春野かそいブログ

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余白再考3

2017-01-26 11:48:52 | 142

図版左は春野かそい書「ファンタジー1」(1999年制作・62×98㎝)である。旧教育基本法の前文がかかれている。この頃、私は言葉の虚しさについて何時も考えていた。言葉の大切さ、そして言葉には力があることも分かっていたが、言葉は言葉でしかなく、世界を動かしている根源的なものは言葉では表すことが出来ない、と感じていた。この法文をかき続けていると、突然、紙の中ほどでどうしてもかけない部分が出て来た。そこを避けながらかき進めた結果がこの作品である。これをかく事で、私が本当にかきたかったものは、この余白であることに気づいた。数年後にサム・フランシスの作品を知って、その共通した余白に驚いた。しかし、私のこの作品と最も近い表現は、やはりこれを制作してから数年後に知った、武満徹の「アステリズム」という現代音楽である。この曲の中にある大クレッシェンドの後の静寂は、私のこの余白と質的に同じものである、と私は思う。
図版右は春野かそいの「顕現3」(2000年制作)である。「星の王子様」の一節がかかれている。
ここでも四角い余白が主役である。この余白は「ファンタジー1」と違って、初めから計画的にかかれている。この窓のような余白の向こうに、夢のような幸せな世界があるのだ、と私は信じていたのである。


図版右は上田桑鳩の「愛」である。画面の半分に「品」字らしきものがかいてある。画面の左上半分が余白である、この余白は寒々として、光をはね返している。西洋の抽象画のように構図や空間として構成されたものである。
図版中は手島右卿の「崩壊」である。薄墨でかかれている。漢字の意味をかいているようである。余白には深い意味はないようである。
図版左は金子鷗亭の「牧水歌」である。誰もかいたことのないような字形を求めて、研究を続けた苦心の跡がみられる。余白はきれいな空間である。

図版はすべて井上有一の作品である。左端は「愛」。文字の周囲は学校のグランドのような空間になっている。暑苦しい墨と点画だが、余白を広くとっているため涼しく感じる。墨を意図的に散らして花の絵のような効果を出している。これによって余白に変化と奥行きを出そうとしているのである。文字や言葉をかこうとはしていない。文字と言葉と書を利用して、点と線で抽象画を描こうとしているのだろう。文字の上部をはみ出させて跳躍しているような効果を出している。余白は温かいが、無限空間には程遠い。
その右の図版は「貧」である。やはり文字の周囲は学校のグランドのような空間である。文字の下部を紙からはみ出させて、人間が大地を走っているような効果を出している。暑苦しい線だが、余白を広くとっているので、すっきりと見える。文字や書を利用して俳画を描いているのである。余白には精神性はあまり感じられない。書きぶりの激しさに騙されるが、この作者はきれいに仕上げようとしている。日本の伝統である装飾的な趣味で描かれているのである。
その右の図版は「上」である。垂直線と水平線によって紙がシンメトリーに分割されている。古典主義的な作品である。余白は平面的であまり奥行きを感じない。余白には彼岸は見えない。現世的な空間である。文字や書を利用して静寂を表現しようと作者はしたのだろう。文字の上下左右が均等にあいているので文字がピタッと静止しているように感じる。この作者には此岸と彼岸を結びつける余白は見えていないようであるが、文字の周囲で仏像の後光のように余白が輝いている。彼には現世が全てだったのであろう。
その右の図版は「噫横川國民學校」である。余白はほとんどなく文字がびっしりとかきこまれている。所どころ訂正したように装って黒く塗りつぶして画面にアクセントを与えている。この塗りつぶしにより画面に奥行きが出るのである。深刻な内容がかかれているようだが、作者は冷静に激しさの演技をしている。
まるで悲劇役者のようである。この作品は感情にまかせてなぐりがきしたものではないだろう。作者は小説家のように冷徹に悲劇を再現しているのである。幽かに見える行間、字間の余白は装飾的で美しい。ここにも此岸と彼岸を隔てながら結びつけている余白は見当たらない。
右端の図版は「心」である。大変スッキリとした作品である。
余白は平面的で輝いている。余白には深さがない。白と黒とのコントラストがあるだけである。これは彼の死の年の作品だが、結局、彼は彼岸という夢を信じなかったのだろう。彼には「夢」という作品もあるようだが、それも頭で作り上げた作品である。切実な魂から生れ出たものではない。これが唯一、西洋に認められた日本の書家である。
西洋の美学は書の基準にはならない。西洋に認められたことが芸術として優れている事にはならないだろう。西洋人には書の美は理解しにくい美であると思われる。書にとっての大事は表面的な美ではなく、もっと根源的な人間性に関わる玄妙なものなのだ。書は西洋の抽象画のようなものとは本質的に異質なものである。
(つづく)





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