれわれを運ぶことになり、同時に十分能率を発揮する訓練をすることにもなった。
われわれ一行の主なものは、戦争内閣閣僚ビーバーブルック卿、軍令部長パウンド提督、空軍参謀長ポーター空軍中将、それにディル元帥だった。彼の陸軍参謀総長の地位はすでにブルック将軍が引き継いでいたが、...彼をワシントンに同行させることにした。
モーラン卿も私に随行した。彼は1941年はずっと私の侍医になっていた。私と旅行するのはこれが初めてだったが以後すべての旅行を共にすることとなった。私の生命は恐らく彼の間違いない治療のおかげである。彼が病気になったとき、私は彼に私の忠告を受け入れさせることはできなかったし、彼のほうでも私が必ずしも指示を守らないとわかっていたけれども、われわれは忠実な友となった。さらに、われわれは二人とも生き延びたのである。
...海軍省はアイルランド海峡を通ってビスケー湾に入るように指図した。...われわれは西フランスの諸港と大西洋の狩場との間を往来するUボートの流れを横切らねばならなかった。...48時間かかってアイルランドの南を回った。われわれは、ブレスト港から400マイル以内のところを通過した。私は1週間前にプリンス・オブ・ウェールズとレパルスが海軍基地の雷撃機の攻撃によって破壊されたことを思い出さざるを得なかった。...われわれは、駆逐艦を後に残し、依然として荒れている天候のなかを最大速力で走り抜けた。
デューク・オブ・ヨークがゆっくり西に向っている間、...われわれの考えはすべて解決されなければならない新たな大問題に集中された。
真珠湾の暴挙が合衆国の国民を心底から憤らせたことを、われわれは出発前に知っていた。...われわれが危惧したのは、全体としての戦争の真の均衡が理解されていないかもしれないということだった。合衆国が太平洋で日本と戦い、ヨーロッパ、アフリカ、中東でドイツとイタリアと戦うのをわれわれに任せてしまうかもしれないという由々しい危険を、われわれは意識していた。
...すでにわれわれは、武器貸与法による引渡し予定が再調整の期間全面的に停止される旨の通知を受けていた。...難局の時はいつでもそうだが、ビーバーブルックは楽観的だった。彼はこう言った。合衆国の資源はこれまでのところ、引っかき傷すら負っていない。無尽蔵に資源がある。ひとたびアメリカ国民の全力がこの闘争に向けられるならば、計画あるいは想像されたいかなる事をはるかに凌駕する結果が成就されるだろうというのである。さらに彼は、アメリカ人は生産分野における彼らの力をいまだよくわかっていないと考えていた。...
こうした考慮はすべて、主要な戦略問題の前には色褪せた。日本の敗北はヒトラーの敗北につながりはしないこと、しかしヒトラーの敗北は日本を片付けることを、単に時間と手間の問題にするということを、われわれは、大統領とアメリカの軍部首脳に納得させることができるだろうか?
この重大問題についてわれわれは、長時間にわたって思案した。...
必然的に事務が減り出席すべき閣議も対応すべき訪問客もいない8日間の航海によって突然開けた広大な広がりの中で、私が見、私が感じていた戦争全体を、私は再検討してみることができた。...いつものようにタイピストに口授し自分の考えを陳列することによって、私はそれを実行した。そしてパウンド、ポータル両参謀首脳とディル将軍の意見が私と同じであること、またホリス将軍と事務局が事実を適時に照合することを確認しておくために、私は自分の考えた方針に従って、将来の戦争の進展について3通の文書を作成した。...
第一の文書は、ヨーロッパを舞台とする1942年戦の主要目標がダカールからトルコに至るアフリカと近東の全海岸線を、イギリスとアメリカが占領することでなければならないという理由を列挙した。
第二の文書は、太平洋の支配を奪還するために取られるべき手段を扱い、これが成就されるべき月を1942年5月とすべきことを明記した。とりわけ、空母を即時、大量に生産し、その数を増大させる必要について詳しく述べた。
第三の文書は、ドイツの占領地域で最適と考えられるところにイギリスとアメリカの大軍を上陸させ、それによってヨーロッパを解放することを最終目的とする旨を言明し、1943年をこの最高軍事行動の時と定めた。
...私はこの3通の文書を、クリスマスの前に大統領に渡した。それらが、私の個人的見解を示すものではあるが、両国参謀間の公式の意見交換に取って代わるものではない点を私は説明した。...彼は受け取ると直ちにそれを読み、そして翌日、写しを取っておいてよいかといってきた。私は喜んでそれを承諾した。
...
