
アメリカの参戦でやっと光明は見え始めたが、この戦争のはじまりからイギリスも耐えに耐えてはきているものの、ほとんど負け続けなのだ。プリンス・オブ・ウェールズも沈められマラヤに刻々迫る危機、北アフリカではつかの間の勝利もロンメルにすっかり巻き返される。演説は任せるから戦争指導は誰かに譲るべきだと!?皆さんごちゃごちゃいうなら、私、チャーチルの信任投票をやってくれ、どうだ!
この騒ぎが、まもなく起きたシンガポール陥落のあとだったら、もっとたいへんだっただろう。じゃあ誰かやってみたら、とはチャーチルは決して言わない、投げ出さない人だった。責任感にあふれ意思が強固で、精神的にタフな人であった。
イギリス軍史上最大の8万人余の降伏とか、ビンボーな日本陸軍はブリキ製のようなタンクと速攻の機動力はチャリンコ、あざやかどころか無謀。イギリス側の怠慢に助けられたが、どうも兵士達のこの戦闘経緯などはかわいそうなだけ。
情勢が緊迫してきているなか現地の司令官達は何をしていたか、チャーチルはいらだつ。心配ごとを訴えてくるオーストラリアも北アフリカではよくやってくれるが、あの政府はいまだ徴兵制も布こうとしない...
今日、もう昨日か、梅雨が明けたようで釣りに行く途中、Bob Dylanを聴いていた。今年はなんかへん、福島県沖地震で津波注意報が出て一時海岸から引き揚げさせられた。Bob Dylanは詩人だな、ちゃんとした詩、いい歌だ。さだめしチャーチルもこんな心境だったか、ンなわけないか、でも光が西から東にというのも、なんともあっているではないか。帰って7月のカレンダーの写真を見れば、シンガポールのダウンタウン、海沿いに高層ビルが立ち並び、間々には赤い瀟洒な屋根の家や教会。近代的できれいな街並みだ。妻の祖父は占領のあと志願して民政官としてあそこにいったという。このおじいちゃんといい、チャーチルといい、明治生まれ!の人は、皆命がけで気骨があった。
“I shall be released”
They say ev'rything can be replaced,
Yet ev'ry distance is not near.
So I remember ev'ry face
Of ev'ry man who put me here.
I see my light come shining
From the west unto the east.
Any day now, any day now,
I shall be released.
They say ev'ry man needs protection,
They say ev'ry man must fall.
Yet I swear I see my reflection
Some place so high above this wall.
I see my light come shining
From the west unto the east.
Any day now, any day now,
I shall be released.
Standing next to me in this lonely crowd,
Is a man who swears he's not to blame.
All day long I hear him shout so loud,
Crying out that he was framed.
I see my light come shining
From the west unto the east.
Any day now, any day now,
I shall be released.
(Words and Music by Bob Dylan)
「郎女迷々日録 幕末東西」さんの リーズデイル卿とジャパニズムvol 3 は、パブリック・スクール・イートン校のお話。チャーチルはハロー校で学んだ。郎女さんに“I Vow To Thee, My Country”を教えていただいた。イギリスをちゃんとみたいなら、こういうのこそ、見たり聞かなくちゃ。YouTubeうろうろついでに、Katherine Jenkins、うっとりしてしまった...
(チャーチルもイートンで学んだと誤記しましたが、彼が学んだのはハロー校のほうでした。これまた、郎女さんから教えてもらいました。2008.7.20 22:30追記)
“I Vow To Thee, My Country”(Lyrics by Cecil Spring-Rice )
I vow to thee, my country, all earthly things above,
Entire and whole and perfect, the service of my love;
The love that asks no question, the love that stands the test,
That lays upon the altar the dearest and the best;
The love that never falters, the love that pays the price,
The love that makes undaunted the final sacrifice
...
And there's another country, I've heard of long ago,
Most dear to them that love her, most great to them that know;
We may not count her armies, we may not see her King;
Her fortress is a faithful heart, her pride is suffering;
And soul by soul and silently her shining bounds increase,
And her ways are ways of gentleness, and all her paths are peace.
