Storia‐異人列伝

歴史に名を残す人物と時間・空間を超えて―すばらしき人たちの物語

聡明な僭主 − ペイシストラトス

2009-12-20 22:00:17 | 西洋のひと/ギリシャ・ローマ
僭主と言えば、思いつくのは、傲慢、狡猾、傀儡、成金...あまり素性のよくない人物が手中にした地位か、と妙な印象ばかり。ところが、アテネのペイシストラトスと言う人物には、「聡明な」という形容詞がついた。されど王様の血筋でもない人物が権力を手中にするには、まずはやはりクーデターであった。

しかし、アテネの貴族層もおいそれと許すものでもなく、彼が僭主として実権を完全に掌握するまでには、二度の亡命生活をなかにはさんで20年近くかかったらしい。再々チャレンジで射止めた権力の座であったろうが、驕ることなくソロンの布いた法律をも引継ぎ、自らの力を信じつつ温和な治世をおこなったようだ。伊藤貞夫先生の「古代ギリシアの歴史 −ポリスの興隆と衰退− 」から、引用させていただいた。

農民の保護と勧農施策、アクロポリスの整備、そしてパンアテナイア祭、大ディオニュシア祭...聡明な上に明るいお祭り男でもあったか。こういう男の顔を見たかったが、まだ時代がそれどころではなかったようだ。それとも、どこかに埋まっているのだろうか、かくなるうえは、アテネという都市国家を築き上げるに多大な貢献をなした彼に敬意を表して、彼よりも強かった守護神・アテナ女神に登場していただいた。

>>>>>>

<アテネ民主政とソロン>
アテネ民主政成立のうえで、ソロンの果たした役割をどのように評価するか。この点については、学者の間に少なからぬ見解の開きがある。それは、彼のなした改革について、その自作の詩の断片以外に、同時代の確かな史料が見当たらないという事情による。のちの伝えも改革の詳細を語らない場合が多く、そのために、われわれは実状を把握するのに困難を感ずることが少なくないのである。「重荷おろし」に関して、そのような問題のあることは既に述べた。国制上の諸改革についても、同じことがいえる。さきにふれた市民の等級づけにしても、その基礎をなす財産の査定に関して難しい問題がいくつかある。役人の選出についても同様である。財務官と違い、アルコンには騎士級の市民も就任しえたのかどうか。これに関して、実は議論の分かれがあるし、各部族から十人を予選し計四十人のなかから籤でアルコン9人を選んだとするアリストテレスの伝え(『アテナイ人の国制』8章1節)も、そのまま受け取るべきか否か、専門家の意見は一致を見ない。
...
<民主政創始者としてのソロン像>
このように、ソロンの国制改革に関する伝えは、民主政的色彩を帯びる細部について、ことに史実性に乏しい。民主政創始者としてのソロン像は、前4世紀のアテネ内部における党争の過程で生み出された虚像だとする一部の学者の意見も、一概に退けるわけにゆかないかもしれない。
だが、たといソロン自身、明確に民主政を志向することがなかったとしても、彼の行った各種の改革は、以後のアテネの社会と政治の基本的方向を定め、前5世紀の民主政完成に結実する動きの第一歩となった。中小農民の救済とアテネ市民団の再建、市民身分の確立と財産級制度の導入という彼の改革の骨組みをなす部分について、そのことはことに明らかである。

細かい点に関して議論の分かれが見られるにせよ、古典期の民主的国制の要の一つである裁判制度も、その大枠はソロンの創始にかかるものとされている。市民生活を律する数々の法についても、事情は同様である。法廷弁論をはじめ、数多くの古典史料に引かれている、いわゆるソロンの法がすべて彼の立法によるものかどうかは、今日、多くの学者によって疑われている。しかし、その一部は明らかにソロンの手に成り、以後のアテネ市民の、たとえが家族生活を律してきたことは疑う余地がない。

ソロンはまた、アテネ経済の発展のためにも、様々な手を打った。特産のオリーブ油以外の農産物の輸出を禁ずる一方、手工業を奨励する措置として一家あげて来住し手の技に従う外人にアテネ市民権を賦与する特例を設けたりした。専門家の間にめんどうな議論を呼んでいる度量衡の改正も、海外との交易の便宜を考慮してのことと推測してよいであろう。

<ソロンの改革後の混乱>
ソロンの改革・立法事業は、その範囲がまことに広く、また後世に与えた影響も深い。しかしそのことは、かならずしも彼の施策が当時のアテネの抱える矛盾をみごとに解決したということを意味しない。事実はむしろ逆であって、貴族の側からは改革のゆきすぎを、また、民衆の側からは改革の不徹底を難ずる声がつよく、ソロンはそれをさけてエジプトに旅立ったという。