12月22日、日が暮れてからワシントン空港に着いた。大統領は車の中で待っていた。私は安心と喜びを感じつつ彼の強い手を握った。われわれは、間もなくホワイトハウスに到着した。ここは今後3週間あらゆる意味でわれわれの家となるべきところだった。
...とりわけ著しい面はもちろん大統領との接触であった。われわれは毎日数時間会見し、いつも一緒に昼食をとり、これに第三者としてハリー・ホプキンスが同席した。われわれは仕事以外の話はせず大小多くの点に関してかなりの程度の合意に達した。夕食は一段と社交的な機会だったが、また親密さと友好さを増す機会でもあった。大統領は必ず自分で食前のカクテルを作り、そして私は車付きの椅子にかけている彼を居間からエレベータまで押して行った。これは敬意のしるしであり、またエリザベス女王の前にマントを広げたサー・ウォルター・ローレイSir Walter Raleighのことを考えたからでもあった。ほぼ10年間にわたってアメリカの舞台を思うままに動かし、そして私の心を動かした衝動の多くに反応するような心を持つこの偉大な政治家に対して、私は非常に強い愛情を感じたが、それはわれわれの親交の年月とともに成長した。
...合衆国議会で演説するという招待を全うしたとき私は感動していた。英語を話す国民の何者にも屈しない同盟と私が信じていたものにとって、この機会は重要であった。...クリスマスの日の大部分を私は演説の準備に費やした。12月26日、私が上下両院幹部に案内されてホワイトハウスから議事堂に出かけようとするとき、大統領は私に成功を祈ってくれた。...放送を聴いていた大統領が大成功だといってくれた。
私は12月28日から29日にかけて、夜行列車でオタワに行き、総督アスローン卿のもとに滞在した。29日、私はカナダ戦争内閣の会議に出席し、30日はカナダ議会で演説を行った。休止することのない執務の流れの真っ只中にあって、全世界に伝えられたアメリカ大陸でのあの二つの演説を準備するのはきわめて困難な仕事だった。訓練をつんだ政治家にとって演説は決して格別の重荷ではないが、あのように電流の流れているような雰囲気のなかで、言うべきことと、言うべきでないことを選択するのは気がかりなことであり、気が張ることである。私は最善をつくした。...
私がイギリスから到着して以来ルーズベルト氏が私に示した最初の大きな構想は、ドイツ、イタリア、あるいは日本と交戦中のすべての国家によって署名されるべき厳粛な宣言書を作成することだった。大統領と私は大西洋憲章をつくった際の方法を繰り返し、宣言の草案を用意してそれを混ぜ合わせた。原則において感情においてそして用語においてさえも、われわれは完全に一致していた。本国の戦争内閣は大同盟が計画されている規模に驚くとともに、期待に胸を躍らせた。いかなる政府と権力がその宣言書に署名すべきか、またそれらの序列はどうすべきかについて多くの通信が矢継ぎばやに交わされ、幾つか難しい問題も提起された。われわれは、喜んで、合衆国に第一位を与えた。ホワイトハウスに戻ると、国際連合協約の調印準備はすべて出来上がっていた。...
大統領は「列強同盟」のかわりに「国際連合」という名称を選んだ。私はこれを大きな改善だと思った。私はわが友にバイロンGeorge Gordon Byronの『チャイルド・ハロルド』Childe Haroldからの句を示した。
連合せる国々が剣を抜けるこの地に、
その日、わが国人は戦えり。
これは大いなること ― かつすべてなり ―
永遠に忘れられまじ
Here,where the sword United Nations drew,
Our countrymen were warring on that way!
And this is much -and all- which will not pass away.