>>>>>
ワシントンへの私の使命と、留守にしていた5週間に起こったことすべてについて、私は詳細な説明を議会に対して行うよう求められていた。二つの事実が私の心のなかではっきりしていた。第一の事実は、大同盟が結局は戦争に勝つはずだということだった。第二は、日本の猛攻撃によって、ぼう大な測り知れない惨禍の波がわれわれに接近しているということだった。
国家として、帝国としてのわれわれの生命がもはや危機に瀕していないことは誰にも理解でき、強い安堵の念を持ちうるはずだった。一方、致命的な危機の感覚が大きく取り除かれたという事実のために、善意の批評家にせよ、これまでなされた多くの誤謬を自由に指摘できるようになった。さらには、われわれの戦争指導を改善し、この恐怖の物語を短縮することが自分の義務だと感じる人々が多くなった。私自身も、すでにわれわれに降りかかった数々の敗北に深く心を悩ませ、これらが大洪水の始まりにすぎないことを誰よりもよく知っていた。オーストラリア政府の態度、新聞の情報豊かだが妙に超然とした批評、2,30名の有能な議員の抜け目のない絶え間ない嘲弄、議員控室の雰囲気、これらは私には、当惑して不幸で狼狽した世論が、表面的ではあるが私の周り至る方面で膨れ上がり、高まりつつあるように感じられた。
一方、私は自分の地位の強みをよく知っていた。1940年にその生存を私が分担した人々の善意に、私は期待することができた。私を推進する国民の忠誠の広い深い流れを、私は低く見積もりはしなかった。戦争内閣と三軍参謀首脳は私にこの上ない忠誠を示してくれた。私は自信を持っていた。必要な場合には、私は周囲の者に対し、私が私個人の権威と責任の最小限度の削減にも同意する積りはないことを明らかにした。私が首相の地位に留まり、演説するのはいいが、戦争の実質的指導は誰か他のものに譲るべきだということを意味する記事が新聞に満載された。私はいかなる方面にも何一つ譲らず、自ら主要な直接的個人責任を担い、下院に信任投票a Vote of Confidence を要求する決意を固めた。私は「人心を治めるのは冷静によるのみ」On ne regne sur les ames que par le calme.というフランスの格言を思い出した。
われわれに差し迫っている不幸を議会と国民に警告することは、何にもまして必要であった。大衆の指導においては、すぐに一掃されてしまう偽りの希望を主張するほど悪い間違いはない。イギリス国民は危険や不幸に対して忍耐と陽気さをもって直面することが出来るが、しかし欺かれたり、あるいは自分たちの事柄に責任を持つ人々が、愚者の楽園a fool's paradise に暮らしていたことがわかると、激しく憤る。
私は、最も暗い言葉で目前の見通しを描写することによって将来の惨禍を減ずるのが、私自身の立場のみならず戦争の全面的指導にとってきわめて重要であると感じた。ちょうどこの時点においては、軍事的状況を害することなく、またいまやすべてのものが感じて当然だった最後の勝利に対するあの根本的な確信を乱すこともなく、そうすることが可能であった。一日一日がもたらす衝撃と緊迫にかかわらず、広大で多方面にわたる問題についての1万語の原稿が要求する12時間ないし14時間の精神集中を、私は惜しみはしなかった。そして沙漠における不利な戦いの炎が私の足をなめている間に、私はわれわれの事態に関する声明書と、その判断を準備することができた。
ホワイトハウスを去る以前に、ロンメルが敗北するだろうという私の勝利の希望は消えていた。ロンメルは脱出したのだった。シディ・レゼクとガザラにおけるオーキンレックの成果も決定的なものではなかった。12月から1月にかけての地中海における敵空軍力の回復と、数ヶ月にわたるわが海上支配の実質的消滅は、彼があれほど激しく戦い実に長い間待っていた勝利の結実を彼から奪い取ることになった。フランス領北アフリカに対する英米軍の急襲を計画していたことに彼が与えていた優位ははっきりと弱まり、かくてこの作戦は数ヶ月延期される事が明らかになった。
さらに悪い事態がやってきた。...1月21日、アゲイラの陣営からロンメルは強行偵察隊を上陸させた。これは三列縦隊で編成され、それぞれ戦車に護衛された約千名の機械化部隊だった。これらはわが連絡部隊の間隙を迅速に突き抜けた。わが連絡部隊は使える機甲を持たず退却を命じられた。彼はまたしても沙漠戦術の大家であることを立証し、わが軍の司令官を出し抜いて、キレナイカの大部分を奪回してしまった。
...