アテネ国内の混乱は、改革後数年にしてかなりの程度に達したらしい。アルコンArchonの選出が一度ならず二度までも不可能の状態におちいったり、逆に、選ばれたアルコンが二年以上も在職して、僭主政の危険ありとして逐われたりした。そのあげく、筆頭のアルコン職を貴族5人、農民3人、おそらくは富裕な商人や手工業者2人、あわせて10人で分担するという異常事態にまで立ちいったことを史料は伝える。前580年のこの事件は、ソロンの財産級を背景に平民の最上層が国政指導の一角に食い込むことに成功したことを示すかに見えるが、事態はその後、貴族に対する平民のあからさまな身分闘争という形を取って進行したのではないようだ。

当時のアテネ国内には、平野党・海岸党・山地党の三党派が鼎立していたと伝えられる。党派の名前が示すように、それは地域的な対立であり、同時にそれぞれ政治的主張を異にする階層別の集団の対立でもある。これが在来の通説であった。だが近年、このような見方に対して有力な異論が提出されている。党争は、指導的な貴族の対抗関係を起点とし、三つの党派の名は、それぞれ彼ら有力者の本拠の所在を示す。三地域の住民構成に根本的な差はなく、したがって、かりに三つの党派の支持者の間に地域による色分けが認められるとしても、そこから階層的対立と政治的主張の違いを推論することは当をえない。批判の要点は以上のようなところにある。

この説は恐らく正しい。平民の力の向上と、それに対する貴族の対応という事態を底流としながらも、政治の動きはこれら平民をも支持者として抱える有力貴族たちの抗争を軸に展開されていった。その場合、貴族たちにとり、自派の内部においても、また党派間の抗争の過程においても、平民層の動向を無視することは、ますます許されなくなっていたであろう。局面によっては、平民たちの支持いかんがすべてを決定することもありえたはずである。アッティカの北東部に拠点をもちながらも、中心市の民衆の支持をも得て、ついに僭主政樹立に成功したペイシストラトスの事例が、そのことを如実に語っている。

<ペイシストラトスの僭主政樹立>
ペイシストラトスの政権奪取は、まさしくクーデターによるものだった。当時のアテネ史を貫く一筋の重要な糸は、隣国メガラとの対抗関係である。ソロンも実は対メガラ戦で名をあげて政界に登場したのだが、ペイシストラトスの場合も事情は同じだった。だが政権掌握の過程は全く対照的である。
一日、ペイシストラトスは自分の身体に傷をつけて人々の前に現れ、反対派によってこれほどまでにひどい目に遭わされたと訴える。そして、民会の決議にもとづいて護衛兵の設置を認められる。ペイシストラトスはこの武力を用いて一挙にアクロポリスを占領し、非合法にアテネの統治権を手中にするのである。ペイシストラトスが護衛兵の設置を要求したとき、老齢のソロンは僭主政樹立の意図を見ぬき、それを認めないよう人々に説いたが、甲斐なく終わったといわれる。ときに前561年であった。

キュロンによる最初の試みから数えて70余年、アテネにも、おくればせながら僭主政が成立する。しかしペイシストラトスの支配が確立するまでには、リュクルゴス、メガクレスといったそれぞれ平野党・海岸党を率いる有力貴族との間の熾烈な党争が待ちかまえていた。ペイシストラトスは、彼らによって二度までもアテネを逐われる。メガクレスの娘との政略結婚まであえてしている。だが、最後にものをいったのは資金力と武力であった。ペイシストラトスは二度目の追放後、トラキアの有名なパンガイオン金山の付近に根城を定め、その採掘で富を得、兵を養って、反攻の機会をうかがう。その機会はおとずれた。彼は他ポリスの同志の協力をも得て、反対派をアッティカ中央部のぺルレネで破り、僭主政の確立に成功するのである。

その年代は、伝えが不明確なため専門家の間で意見が分かれる。総じてペイシストラトスをめぐる細かな年代画定には異論が多く、ほぼ一致を見るのは、没年を前528/7年に置くだけといってよい。さきに記した第一回クーデターの年代、前561/0年についても、前560/59年を主張する専門家が少なくない。諸家の推定にしたがえば、短くとも十数年、ながく見積もれば20数年の年月が僭主政確立までに費やされている。その仕上げが市民たちからの武器の取り上げである。...

<中小農民の保護育成>
ペイシストラトスがとくに気を配ったのは中小農民の処遇である。市民たちの多くが田園に居ついて農耕に精を出し、政治に口出しする暇もないようにすること。そこに彼の勧農政策の目的があった、とアリストテレスはいう(『アテナイ人の国制』16章3節)。ここにも、前述のような僭主特有の志向を認めることができるかもしれない。しかし、中小農民の保護育成は、僭主ペイシストラトスに課せられた、いわば歴史的任務ではなかったか。
ソロンの改革の最大目標が中小農民層の再建にあったことは、先に見たとおりである。中小農民の多くを富裕者への隷属状態から救い出し、以後ふたたびそのような状況に陥らないよう、制度的な歯止めを設けたところに、ソロンの改革の意義があった。
しかし、ソロンは、貧困農民に市民としての身分的保障を与えはしたものの、彼らの生活の安定をもたらす具体策、たとえば土地の再分配に踏み切ることはしていない。それに対する中小農民の不満に、以後の社会的混乱の要因の一つがあった、と考えられる。

