きつねの戯言

銀狐です。不定期で趣味の小説・楽描きイラストなど描いています。日常垢「次郎丸かなみの有味湿潤な日常生活」ではエッセイも。

小説 Fade-out 1 自分だけが消えた街/寂しい老婦人

2017-07-01 23:59:00 | 小説
Fade-out 1

§ 自分だけが消えた街/寂しい老婦人 §

 「行って参ります。」
と声をかけ、店内のスタッフに会釈した女は薬局の店舗出入口横の自転車置場へ向かった。
「ご苦労様です。」
「気をつけて行ってらっしゃい。」
女の背中に向けて、ピンク色のユニフォームを着た医療事務職員の桃井と白衣を着た薬剤師の白石が声をかけた。
ショートヘアで眼鏡をかけ、小柄で痩せたその女、葉瀬芳香(はせ・よしか)はA4サイズのファイルがすっぽり入るまちの広い大きめの居宅療養管理指導(作者注:自宅や施設等在宅で療養する患者を訪問して処方薬の服薬指導、即ち薬の飲み方その他の説明を行う)用のトートバッグを薬局所有の電動アシスト自転車の前かごに乗せて、後輪のロックを外した。
自転車置場から舗道へ引き出した自転車に乗り、ちょうど青信号に変わったばかりの歩車分離式横断歩道の交差点を斜めに横断して緩やかな上り坂を走れば、初夏の向かい風が心地良く感じられた。

 「葉瀬先生も大分慣れて来られたみたいですね。」
桃井が白石に言った。
「そうねえ。居宅訪問の制度が始まる何年も前から施設やデイ(作者注:デイサービスの略)の訪問の経験はあったから。」
白石は分包機(作者注:薬を一回分ずつに分けて一包ずつに包装する機械)に向かったまま、忙しく一包化(作者注:飲み忘れや飲み間違いを防ぐなどの目的で、一回で同時に服用する分の薬をそれぞれの包装シートから取り出し、機械で一包にまとめること)の調剤をする手を止めることなく言葉だけで答えた。

 都会では、まして大手のチェーン薬局などなら、薬剤師も事務員も他業種同様に同僚は「○○さん」と名字にさんづけで呼ぶのが普通だが、古風で閉鎖的な土地柄なのか、それとも常時薬剤師も医療事務も各1~2人しか勤務していないような小規模な薬局が多いからなのか、この地域ではまだ昔ながらの慣習に従い、薬剤師だけは「○○先生」と呼ばれている。

 芳香は転職して来てからまだ日は浅いが、人手不足でもあるし、最近は居宅療養管理指導患者も増えて来たので、届ける薬が輸液(作者注:点滴注射のベースに使われる液体)や経腸栄養剤(作者注:口から栄養の取れない患者の消化管に注入する形の栄養食)などの重くて嵩高いものでなければ、助手を兼ねた事務員の運転する薬局所有の乗用車で訪問するまでもなく、電車や徒歩、電動アシスト自転車で行ける訪問先には芳香一人で行くことが殆どである。
 介護保険を利用することで保険点数が発生する有料の居宅療養管理指導の制度が発足したのはつい最近のことだが、実際にはもう何年も前から高齢者向け住宅などの施設入居者やデイサービス利用者、自宅療養の患者でさえ、サービスとして無償で配達・配薬は行っていたから、短いサイクルで転職を繰り返してきた芳香にとっては取り立てて目新しい仕事ではなかった。
 施設ならば患者本人には直接会うことはなく、入居者の薬は全て看護師が集中管理するシステムになっていて、薬剤師は所定の場所に配薬をして残薬のチェックをし、看護師と情報交換することが多いのに対し、自宅療養の患者の場合は本人や家族と直接会って状況を監察し、会話することで必要な説明をし情報を収集することになり、独居の患者の中には他人との関わりに飢え話し相手を欲していて、延々と雑談に付き合う羽目に陥ることも少なからずあるが、邪険にすると心を閉ざしてしまって必要なコミュニケーションを取れなくなる可能性もあるし、それもある意味治療の一環に貢献できるのであれば、と時間の許す限り相手を務める。
 今日もまたそんな独居の患者の一人を訪問するために芳香は自転車を走らせて坂を上っていた。