...論議はそれから3日間続行された。しかしその調子は私にとって意外なほど好意的だった。議会が何をするかについては全く疑いがなかった。アトリー氏を首班とする戦争内閣のわが同僚たちは、強力にそして激烈なまでに政府の立場を支持した。29日、私は結末をつけねばならなかった。...私はわれわれを批判するものたちを嘲笑によって反対投票に動かしてやろうと試み、同時にいまや完全に一致した会議の感情を損なわないよう留意した。...結果は464票対1票だった。新聞があんなに騒ぎ立てていたので、連合国すべてから安心と祝賀の電報が次々と入ってきた。
最も暖かいものはホワイト・ハウスのわがアメリカの友人たちからだった。私は先に大統領の60歳の誕生日に祝電を打っていた。彼は「あなたと同じ時代に存在するのは面白い」It is s fun, to be in the same decade with you.といってよこした。...
======
...いまやこの東方地域の連合軍最高司令官となったウェーヴェル将軍が長期にわたるシンガポール防衛を維持するわれわれの能力に対して、すでに疑いを持っているということが間もなく明らかになった。この島と要塞を私は大いに頼りにしていた。その攻撃のためには日本軍が重火器を陸揚げし、輸送し、据えつける必要があった。ワシントンを発つ前、私は少なくとも2ヶ月の抵抗を依然として期待していた。
しかし、1月16日、ウェーヴェルが次のような電報をよこした。「ごく最近まで、すべての計画は海上よりのシンガポール島攻撃を撃退すること、および陸上からの攻撃はジョホール或いはその北方で食い止めることに基盤をおいておりました。そして堤道爆破の準備は整えられましたが、島の北部に防禦を築いてジョホール海峡横断を阻止するためには、ほとんど或いは全く何もなされてはいません。...」
19日の朝この電報を読んだ時、私は痛切な驚きの感情に襲われた。あの海軍基地と市の本土に面する側を擁護する恒久的要塞は何もなかったのだ!その上さらに驚くべきことに、開戦以来とりわけ日本軍がインドシナに陣営を固めて以来、指揮官の誰一人として、野戦防備の建造のために然るべき手段をとっていなかったのである。...
戦争について見たり読んだりしたことから、私は次のような確信を抱くようになっていた。即ち、現代の砲火力を考慮すれば、強固な野戦防備を築くには数週間で足り、また地雷原その他の阻害物によって敵の攻撃前線を制限し横にそらせるという確信である。
日本軍はいまや完全な5個師団を有していた。彼らは迅速に海岸沿いに侵入し、1月27日にはパーシヴァル将軍がシンガポール島まで撤退することを決定した。最終的には人も車も残らず島への堤道を渡っていた。...1月31日の朝には残りの兵力が堤道を渡り、堤道は彼らの背後で爆破された。
本国のわれわれは、もはや長期防衛についてなんの幻想も抱いてはいなかった。唯一の疑問はいつまで持つかということだった。...今ようやく集中された守備隊の数は損失と消耗のために陸軍省の見積もりの10万6千から8万5千に減少し、しかもそれには基地と後方勤務部隊とさまざまな非戦闘部隊が含まれていた。...半島における長く苦しい戦いによって陸軍の士気は大いに低下していた。そうしたことすべての背後にシンガポール市が横たわり、そこには恐らく百万に及ぶ多数の人種と避難民の大群が隠れていた。...
