臍曲がりの独り言

行動記録と私見

吉田満氏と東京府立四中

2005年05月17日 | 書籍紹介・評
大学の級友Kさんの4月29日のホームページに吉田満氏に関して、粕谷一希著「鎮魂・吉田満とその時代」が紹介されていました。早速世田谷図書館に申し込んでおりましたところ数日前に入手、ついでに一度読んだことのある吉田氏の最初の著作「戦艦大和ノ最後」も読み返しました。実は私は吉田満君とは東京府立第四中学校の(粕谷氏の本の中に出てくる福留徹君とも)同級生で、一学年から三学年まで同じクラスで、彼は山手線の恵比寿、福留君は目黒、私は五反田からの乗車で通学したものです。
粕谷一希氏は実に詳細に吉田君の経歴を調べられ、中学の4年間の彼しか知らなかった私には東京高等学校以降のことは初めての事柄なので、頭の中にある彼と重ね合わせると考え一入でした。中学時代のことは文中に述べられている福留徹君の回顧談そのもので、追加することは一つもなく同じ記憶であります。

粕谷一希著「鎮魂・吉田満とその時代」の第二章「府立四中の漢文教育」に書かれている、府立四中における漢文教育が彼が肇に書かれた「戦艦大和ノ最後」の文章が文語文で書かれた事と何か関連していると思います。何れにせよ彼の優れた文才に四中の漢文教育が影響を与えていることは間違いないでしょう。

我が家には四中在校中に支給された昔風に装丁された日本紙に印刷された漢書「古文孝経」「中庸」「論語・上下」の4冊が(表紙に四中の校章がエンボスされた)未だ保存されており、一部は漢文の教科書に使用された形跡が残っております。
下記はその中の漢書「中庸」の復刻版に添えられてあった、校長深井鑑一郎氏の添書です。
四中がいかなる教育だったか想像するに一番説明しやすいものの一つと思って紹介致します。

拝啓秋気清粛之候に候処益御清穆奉賀候偖
先般教育勅語換発四十年記念式の當日を卜
して古文孝経一本を印刷に附し生徒諸子に
配布致候事有之侯は全く諸子をして忠孝の
士たらしめんとの微意に有之候然るに我国
近時思想界の状況を観るに其の動揺殊に甚
しく左傾或は右傾と称し常軌を逸し国法に
触れ将来を誤る者往々有之侯は誠に慨しき
次第に御座候仍て中庸一本を剞厥に附し勅
語御下賜の本日を以て生徒諸子に配布致候
御承知の通り中庸は孔子の孫子思の著にし
て之を弟子に授けたるものに候宋の程子中
庸を解して偏ならざる之を中と謂ひ易らざ
る之を庸と謂ふ中は天下の正道庸は天下の
定理にして孔門傳授の心法なりと有之侯通
り本校に学ぶ者をして奇矯の行動を戒慎し
中庸を履行するの人士たらしめ度存念に侯
何卒御高覧を賜り度は勿論子弟に対し中庸
の何物たるを御教示被成下侯はゞ本懐不過
之侯右得貴意度如斯に侯    敬 具
  昭和九年十月三十日
 東京府立第四中学校校友会長
      深 井 鑑 一 郎

「古文孝経」は昭和五年十月二十七日、「論語・上下」は昭和十二年五月一日に配布されてます。「古文孝経」は私の三歳年上の兄が頂戴したものです。

振り返って吉田氏が戦艦大和で最後の死闘を演じていたとき、私は何をしていたのだろうかと回顧してみると、当時私ら東大第二工学部機械工学科二年生で、一部の数名で海軍艦政本部に動員学生として派遣されてました。
ある日出勤した時どうも何時もと違った雰囲気だったので、不審に思っていたところ、三菱長崎造船所から派遣されていた先輩の技術者が、世界一でかい1号艦「大和」と言う艦が沈没したと教えられました。「大和」と言う戦艦について先輩から色々その凄さの説明を受けました。
搭載されてる発電機は東京市全部を賄う能力があるとか、46センチ(18インチ)の主砲は250トン位のインゴットから鍛造され切削されてその熱処理に如何に苦心したかは、同時の米国でも出来なかったのではないか、この主砲を日本が作り始めたと言うことは国内の一般日本人には極秘事項で誰も知らないが、世界中の外国は知ってるはずである。この大砲を作るため数年前にドイツのワルドリッヒ旋盤を輸入したことで外国では既知の事項だが何処の国も作れないほどの技術が必要なのだと。この戦争で大艦巨砲の時代で無い事を日本海軍が自ら示し、無駄なものを作ったことは事実だが、当時我が国に斯かる技術を持っていたことは誇るべきだとおしえられました。

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