 「葉瀬先生を紹介されたのは白石先生だそうですね。」
アラフォーで小太りの桃井はレセコン(作者注:レセプトコンピューターの略、保険調剤の点数計算などをするためのコンピューター)デスク前の椅子から立ち上がりながら言った。初老の白石はひょいと眼鏡を持ち上げて処方箋の細かい文字をじっと見つめた後、白衣のポケットから印鑑を取り出して処方箋に捺印し、出来上がった一包化をざっと見直してから3包ずつ屏風畳みにすると監査用のかごに入れて監査棚に乗せながら答えた。
「以前短期間だけど一緒に働いてたことがあってね。私よりは大分歳下だけど、真面目で頑張り屋で仕事のできる人だという印象だったわ。」
 午後のこの時間帯は外来もほとんどなく、桃井が先に休憩に出た事務スタッフとの交替を待つ間、調剤が一段落した白石も一緒に、調剤室の奥のワゴンの上に並んだ自分たちのマグカップに新しいお茶のティーバッグを放り込み桃井がポットの湯を注いだ。
光沢のある黒色のシンプルなマグカップを持ち上げて白石は遠い目をして言った。
「病院仕様の大型のオートパッカー(自動分割分包機)のある在宅中心の都会(まち)の薬局でね、大口の施設は男性スタッフが車で行くけど、近くの中小病院併設のデイサービスに徒歩で薬を届けていたのは大体葉瀬先生だった。彼女は家庭の事情で1年も経たずに辞めてしまって、私もその後転職して、それぞれ別々の薬局に勤めていたけど偶然彼女が分譲(作者注:必要な薬を別の薬局で小分けしてもらうこと)に来てね、連絡先を交換したの。彼女はその時勤めていた薬局で隔週交替で施設の半分の患者を訪問していたそうよ。それほど大きな施設ではないけど、十数人は受け持っていたんじゃないかしら。」
「そうなんですか。」
桃井はそう言うとキャラクターの描かれたピンク色のマグカップから一口お茶を飲んだ。白石は更に続けた。
「その後私がこの薬局に勤めるようになってからしばらくして、前任者の前野先生がお辞めになるからと管理薬剤師を引き受けた時に、『居宅訪問に行ってくれるような薬剤師を誰か紹介してくれないか』と社長に言われて彼女に声を掛けたの。ちょうど彼女もその時勤め先の薬局を辞めようと思っていたみたいだったから。」
「じゃあちょうどタイミングが良かったんですね。」
桃井は自分から話を振っておきながら、もう飽きたのか適当な返事を繰り返していたが、白石はそれには気づいていないのか、半ば独白めいた話を続けていた。
「あの頃の葉瀬先生は、真面目でがんばり屋なのは良いことだけど、誠心誠意というか、全身全霊というか、のめり込み過ぎて壊れないかと時々心配になったものよ。以前にも管理薬剤師をしていてバーンアウト(作者注:燃え尽き症候群(バーンアウトシンドローム)の略)寸前まで行ってたこともあるし。」
白石のそんな言葉は桃井の耳を素通りし、ちょうど休憩から帰って来たスタッフの姿を見るとさっさとその場を離れて休憩に出て行ったので、白石もそれ以上語るのをやめて仕事に戻り、溜まっていた薬歴(作者注:薬剤服用歴管理記録簿。患者の服用中の薬や併用薬その他の情報を記録する医師でいう診療録、所謂カルテに相当するもので、従来は紙薬歴であったが最近はコンピューター入力による電子薬歴の薬局も多い)を入力するため投薬カウンターに向かった。

