いしだのりこの 海苔弁当

日々、思うこと、見たこと、聞いたことをたらたらと・・・

小松島港と竹ちくわ

2017年05月03日 | 日記
小松島港といっても、それがどこにあるかわかる人はそう多くないのではないかと思う。

先日、仕事で徳島の裁判所に行った後、司法修習同期の友人にディナーをごちそうになった。徳島市内から車で1時間半の旧日和佐町にある知る人ぞ知るフランス料理店だ。
おいしい食事の後、また彼の車で徳島市内に戻る途中。

「小松島港って、徳島駅から遠いん?」
「いや、車やったら20分ほどでよ」
「ほな、今度、裁判所に来た時、ちょっと寄っていこかな」
「何しにいきよんぞ」
「ああ、そこ、私の父の遺体があがったとこやねん」

小松島港は、昔、和歌山港への連絡船が運航しており、モータリゼーションが発達し、明石海峡大橋ができる前は、大阪と徳島を往来する人に良く利用されていた航路だった。

私が小学校3年の時、寒い冬の日の17時半、南海丸という全長50メートル、定員400名ほどの船が、160ないし170名ほどの乗客と乗員を乗せて、小松島港から和歌山に向けて、雨の降る中、岸壁を離れた。
商用で徳島に行っていた父は、少し遅れたため、すでにタラップが半分ほどあげられていたところを、「待ってくれー」と走ってその船に乗り込んだと聞く。
南海丸は、それから1時間ほど後に、淡路島南の沼島沖で、SOS信号を出して、そのまま行方不明となり、その後、海底に沈没した船が発見された。乗客、乗員は全員死亡。

その報があっても、自分に降りかかったその事実を子供には受け止めがたく、弟に、「大丈夫や。海水浴行っても水平線まで泳いだお父ちゃんやで、どんな嵐でも泳いで、南の島まで漂流してるわ」と、話していた。

しかし、父は体格のいい人で重いだろうに、ありがたいことにかなり早く引き上げられて、小松島港に遺体が安置された。
そして、新聞記者が、遺体が帰ってきた遺族を記事にするためにインタビューに来た。
「この人たちは何をしに来たのだろう、お父ちゃんは南の島に泳ぎ着いているのに」と普通の顔をしている私と弟を含めた家族に、「故人をしのんで悲しそうな顔をしてアルバムを見てもらえませんか。」といって、「はい、いいですよ」とパシャリとシャッターを押した。
それが私の新聞デビュー。新聞のインタビューで、パシャリと写真を撮られるたびにその時を思い出す。
その時、新聞は必ずしも真実を正確に書くものでもないということを学んだ。
また、その頃、大相撲では初代若乃花が優勝し、賜杯を抱えた嬉しそうな姿がテレビに映っていた。それを見て、この世では、不幸な人も幸福な人も同時に存在しうることも学んだ。

小松島港。その地名は私の頭の中に刻み込まれた。
その後訪れることもなく、ふと行ってみようかなと思って口に出した言葉を、彼はキャッチして

「ほな、ちょっと寄ってみるで」と車を回して、日が落ちた小松島港に寄ってくれた。

今は廃された港で、閑散として、明かりも少ない寂しい街で、港はもっと寂しかった。
そうか、ここに居たのかと、遠く思いをはせてみる。

「僕が大学から帰省するときも、この航路使いよった。ここの名物が竹ちくわで、おいしかった」

竹ちくわ。思い出した。竹に魚肉を巻いてこんがりと焼きあげたちくわで、竹串を持ってかぶりついて、串から毟り取るように食べた。私も小さいとき、母がこの航路を利用して、徳島に帰っていた祖父母の家に里帰りするとき、汽車を待つ間、その竹ちくわを食べた記憶がある。また父のお土産に竹ちくわがあった。美味しかった。懐かしい竹ちくわ。私は徳島の名産としか記憶していなかったが、それはここ小松島の名産だったのだ。

バイバイ、小松島。また昼間、来てみるわ。
そして、次は大阪への帰路は、徳島港から和歌山のフェリーに乗って帰るわ。

センチメンタルジャーニー。



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