テレオロジカルな行為。

結果に関わらず、それ自体から充足感が得られる行為。
by ポール・マッケンナ

最終回 「自分にとって激動の2010年」 ・・・第3話

2012-03-24 16:51:23 | 2010

なんせ、クーラーの部品の検品作業がピークになるぐらいですから時期は夏まっただ中。暑い!

汗で腕時計の皮バンドの内側がボロボロにはがれてしまいました。(まだ今も交換せずに使ってますが・・)

そして、なによりもバイトや派遣で食いつなぎ失業期間が長引いていることから夫婦関係も殺伐となり、僕自身も体はハードに動かす、しかし気持ちはこれ以上ないというぐらいに落ち込んで、飯ものどを通らない。毎日カップラーメンだけという感じです。みるみるうちに体重も減り、2週間ぐらいで一気に68キロから60キロ切るぐらいになりました。ズボンもブカブカです。

この時期、本当にうつ的な感じになっていて、なにもすることがない日にカーテンを閉め切った部屋に妻と二人でいると口論になり、最悪の気分の時に「このまま妻と2人で死んでしまいたい」と考えたこともありました。自分では今までうつにもなったことはないし、死にたいと思ったことも一度もなかったので、本当に切羽詰った気持ちになりました。

それだけに心身ともに最悪の状況でした。

そんな時に自身の経験も含めてアドバイスしてくれたのが、Eさんです。Eさんも持ち前の才覚で若くして商売で成功し手広く経営を広げて順風満帆だったらしいですが、悪いコンサルタントにダマされたり、経営の傾きや不運が続き店をたたみ、うつ状態に長らくなっていたそうです。屈強なEさんの見た目からはちょっと想像ができないですが、そんなEさんがうつで寝込んでいるような時期に、自分の妻が手を携えて近所のスーパーなどに一緒にEさんを連れてリハビリしてくれ、そうして徐々にEさんは立ち直っていったとのことでした。ちなみにEさんはこの舞洲の仕事に来る前に、早朝から港で荷卸しの別の仕事をやってから来ます。子どもが4人もいるので掛け持ちして働かなければなりません。そんな彼に朝早く起きておにぎりを作り持たせて送り出してやるのが妻だそうです。そのおにぎりを食べながら僕にアドバイスをしてくれるEさんの気持ち、そのEさんを何も言わずに支える妻・・・そんなEさんの妻と毎日僕と同じように苦しんでいる僕の妻がだぶり、思わず涙が出てきました。本当に自分でもびっくりしました。あんまり人前では泣いた記憶がないので。(テレビや映画ではよく泣きますが)大阪湾の海や対岸の神戸の街を望みながら2010年の夏は過ぎてゆきました。(この巨大倉庫、眺めだけはよかった)

まぁ本当に短期間にいろいろな出会いがありましたが、この舞洲の現場で出会う人も、どっかでおったような人だな。地元の知り合いにもいるタイプだなぁ~と思うことがしばしば、みんな人がいいというか、それだからあまりいい境遇ではないというか、そんな人のいい人が人のいい人を呼び、僕には集まり、自分もまたバカがつくぐらいにお人好しなんだと。地元にいても舞洲にいても、今の職場でも「類は友を呼ぶ」です。

そして7~9月の初旬まで舞洲で働きました。テレビでは近年もっとも暑い夏だと言ってました。そしてEさんとの別れの日がやってきます。僕は9月の頭まで舞洲で働いていたんですが、Eさんは一足先に別にいい仕事があるからと辞めました。男同士ですから軽くしか挨拶はしませんでしたが、後日偶然に僕が舞洲の倉庫に何かの用事で行った時に、これまた何かの用事でEさんも来ており、倉庫の前でバッタリ会いました。ゆっくり挨拶しました。これはEさんとはなにか縁があると僕は思い、Eさんのことは今でも僕を救ってくれた恩人のように思っています。(Eさん、メール下さいね~)

10月には神戸方面の石津川というところに福祉の仕事にも行きました。

女性用くつしたの管理倉庫内での派遣バイトもしました。派遣担当のおばちゃんがとても怖かったです。食堂も大きく。50代ぐらいのおっちゃんもいました。

これだけ、ウロウロたらい回しにされて、みんなに迷惑かけまくって、軽く扱われて、本当に労働マーケットで買いたたかれているような感じで、日に日に卑屈になっていく自分がありました。

まぁ一言で言えば散々な1年。

散々な就職活動。

散々な失業期間。

僕の友だちで半年失業して再就職できた人が「九死に一生」を得た。と言ってましたが、

僕の場合、「一度死んでしまって、死後の世界でしばらく暮らして、戻ってきた」という感じです。

 