...2月8日朝、敵が島の北西部の植林地に群がりつつあるという巡邏兵の報告があり、そしてわが陣営は激しい砲撃を受けた。午前10時45分、攻撃の先頭をきる波が、長期にわたる慎重な計画によって陸路を通って進水地点まで運ばれた装甲上陸用舟艇とともにジョホール海峡を渡った。非常な激戦が展開され多くの舟艇が沈められた。しかし陸上のオーストラリア軍は手薄であり、敵は多くの地点から上陸した。...2月11日には全戦線において大混戦が一日中続いた。
...すでにシンガポール市内の状況は驚くべきものとなっていた。民間労働力は壊滅し、水道に停止は差し迫っているように見え、倉庫がいまや敵の手に落ちたために、部隊用の食料と弾薬の蓄えは大きく減っていた。...シンガポールですべてが失われたことが確かになった今、不必要な殺戮を強制し、そして勝利の見込みのないままに人々がひしめき合い絶望に陥り、慌てふためいている大都会に、市街戦の恐怖を課することは確かに間違いだと私は思った。...
1942年2月15日の日曜日が降伏の日となった。...日本軍は無条件降伏を要求し、それは受け入れられた。敵対行為は午後8時30分に終了した。

Japanese forces in Bukit Timah shortly after its capture.
***************
Battle_of_Singapore / Wikipedia
wiki/I_Vow_to_Thee,_My_Country
本文の記述のうち、青字、...(部分的省略)の部分は、以下のご本からの引用によります。
「第二次世界大戦(上/下)W・S・チャーチル著/佐藤亮一訳 河出書房新社 昭和49年6月15日」
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この騒ぎが、まもなく起きたシンガポール陥落のあとだったら、もっとたいへんだっただろう。じゃあ誰かやってみたら、とはチャーチルは決して言わない、投げ出さない人だった。責任感にあふれ意思が強固で、精神的にタフな人であった。
イギリス軍史上最大の8万人余の降伏とか、ビンボーな日本陸軍はブリキ製のようなタンクと速攻の機動力はチャリンコ、あざやかどころか無謀。イギリス側の怠慢に助けられたが、どうも兵士達のこの戦闘経緯などはかわいそうなだけ。
情勢が緊迫してきているなか現地の司令官達は何をしていたか、チャーチルはいらだつ。心配ごとを訴えてくるオーストラリアも北アフリカではよくやってくれるが、あの政府はいまだ徴兵制も布こうとしない...
今日、もう昨日か、梅雨が明けたようで釣りに行く途中、Bob Dylanを聴いていた。今年はなんかへん、福島県沖地震で津波注意報が出て一時海岸から引き揚げさせられた。Bob Dylanは詩人だな、ちゃんとした詩、いい歌だ。さだめしチャーチルもこんな心境だったか、ンなわけないか、でも光が西から東にというのも、なんともあっているではないか。帰って7月のカレンダーの写真を見れば、シンガポールのダウンタウン、海沿いに高層ビルが立ち並び、間々には赤い瀟洒な屋根の家や教会。近代的できれいな街並みだ。妻の祖父は占領のあと志願して民政官としてあそこにいったという。このおじいちゃんといい、チャーチルといい、明治生まれ!の人は、皆命がけで気骨があった。
“I shall be released”
They say ev'rything can be replaced,
Yet ev'ry distance is not near.
So I remember ev'ry face
Of ev'ry man who put me here.
I see my light come shining
From the west unto the east.
Any day now, any day now,
I shall be released.
They say ev'ry man needs protection,
They say ev'ry man must fall.
Yet I swear I see my reflection
Some place so high above this wall.
I see my light come shining
From the west unto the east.
Any day now, any day now,
I shall be released.
Standing next to me in this lonely crowd,
Is a man who swears he's not to blame.
All day long I hear him shout so loud,
Crying out that he was framed.
I see my light come shining
From the west unto the east.
Any day now, any day now,
I shall be released.
(Words and Music by Bob Dylan)
「郎女迷々日録 幕末東西」さんの リーズデイル卿とジャパニズムvol 3 は、パブリック・スクール・イートン校のお話。チャーチルはハロー校で学んだ。郎女さんに“I Vow To Thee, My Country”を教えていただいた。イギリスをちゃんとみたいなら、こういうのこそ、見たり聞かなくちゃ。YouTubeうろうろついでに、Katherine Jenkins、うっとりしてしまった...