 坂の多い桜並木の住宅街の一角に資産家の老夫婦が住むその屋敷はあった。
見事な古木の桜並木で有名な北山市桜乃丘は、国道を山側に折れてバス通りから分岐した急な坂道を登り切ると急に視界が開け、なだらかな斜面の中央の記念碑のあるロータリーを中心として碁盤の目のように縦横に交差した通りによって区画され、広い敷地に立派な屋敷と手入れの行き届いた庭を備えた豪邸が建ち並ぶ高級住宅街で、目指す訪問先の屋敷は桜並木の外れの、急な坂道を登りきってすぐの場所に位置していた。
 高齢の当主・金満(かねみつ)氏は入院中で、屋敷にはその夫人・笑子(えみこ)が一人で暮らしていた。
独立した子供たちはそれぞれがエリートで笑子夫人の自慢の種だが、皆家族を持って遠方に暮らしていて、年齢的にも職務上重要な立場にあり多忙なので滅多に実家には寄りつかないと笑子夫人が以前愚痴をこぼしていた。
 軽い認知症の薬が処方されているので、少々記憶力が乏しくはあるが、顔色も良く一見して健康そのものの笑子夫人はいつも笑顔で饒舌だ。愛嬌のある丸顔は実際の年齢より遥かに若々しく見える。若かりし頃は美人というよりは可愛らしい顔立ちの上品で聡明な女性であったろうと思われる笑子夫人を夫君が妻に選んだ理由がわかる気がした。
 それでもこれまでの人生は決して順風満帆な時ばかりではなかったろうと―あくまでも芳香の勝手な想像ではあるが―思う時がある。経済的には恵まれて生活に困窮することはなかったろうが、幸せな結婚生活の条件は裕福でありさえすれば全て満たされるものではない。
 芳香の想像の当否はともあれ、今は全て過ぎ去って笑子夫人は住み慣れた屋敷に一人静かに暮らしていて、介護保険でデイサービスに通う他に週一度の訪問看護と月一度の居宅訪問があり、家事援助のヘルパーがほぼ毎日通っては来るが、概ね自分のことは自分で普通にできているようだった。

 変速機付きの自転車でもきつい坂道も電動アシスト自転車ならば何とか登れた。桜乃丘の中心部は碁盤の目のように区画されているが、周辺部は元あった豪邸の跡地を細分化した小さな建て売り住宅が密集して袋小路になっている場所が多く、芳香は行き止まりだらけの迷路のような住宅街の一角にある金満家の屋敷の門の脇に自転車を停めた。ここもまた奥は袋小路だから車は殆ど入って来ない。月に1度訪問するだけだが、芳香は迷うことなく到達し、インターホンを鳴らすと、いつものように笑子夫人の笑顔に迎えられて芳香は深々と一礼してから元気よく挨拶をした。

 毎月会っていても笑子夫人にとってはいつも初めてだ。「かかりつけのクリニックの主治医からの指示で」、「処方箋で出された薬を」、「訪問看護師が来る前に」、「駅前の薬局から届けに来た薬剤師であること」も、「いつもと同じ持病のお薬であること」も、「お薬は訪問看護師との取り決め通りにお座敷の奥の床の間の棚の上に置くことになっていること」も、毎回伝えなければならないし、夫人の話も毎回殆ど同じような内容であってもあたかも初めて聞くように聴かなければならない。事前に電話連絡したことも、その時に代金はいくらかと訊ねたことも笑子夫人は覚えていない。「薬局から薬を届けに来るから家にいること」と自らメモした付箋が食卓の上に貼られているのを見て初めて電話があったのだとわかるようだ。

 いつもと同じように笑子夫人は家族の話をしたが、心なしかいつもはもっと陽気で快活な夫人が今日は遠い眼をして、少しだけ哀しそうに見えた。
「子供たちも皆遠く離れて暮らしていますからね。一人暮らしは気楽で良いけれど、特に夜になると時々ちょっとだけ寂しい時があるわ。『家が広いから子供たちが巣立ってしまうとがらんとして寂しい』と言ったら、『そんなことを言ったって仕方がないじゃないか』といつも主人に叱られるけれど。主人も入院しているし、できるだけ子供たちに迷惑を掛けないように私はいつまでも元気でいないとね。」
笑子夫人は自分に言い聞かせるようにそう言った。
 いつもは医療制度のことや社会問題のことなど様々なことについて饒舌に語る笑子夫人だが、今日はそれ以上は話が弾まないようなので、芳香は
「では、また来月お薬をお届けに参りますね。」
と話を切り上げて深々と一礼し丁寧に挨拶をして屋敷を辞した。
 