そして何かの縁があって、11月に再就職できたのですが、年末に就職したためにすぐに会社の忘年会があり、その時の写真が下のそれです。

わたしの散々な2010年を知らずに、いきなり以下の写真だけを見た人は

「なんや自慢か?」と思うのも無理はありませんが、僕にしてみれば「俺は無事や」というサインでした。みんながみんな僕がこんな四苦八苦しているとは知らなかったでしょうし。(僕もしんど過ぎて逆に言えない)

以上、長きに渡り記述してきました私の2010年ですが、実際には2009年4月から2010年の10月末まで1年7ヶ月も失業していました。(契約社員の5ヶ月や他の派遣期間をも失業期間と考えれば)

まさに「自分にとって激動の2010年」でした。

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「自分にとって激動の2010年」  第2話  ・・・大反響!? 

2012-03-24 16:46:55 | 2010

2010年4月からなんの仕事もありません・・・・・

日に日に外はあったかくなっていく・・・・一人、取り残された感じです。

まるで僕の大学一回生だった若い頃の春のような感じが・・・解放感というよりは、何ものにも所属していない不安のほうが強い。「これからどうなっていくんだろう」的な。

そして、4月から11月にある会社に就職するまで延々とバイトや派遣をしながら求職活動をし、落ちまくるわけですが、この4月~10月が僕は忘れられません。というか、忘れてはいけないと思うので記すわけです。(やや最近、忘れ気味)

ほとんどは書類選考で落ちてたんですが、面接して印象に残ったものだけ記述します。

家の近所の大きな物流センターの荷物運びの仕事があったので、派遣に応募した時は、ファミレスで面接され、何か人相の悪い人に履歴書を渡し、プライバシーがきっちり守られるんだろうか不安になりました。なにかまるで物のように扱われているように感じて嫌でした。結局、ここは返事も来ず。履歴書も返信してきません。

5月のGWは働いていないので家にも居にくく(妻と2人暮らし)、知り合いの人に頼んである公園の駐車場のバイトをさせてもらいました。とても暑かったのを覚えています。駐車場には3人の年配の男の人がいたんですが、一人は僕に「アイスコーヒーの作り方を教えたろか」と言うので聞いてみると、普通にコーヒーを入れて、砂糖を入れて、少しお湯を入れて、氷を入れると言うので、「そのままやん」と思った記憶があります。なんかおいしいアイスコーヒーの作り方でも知ってるんかと・・

GWは公園のバーベキューの場所取りでみんな気が立っていますし、相手が逆らえないガードマンだと思えば、普通のサラリーマンのほうがぞんざいに接してきます。もうそれこそ車の前に立って体張っての戦争状態です。旦那も嫁や子どもの手前、恥をかくわけにもいきませんし、公園の駐車場は酔った若者や、スポーツマンや血の気の多い元気な人が集まるトラブルの多い場所なんです。そらもう駐車場の自動清算機が故障してお客さんの車が出れなくなって、駐車場が車でパニックになった時はひき殺されそうになりました。罵声と怒号を浴びせられました。

5月は治検のバイトで奈良にも行きました。奈良ではこんな閑静なところに住めたらいいなと思いました。奈良にある大手の製薬会社の中で治研があったのですが、その大企業の敷地に入るとあまりにも広くきれいで、まるで別世界でした。案内してくれる女性もきれいで品がありましたし。

またこの時期に大阪市内のとあるお寺にも面接に行きました。お寺ってどこから給料が出るんだろう・・・結構、条件良かったなぁ・・

住道にも派遣で行きました。ここの仕事がキツく、本当の肉体労働です。商品の箱詰めなんですが、ただひたすらレーンで運ばれてくる商品を詰めるというだけの作業。僕はカラの段ボールをただひたすら潰すという作業でしたが、床に這いつくばって、死にそうになりました。遅いとおばちゃんが「遅い! あんた使えんわ、もっと使える子おらんの?」と一緒に来ている派遣会社の社員に言ってました。本当にキツかったです。若い女の子も悲愴な顔つきで働いてましたが、僕は内心、「もっとほかに仕事あるやろ。それともマゾか」と思ってました。ここの倉庫で作業用に使ってたシルバーのナイキのスニーカーを忘れて帰ってしまった・・・もう相当ボロだった。

何回か兵庫県の鳴尾浜のほうにも別の派遣会社の同じような派遣の仕事にいきました。甲子園の前をバスで通っていきました。

派遣会社に登録するたびに必要書類や各種書類の記入、提出がありそれだけでも結構煩わしいです。

これまた別の派遣会社から看板持ちの仕事にも1日行きました。阪急岡本駅です。近くの高級マンションの展示会への誘導看板です。甲南大学の学生に見られてとても恥ずかしい思いをしました。とりあえず暑かった記憶があります。(背広を着てパイプイスに座って看板を持ってた)