(チャーチルもイートンで学んだと誤記しましたが、彼が学んだのはハロー校のほうでした。これまた、郎女さんから教えてもらいました。2008.7.20 22:30追記)
“I Vow To Thee, My Country”(Lyrics by Cecil Spring-Rice )
I vow to thee, my country, all earthly things above,
Entire and whole and perfect, the service of my love;
The love that asks no question, the love that stands the test,
That lays upon the altar the dearest and the best;
The love that never falters, the love that pays the price,
The love that makes undaunted the final sacrifice
...
And there's another country, I've heard of long ago,
Most dear to them that love her, most great to them that know;
We may not count her armies, we may not see her King;
Her fortress is a faithful heart, her pride is suffering;
And soul by soul and silently her shining bounds increase,
And her ways are ways of gentleness, and all her paths are peace.
>>>>>
ワシントンへの私の使命と、留守にしていた5週間に起こったことすべてについて、私は詳細な説明を議会に対して行うよう求められていた。二つの事実が私の心のなかではっきりしていた。第一の事実は、大同盟が結局は戦争に勝つはずだということだった。第二は、日本の猛攻撃によって、ぼう大な測り知れない惨禍の波がわれわれに接近しているということだった。
国家として、帝国としてのわれわれの生命がもはや危機に瀕していないことは誰にも理解でき、強い安堵の念を持ちうるはずだった。一方、致命的な危機の感覚が大きく取り除かれたという事実のために、善意の批評家にせよ、これまでなされた多くの誤謬を自由に指摘できるようになった。さらには、われわれの戦争指導を改善し、この恐怖の物語を短縮することが自分の義務だと感じる人々が多くなった。私自身も、すでにわれわれに降りかかった数々の敗北に深く心を悩ませ、これらが大洪水の始まりにすぎないことを誰よりもよく知っていた。オーストラリア政府の態度、新聞の情報豊かだが妙に超然とした批評、2,30名の有能な議員の抜け目のない絶え間ない嘲弄、議員控室の雰囲気、これらは私には、当惑して不幸で狼狽した世論が、表面的ではあるが私の周り至る方面で膨れ上がり、高まりつつあるように感じられた。
一方、私は自分の地位の強みをよく知っていた。1940年にその生存を私が分担した人々の善意に、私は期待することができた。私を推進する国民の忠誠の広い深い流れを、私は低く見積もりはしなかった。戦争内閣と三軍参謀首脳は私にこの上ない忠誠を示してくれた。私は自信を持っていた。必要な場合には、私は周囲の者に対し、私が私個人の権威と責任の最小限度の削減にも同意する積りはないことを明らかにした。私が首相の地位に留まり、演説するのはいいが、戦争の実質的指導は誰か他のものに譲るべきだということを意味する記事が新聞に満載された。私はいかなる方面にも何一つ譲らず、自ら主要な直接的個人責任を担い、下院に信任投票a Vote of Confidence を要求する決意を固めた。私は「人心を治めるのは冷静によるのみ」On ne regne sur les ames que par le calme.というフランスの格言を思い出した。
われわれに差し迫っている不幸を議会と国民に警告することは、何にもまして必要であった。大衆の指導においては、すぐに一掃されてしまう偽りの希望を主張するほど悪い間違いはない。イギリス国民は危険や不幸に対して忍耐と陽気さをもって直面することが出来るが、しかし欺かれたり、あるいは自分たちの事柄に責任を持つ人々が、愚者の楽園a fool's paradise に暮らしていたことがわかると、激しく憤る。