有力貴族たちの覇権争いも、中小農民層の不満をいかにして吸い上げ、その力を政権争奪の手段として組織するかに、勝敗の帰趨はかかっていたといってよい。党争を克服し、僭主政を維持するためにペイシストラトスの取るべき政策、それはだれの目にも明らかである。史料は多くを語らない。貧困農民のために農業資金の貸付をおこなったと伝えるが、それだけでは、彼の支配成功の秘密を解き明かすのに十分でない。反対派貴族の没収地、あるいは共有地の再配分が専門家によって指摘されているのも、そのためである。アテネ市民団の中核たるべき中小農民層は、ペイシストラトスの一連の施策によってその地歩を確立したといってよいであろう。

<聡明な独裁者>
ペイシストラトスの治世、アテネはたしかに平穏を取り戻したかに見える。国力もようやく充実し、黒絵式のアッティカ陶器がコリント式の陶器に代わってギリシア世界を制覇するに至る。アッティカ貨幣の鋳造が本格化したのも、この時代のことといわれる。
増大した財政力を背景に、ペイシストラトスはアクロポリスをはじめとする中心市アテネの整備と美化に着手する。守護女神アテナの生誕を祝うパンアテナイア祭を拡充し、国を挙げての最大の宗教行事の地位に高めたのも、また、劇の上演をともなう大ディオニュシア祭を創始したのも、ペイシストラトスであった。
ペイシストラトスの施政は温和で合法的であったと評される。それは、ある意味でソロンの精神を継承しながら、前5世紀におけるアテネの飛躍を準備したものといえるかもしれない。けれども、反面、そのなかに僭主政特有の独裁的性格を見出すことも、さして難しいことではない。

ペイシストラトスは、農民たちから収穫の10分の1(別の伝えでは20分の1)を租税として取り立てたといわれる。貴族支配のもとでも、ギリシアの農民は具祖の義務を負わなかった。そこに、他の世界に類例を見ない彼らの特異な地位の表れを認むべきことは、さきにふれたとおりである。ペイシストラトスはここでもポリスの伝統を破っている。彼は農民を保護育成するかたわら、それを自分に服すべき存在として把握しようとしていたと見ることができる。
国政運営に関しても、ペイシストラトスの独裁者としての性格は巧みに貫徹されている。なるほど彼はソロンによって定められた国制を守り、形の上ではその枠のなかで政治を行うよう努めたと見られる。しかしその実、筆頭アルコンをはじめ、ポリスの要職には一族や支持者だけを就け、そのことによって自分の意思を国政のすみずみにまで反映させることに成功している。

<僭主政の閉幕>
ペイシストラトスの僭主政に高い評価が与えられて然るべきだとすれば、それはおそらく、その聡明な人柄と、みずからに課せられた任務を見ぬき、それに的確に対応しえた政治家としての資性の賜物であった、といってよかろう。僭主政は、反ポリス的な要素を多分にふくむ変則的な政体である。僭主に人を得ないとき、このような本質はただちに露呈される。そうなると、瓦解への道は近い。
ペイシストラトスの死後、長子ヒッピアスが弟ヒッパルコスとともに父の跡をつぎ、反対派貴族との宥和を図りつつ、国政の運営を続けた。前514年、ヒッパルコスが美少年ハルモディオスをめぐる三角関係のもつれから殺害されると、ヒッピアスはにわかに圧制者としての性格をあらわにする。その歴史的使命を果たし、今やアテネ市民たちの桎梏と化したペイシストラトス家の僭主政は、その4年後、前510年に幕を閉じるのである。

**********************
トップ画像:http://en.wikipedia.org/wiki/Athena
Athena of the Parthenos Athena type. Pentelic marble, Greek copy from the 1st century BC after the original from the 5th century BC. Some 17th-century restorations: arms, ends of the belt, some folds of the peplos, aegis, tip of the nose.

本文の内容(青字...は部分省略)は、以下からの引用によります。
「古代ギリシアの歴史 −ポリスの興隆と衰退− 伊藤貞夫 講談社学術文庫 ISBN4-06-159665-9」
1665 古代ギリシアの歴史 ポリスの興隆と衰退 (学術文庫)
伊藤 貞夫
講談社

このアイテムの詳細を見る

ジャンル:
キーワード
ストラトス アッティカ アクロポリス 古代ギリシア アリストテレス コリント式 アテナ女神
コメント (0) |  トラックバック (0) |  この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加 mixiチェック
« 質実剛健 − リュクルゴス伝 | トップ | アテネ民主政の父 − クレイス... »

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
ブログ作成者から承認されるまでトラックバックは反映されません。
  • 送信元の記事内容が半角英数のみのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • このブログへのリンクがない記事からのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • ※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。