 芳香にはこの辺りの地理は全て頭に入っている。それはかつて芳香が暮らした場所だからだ。今はもう既に北山市を出て、月に1度のこの屋敷への訪問の時にしか桜乃丘に立ち寄ることはなくなったが、長年住んでいた家に近く毎日のように歩いた道だった。
 桜乃丘に暮らす人たちは以前と同じように毎日を過ごしているのだろう。週二回の可燃ゴミの日には指定ゴミ袋にネットを被せて収集場所に出し、バス停に並んで市内循環のバスを待ち、私鉄の最寄り駅の改札から続く商店街に立ち寄り買い物袋を提げて家路を急ぐ。芳香がいつもそうしていたのと同じような毎日の暮らしを繰り返して。
 だが、不思議なことに、ただ芳香一人が居なくなったというだけで、そこに暮らしていた人の生活や街並みは何一つ変わらないはずなのに、今の桜乃丘はまるで芳香の知らない場所のようによそよそしく感じられた。
 毎日バス停や駅を目指し歩いた道や、利用していたスーパーマーケットやドラッグストア、クリーニング店、郵便局や歯科医院、初詣をした小さな神社や時折散歩した公園、それらの全てがまるで知らない街のように思える。
 正確には、知らない街というより、その景色には記憶があるが馴染みのない、例えて言うなら映像で見たことのあるどこかの街の景色のように、見覚えはあるが実感を伴わない。芳香はもう桜乃丘は完全に自分の居場所ではなくなったのだと身に染みて感じられた。

 転職する時に、いっそ今まで馴染みのない、全く違う場所を選ぼうかと思いながら、結局旧知の白石が管理薬剤師をしている薬局に誘(いざな)われ、生まれ故郷の北山市内の、転出直前まで住んでいた桜乃丘からさほど遠くない場所を選んでしまった。
居宅訪問で桜乃丘を訪れなければいけなくなるかもしれない可能性があることは想像に難くはなかったが、まさか本当にそんなことになるとは就職する時は考えたくなかった。
 笑子夫人の居宅療養管理指導を担当することに決まった時から、あれほど身構えて挑んだつもりだった桜乃丘の金満家への訪問だったのに、仕事だからと割り切って訪れてみると、意外なことに拍子抜けするほど何でもないことに過ぎなかったのだと芳香は少し可笑しくなった。
 それ以来何度か桜乃丘を訪れることはあったが、そこはもう特別な場所でも何でもなく、芳香が訪問する他の何人もの患者たちが暮らす近隣のいろいろな街のどことも何も違わない場所の一つになっていた。
 また別の患者を担当することになって、桜乃丘よりも更に前に芳香が住んでいた場所、北山市内の実家を出た後最初に暮らしたマンションがあった畑田という町に行くことになった時も、畑田もまた見覚えのある町並みや建物は遥か以前に芳香がそこに暮らした時と殆ど変わっていなくても、やはりよそよそしく感じられた。当時でも既にかなり古かったマンションは今も同じ場所にあったが、芳香がかつて暮らした3階の端の部屋には今も誰かが住んでいるらしく、芳香の好みとは全く違うクリーム色のカーテンがかかっていて、芳香の暮らしていた頃と同じ部屋とは思えなかった。

 誰しも経験があるように、昔実家があった場所や通っていた学校、思い出の中にあるどの街も、今となっては最早映像の中で見ただけで訪れたこともない遠い街の景色と同じように、見覚えはあっても、もう見知らぬ他人の家・他人の街でしかなかった。
 そうしていつしか記憶は薄れ、更地になった場所や新しい店を見かけても、かつてそこに存在したはずの家や店を思い出すことが出来なくなって行き、時間の流れは否応なしに全ての記憶を押し流して行く。そこに染み付いた個々の人間の思いまでも巻き込んで、うねり渦巻く濁流のように。
(つづく)









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