5月に西区のウツボ公園の近くのマンションの一室を事務所にしている小さな派遣会社に面接に行った時に、その時期の不安感や焦燥感を詩にしたのが、最後の画像作品です。

その時はまだ後の11月にその同じ西区阿波座に本社を持つ会社に就職するとは知らずに、春めいた日差しを浴びながら不安な気持ちでウツボ公園あたりをウロウロしていました。

そして6月に大手の派遣会社に登録に行くことになり、面接するとすぐに仕事があるとのこと。やっぱり大手はすごいなと感心しつつも、なんでもいいから働かないといけないので、すぐに行くことに。なんでも大阪の舞洲の倉庫で部品の検品の仕事らしい。(大量の人数採用)

あとで考えたら、これぞまさしく季節労働者で、夏場のエアコン関連の需要が高まる時期だけ欲しい労働力らしい。

そして、6月15日の最初の出勤日の日に派遣会社の社員に伴われ、僕を含む3人の男性が現場の倉庫で出会うことになり、その一人にEさんという人がいました。Eさんは僕と同級生です。背も高く体格も良く、40代前半で4人も子どもがいて、大きい子は成人しているということです。入った日が同じで勤務時間帯もよく重なるので、食堂で会うとよく話をしていました。

舞洲は人口の埋立地で、大きな倉庫や大型のトレーラーなどが行き交い、区画が大きく、人は少なく住居もなく、簡単に言うと殺風景なロボットのようなイメージの街です。そんな人のいない殺風景な暗闇に大きくそびえ立つ倉庫を見ると、まるで巨人のように僕には見え、無力な自分の前に立ちはだかる、なんともしようがない障壁のように思え、毎日押しつぶされるような気持ちを抱えながらバスで通っていました。

Eさんとは今もメル友ですが、その他に印象に残っている人はTさん(40代半ば)、僕の配属されたレーンのバイトリーダーで下の名前が戦前のような古風なお名前でした。とてもやさしく人望がある。しかし過去の職歴を聞くと散々。なにか本人にも問題が・・

家の駅が同じのNさん、現役時代は先物取引の会社に努めていた。Nさんと仲の良かった腕っ節の強そうな30代の人、社員とケンカしていた。「俺も好きでこんなところで働いているんと違う!」って言うとったらしい。社員も相手が弱くて反撃しないとみると威張ってくるが、相手がややこしいとすぐにしゅんとなる。

例えば、僕たち派遣社員は立場が弱く、19時まで仕事という約束でも行っても荷物が少なく仕事がなくなってきたら、1時間前でも、2時間前でも帰らされていた。それは約束違反だが、派遣先の会社や、派遣元の社員ににらまれるのが嫌で反論もできず、派遣元の会社も派遣先の会社の言いなり。僕は妻に「約束の時間まで帰ってくるな」と言われたので、みんなが早く帰らされても「僕は約束の時間まで帰りません」と宣戦布告し、1人だけ残ってだだっ広い倉庫の中を掃除していました。いわゆる反逆という行動です。しかし、この小さな抵抗が後に自分に自信を与えます。なんでも言いなりになっていたらダメなんだ。すると以外にも相手は僕の要求をすんなりと飲み込みました。(ひょっとすれば、陰で派遣元がその分を負担しているのかもしれない。僕はもうじき契約が切れる奴ですからと言ったりして)

まぁ、なんせ言いなりにばっかりなっていたらあかん!権利は主張しよう。「権利の上に眠る者を法は保護しない」「あなたが最初に踏まれた時に、あなたが噛みつかなかったから、あなたは踏まれ続けているのだ」

帰りのバス代がなくバスで10分のところを徒歩で45分かけて帰るタバコ臭い新今宮に住んでるおっちゃん。朝礼の時にあいさつの声が大きくて社員やレギュラーに笑われていた人。ここを辞めたらアメリカで講師をするという博学な40代ぐらいの人、ホンマかいな。

実家で母親と焼肉屋を営んでいる人。容姿や背丈が僕に似てて僕は彼の影武者かとからかわれていた。

鍼灸師の免許を持っている人。シャカシャカ動き過ぎて止まれない人。気のキツイ女。(50代、並みのキツさではない。ベテランの女同士のヤリ合いがえげつない。しかしケンカしててもなぜか休憩は一緒にしている女の不思議)

いつも顔を真っ赤にしている気の弱そうな20~30代の男の子。いつもすごい顔をして働いているので僕がなごますギャグを言うと結構受けてくれた。

やたら色の黒く背の高い長髪でヒロ寺平似のパワフル兄ちゃん。彼の真似をして片腕一本で荷物山積みのパレットを押したら、腕を痛めてしまい、その後6ヶ月も痛かった。

元設計士のお父さんSさん。帰りのバスでよく家族の話を聞かせてくれました。

自営業らしいがいつもジョークばかり言って人を笑わせるのが好きな50代の人。怒られたらアホの真似をして切り抜けろと教えてくれ、アホの真似をして二人で笑っていました。