私は、最も暗い言葉で目前の見通しを描写することによって将来の惨禍を減ずるのが、私自身の立場のみならず戦争の全面的指導にとってきわめて重要であると感じた。ちょうどこの時点においては、軍事的状況を害することなく、またいまやすべてのものが感じて当然だった最後の勝利に対するあの根本的な確信を乱すこともなく、そうすることが可能であった。一日一日がもたらす衝撃と緊迫にかかわらず、広大で多方面にわたる問題についての1万語の原稿が要求する12時間ないし14時間の精神集中を、私は惜しみはしなかった。そして沙漠における不利な戦いの炎が私の足をなめている間に、私はわれわれの事態に関する声明書と、その判断を準備することができた。
ホワイトハウスを去る以前に、ロンメルが敗北するだろうという私の勝利の希望は消えていた。ロンメルは脱出したのだった。シディ・レゼクとガザラにおけるオーキンレックの成果も決定的なものではなかった。12月から1月にかけての地中海における敵空軍力の回復と、数ヶ月にわたるわが海上支配の実質的消滅は、彼があれほど激しく戦い実に長い間待っていた勝利の結実を彼から奪い取ることになった。フランス領北アフリカに対する英米軍の急襲を計画していたことに彼が与えていた優位ははっきりと弱まり、かくてこの作戦は数ヶ月延期される事が明らかになった。
さらに悪い事態がやってきた。...1月21日、アゲイラの陣営からロンメルは強行偵察隊を上陸させた。これは三列縦隊で編成され、それぞれ戦車に護衛された約千名の機械化部隊だった。これらはわが連絡部隊の間隙を迅速に突き抜けた。わが連絡部隊は使える機甲を持たず退却を命じられた。彼はまたしても沙漠戦術の大家であることを立証し、わが軍の司令官を出し抜いて、キレナイカの大部分を奪回してしまった。
...
...論議はそれから3日間続行された。しかしその調子は私にとって意外なほど好意的だった。議会が何をするかについては全く疑いがなかった。アトリー氏を首班とする戦争内閣のわが同僚たちは、強力にそして激烈なまでに政府の立場を支持した。29日、私は結末をつけねばならなかった。...私はわれわれを批判するものたちを嘲笑によって反対投票に動かしてやろうと試み、同時にいまや完全に一致した会議の感情を損なわないよう留意した。...結果は464票対1票だった。新聞があんなに騒ぎ立てていたので、連合国すべてから安心と祝賀の電報が次々と入ってきた。
最も暖かいものはホワイト・ハウスのわがアメリカの友人たちからだった。私は先に大統領の60歳の誕生日に祝電を打っていた。彼は「あなたと同じ時代に存在するのは面白い」It is s fun, to be in the same decade with you.といってよこした。...
======
...いまやこの東方地域の連合軍最高司令官となったウェーヴェル将軍が長期にわたるシンガポール防衛を維持するわれわれの能力に対して、すでに疑いを持っているということが間もなく明らかになった。この島と要塞を私は大いに頼りにしていた。その攻撃のためには日本軍が重火器を陸揚げし、輸送し、据えつける必要があった。ワシントンを発つ前、私は少なくとも2ヶ月の抵抗を依然として期待していた。
しかし、1月16日、ウェーヴェルが次のような電報をよこした。「ごく最近まで、すべての計画は海上よりのシンガポール島攻撃を撃退すること、および陸上からの攻撃はジョホール或いはその北方で食い止めることに基盤をおいておりました。そして堤道爆破の準備は整えられましたが、島の北部に防禦を築いてジョホール海峡横断を阻止するためには、ほとんど或いは全く何もなされてはいません。...」
19日の朝この電報を読んだ時、私は痛切な驚きの感情に襲われた。あの海軍基地と市の本土に面する側を擁護する恒久的要塞は何もなかったのだ!その上さらに驚くべきことに、開戦以来とりわけ日本軍がインドシナに陣営を固めて以来、指揮官の誰一人として、野戦防備の建造のために然るべき手段をとっていなかったのである。...
戦争について見たり読んだりしたことから、私は次のような確信を抱くようになっていた。即ち、現代の砲火力を考慮すれば、強固な野戦防備を築くには数週間で足り、また地雷原その他の阻害物によって敵の攻撃前線を制限し横にそらせるという確信である。
日本軍はいまや完全な5個師団を有していた。彼らは迅速に海岸沿いに侵入し、1月27日にはパーシヴァル将軍がシンガポール島まで撤退することを決定した。最終的には人も車も残らず島への堤道を渡っていた。...1月31日の朝には残りの兵力が堤道を渡り、堤道は彼らの背後で爆破された。
本国のわれわれは、もはや長期防衛についてなんの幻想も抱いてはいなかった。唯一の疑問はいつまで持つかということだった。...今ようやく集中された守備隊の数は損失と消耗のために陸軍省の見積もりの10万6千から8万5千に減少し、しかもそれには基地と後方勤務部隊とさまざまな非戦闘部隊が含まれていた。...半島における長く苦しい戦いによって陸軍の士気は大いに低下していた。そうしたことすべての背後にシンガポール市が横たわり、そこには恐らく百万に及ぶ多数の人種と避難民の大群が隠れていた。...