元旦の朝、大統領が車椅子で私の部屋に入ってきた。私は浴室から出て、草案に同意した。宣言書それ自体で戦争に勝つことはできないが、それはわれわれが何者であるか、そしてなんのために戦っているのかを明記していた。その日、ルーズベルト、私、リトヴィーノフ、そして中国を代表する宋が、大統領の書斎でこの荘厳な文書に署名した。残りの22カ国の署名を集めることは国務省に委任された。最終的文面はここに記録しておかねばならない。
アメリカ合衆国、イギリス、ソビエト連邦、中国、オーストラリア、ベルギー、カナダ、コスタ・リカ、キューバ、チェコスロバキア、ドミンゴ、エルサルバドル、ギリシャ、グアテマラ、ハイチ、ホンジュラス、インド、ルクセンブルク、オランダ、ニュージーランド、ニカラガ、ノルウェー、パナマ、ポーランド、南アフリカ、ユーゴスラビアによる共同宣言
本宣言の署名諸国は、
1941年8月14日のアメリカ合衆国大統領およびイギリス首相の大西洋憲章として知られる合同宣言中に表現されたる目的と原則との共同計画に賛同し、
彼らの敵に対する完全なる勝利は人命、自由、独立、宗教の自由を防衛し、自国のみならず他国においても人権および正義を保持し、世界を征服せんとする蛮的暴力に対して彼らが共同の闘争に従事しつつあることを確信しつつ、以下の宣言を行う。
(1)三国協約の同盟国およびそれに参加するものに対して交戦関係にある各政府は、その軍事的、経済的全資力を彼らに対して用いることを誓約する。
(2)各政府は本宣言の署名諸政府と協力し、敵国と単独休戦または単独講和を行わないことを誓約する。
上記の宣言は、ヒトラー主義を打倒するための闘争において、物質的援助と貢献をなしつつある、または将来なすことのあるごとき他の国々によって参加されうるものとする。
A Joint Declaration by the United States of America, the United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland, the Union of Soviet Socialist Republics, China, Australia, Belgium, Canada, Costa Rica, Cuba, Czechoslovakia, Dominican Republic, El Salvador, Greece, Guatemala, Haiti, Honduras, India, Luxembourg, Netherlands, New Zealand, Nicaragua, Norway, Panama, Poland, South Africa, Yugoslavia
The Governments signatory hereto,
Having subscribed to a common program of purposes and principles embodied in the Joint Declaration of the President of the United States of America and the Prime Minister of the United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland dated August 14, 1941, known as the Atlantic Charter.
Being convinced that complete victory over their enemies is essential to defend life, liberty, independence and religious freedom, and to preserve human rights and justice in their own lands as well as in other lands, and that they are now engaged in a common struggle against savage and brutal forces seeking to subjugate the world,
DECLARE:
(1) Each Government pledges itself to employ its full resources, military or economic, against those members of the Tripartite Pact :and its adherents with which such government is at war.
(2) Each Government pledges itself to cooperate with the Governments signatory hereto and not to make a separate armistice or peace with the enemies.
The foregoing declaration may be adhered to by other nations which are, or which may be, rendering material assistance and contributions in the struggle for victory over Hitlerism.
Done at Washington January First, 1942
後世の歴史家は、暗号で「アルカディア」と呼ばれたわれわれの第一回ワシントン会議が持つ最も重要で永続的な結果を、いまや有名な「合同三軍参謀首脳委員会」の設置であったと思うことであろう。
...世界のいろいろなところ ― カサブランカ、ワシントン、ケベック、テヘラン、カイロ、マルタ、クリミア ― で行われた頻繁な会議では、これらの主要人物が時には2週間もの間一緒になった。戦争中、合同三軍参謀首脳委員会によっておこなわれた200回の公式会議のうち89回以上はこれらの会議地で開かれた。...
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Winston Churchill en Franklin Delano Roosevelt op 22 december 1941.
...photo;Arcadia Conference /Wikipedia
本文の記述のうち、青字、...(部分的省略)の部分は、以下のご本からの引用によります。
「第二次世界大戦(下)W・S・チャーチル著/佐藤亮一訳 河出書房新社 昭和49年6月15日」