渡辺美里の追っかけをしていて、血便が出ても頑張る30代のお兄さん。

なんか要領よさそうな40代ぐらいの現場の管理職。滑舌悪い若い社員リーダー。眼鏡をかけた落ち着いた感じのいい若い社員リーダー。

食堂で見かけた同じ倉庫の別の階の現場で働く僕の地元の知っている主婦。(日曜日で子どもおるのに大変やなぁ~。なんかお互いになんでこんなところで働いてんの?的な気まずさがあったので結局話しかけず。)

僕の高校生の同級生にそっくりな人。その人がたまたま双子だったので、後日、姉妹がここで働いていなかったか聞いたが人違いだった。本当にそっくりで、思わず聞こうと思ったぐらい似てた。世の中に自分にそっくりな人が3人いるというのは本当なんだ。

・・と今後の自分でのエピソードのマンガ・イラスト化をにらみ、思い出すままを書き記すこととしました。(真剣読まんでええよ)

 

・・・・第3話へつづく。

 

 

 

※フォトムージック 音楽を聴きながら詩をお楽しみ下さい。

 

 

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「自分にとって激動の2010年」・・・ 第1話  (忘れないように記す)

2012-03-24 11:01:51 | 2010

2010年は6月に42歳の大厄を迎える年でした。

 

2010年はわけあって、3月末で契約期間の切れる仕事をしていました。

2009年の11月~2010年の3月まで外回りで求人を開拓する開拓員の仕事をしていました。

初めから5ヶ月限定の仕事です。この時期とても寒かったです。しかし仕事に飢えていた僕は

寒さなどものともせず、みんなが嫌がる電話アポイントもはりきって元気にやりました。

ここの職場は5ヶ月限定で契約社員としてメンバーが寄せ集められ、多くの出会いと別れがありました。

初めに印象的だったのは、30代後半の女性二人で、一人は独身、もう一人は母子家庭でした。

この独身のほうの女性は気だてはいいのですが、やや仕事のTPOがわからないといった面がありました。2人で企業訪問に行った時にあまりにも彼女が派手な格好をして来たので、僕が彼女に「浄水器を売りに行くんとちゃうねんから、ハデ過ぎる」と注意したら、彼女がやや逆切れ気味になったことを思い出します。

次に20代前半の車いすの女性がいたんですが、彼女をラッシュアワー時に電車のホームまで僕が車いすを押して送った時に、人ですし詰めの車内に彼女がものともせずに車いすで突っ込んでいったファイトを思い出します。まわりの乗客は露骨に「空いている時に乗れよ」的な心ない顔をしていました。

僕と同じ年の男性がいました。元大手企業のSEでしたが、阪神・淡路大震災で被害に遭い現在は心のカウンセリングなどをしていました。

20代前半の男性もいました。いわゆるニートですが、親がいい会社のそこそこのポストであるらしく、それが自慢で、ややスネカジリ的な印象を受けました。気が弱いですが、悪い子ではなく、カメラや写真が好きで感受性の強い子でした。いつも胃が痛いと言っていました。

本当にみんな個性が強く、僕たちの現場リーダーや、アドバイザーもとても印象に残る人でした。現場リーダーには、忘年会の時期にみんなで沖縄料理に連れて行ってもらった記憶があります。僕は年末に管理業務主任者の国家資格を受験し、その解放感からかなり酩酊して、ステージで歌や踊りをしている別のグループに混じって、覆面をかぶりながら踊っていたのを覚えています。リーダーだけが大笑いしていて、他の人は少し引いていましたが・・その覆面はなんだったのかよく覚えてません。

アドバイザーは元大企業の幹部クラスで、もう年配でしたが、この人の現役時代はさぞ恐ろしかっただろうなと推測できる厳しさを感じました。なんせ何事も合理的に考える人でした。この方は若い時に上司に出て行けと言われ、半年間会社の廊下で仕事をしていたぐらいガッツのある方です。やっぱりそういう人が出世するんですね。

まぁ、なんやかんやで最後の2010年3月末をもって、打ち上げをし、記念撮影もして、円満に解散しました。その後このメンバーとはいまだに誰とも再会していません。

この職場のそばにあった、定食屋の「よこわ定食」が好きでした。400円で大ボリュームの刺身定食です。隠れた人気店で、この辺のサラリーマンしか知らないといったお店でした。またいきたいなぁ~

 

問題はこの後です・・・・・それは次号で。

 

※最終回の第3話まですでに完成済み。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加