...2月8日朝、敵が島の北西部の植林地に群がりつつあるという巡邏兵の報告があり、そしてわが陣営は激しい砲撃を受けた。午前10時45分、攻撃の先頭をきる波が、長期にわたる慎重な計画によって陸路を通って進水地点まで運ばれた装甲上陸用舟艇とともにジョホール海峡を渡った。非常な激戦が展開され多くの舟艇が沈められた。しかし陸上のオーストラリア軍は手薄であり、敵は多くの地点から上陸した。...2月11日には全戦線において大混戦が一日中続いた。
...すでにシンガポール市内の状況は驚くべきものとなっていた。民間労働力は壊滅し、水道に停止は差し迫っているように見え、倉庫がいまや敵の手に落ちたために、部隊用の食料と弾薬の蓄えは大きく減っていた。...シンガポールですべてが失われたことが確かになった今、不必要な殺戮を強制し、そして勝利の見込みのないままに人々がひしめき合い絶望に陥り、慌てふためいている大都会に、市街戦の恐怖を課することは確かに間違いだと私は思った。...
1942年2月15日の日曜日が降伏の日となった。...日本軍は無条件降伏を要求し、それは受け入れられた。敵対行為は午後8時30分に終了した。

Japanese forces in Bukit Timah shortly after its capture.
***************
Battle_of_Singapore / Wikipedia
wiki/I_Vow_to_Thee,_My_Country
本文の記述のうち、青字、...(部分的省略)の部分は、以下のご本からの引用によります。
「第二次世界大戦(上/下)W・S・チャーチル著/佐藤亮一訳 河出書房新社 昭和49年6月15日」
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ご訪問の御礼に訪ねてみて、びっくり!
キャサリン・ジェンキンスの「I vow to thee my country」もいいですよね。YouTubeのお気に入りに入れているのは、キャサリンの方です(笑)
「海ゆかば」も、だれか、こういう感じで歌ってくれないですかねえ。あと、分列行進曲のロック調が聞いてみたかったり。
幕末にとらわれている私は、いまのところ、第2次大戦まではなかなか範疇に入ってこないのですが、楽しみに見せていただきます。
ちなみにバーティ・ミットフォードの孫、3代リーズデイル男爵になるはずだったトム・ミットフォードは、対日ビルマ戦線で戦死しています。
I Vow To Thee, My Countryはもとより、Katherine Jenkinsまでも初めて知ったわけで...郎女さんからは、たんへんよい知的刺激を受け大感謝です。
さて、以前「ロックLP名盤」という戯れ文を書いたことがありました。google でトップに出てきましたよ、LPなどいまや不可思議な言葉ですからねえ...
Before the flood / Bob Dylan & The Band というのも載せてましたよ、このオジサン。
「海ゆかば」、これは、“ジュピター”のおかえしに平原綾香くんがいいかなあ!?
って、冗談です。
ジャニスにニールヤング、イーグルス。なつかしいです。
私、そのー、平原綾香のジュピターの方を知りませんで、さがしてみました。なかなか、いい声ですねえ。ぜひ、海ゆかばをお願いしたいものです
拙文辿っていただき、ありがとうございます。
ボクは昼寝までしてまして
Katherine Jenkinsの「夢に生きて」というCD買ってきてしまいました。プッチーニの歌劇からの<誰も寝てはならぬ>などというのも入ってますね...
まあクラシックをきっちりやったかたの、ポピュラーなクロスオヴァーものも、いいですね。CDよりDVD向きですねこのかたは、華がある!