農文協論説委員会の論説『農文協の主張:新自由主義的復興論を批判する ── 復興に名を借りた漁業権・農地所有権の自由化を許すな』が「THE JOURNAl」に転載されており、一読したが、共感を覚えますね。
農林漁業は国の基幹であり、日本社会の根源であり、農林漁業および地方社会を経済的原理だけの画一的な論調には違和感を感じていました。
農文協論説委員会の論説は、冒頭で、
”「被災地の方々が復興に向けて必死に歩み出しているなかで、気になることがある。
復興を好機とみて、漁業や農業の規制緩和を進めようという動きがあからさまになってきたことである。
その典型が、村井嘉浩宮城県知事がすすめようとしている水産業の規制緩和=「民間参入を柱にした水産復興特区構想」だ」”
と、村井嘉浩宮城県知事の水産復興特区構想を批判しております。
この水産復興特区構想を批判については、本ブログ「東日本大震災:被災者は「同情するなら金をくれ!」で、長周新聞の記事『外資が収奪する全国モデル 政府の東北「復興」計画 農地や漁業権奪い企業化』を紹介し、共感と書きました。
長周新聞は、別記事『結束力の強さが威力発揮 岩手県宮古市重茂 漁協中心に漁業再開を準備』と、地域の結束力が復興の源と書いています。
野田財務相がTV番組で、デフレ脱却に、”「大震災という状況の中で、復興需要をどう満たしていくかという観点からすると、(震災復興は)まさに千載一遇のチャンスだ」”と発言されたが、真意は別にして、村井嘉浩宮城県知事の水産復興特区構想と同質の印象を持ちますね。
また、当方が、農文協論説委員会の論説で、共感を覚える部分は、
”「お門違いの高齢者農業・農地法犯人説
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第一に高齢化のために農業は成り立たなくなる、という想定は誤りである。そもそも米農家に後継者がいない訳ではない。
だが"米では飯を食っていけない"から兼業に出て、定年になったら年老いた親とバトンタッチして米作りに励む。順繰りの世代交代なのだ。「このようにして、高齢農家が次々と新しく生まれてくる。
高齢化の構造とは、このようなものである。今後、高齢化が進み、その結果、農業者が激減する、という想定は、こうした実態を見ようとしない者、あるいは、見ることのできない者が犯しやすい誤りである。
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日本の里山・草地が生物多様性を維持してきた過程を長い歴史にそってつぶさに振り返りながら、地元農家だけでなく市民と共にそれを維持・再生していく「新しい入会制」=総有を提唱している。農地制度を見直す必要があるとすれば、そんな脈絡でのことだろう。
日本的、農家的構造変革の息吹
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大妻女子大学教授の田代洋一氏は、こんにちの農村には農業経営に限らない「多様な担い手」がいて、それが互いに依存し共同しあってむらと経営を守っていると指摘し、次のように述べている。
「グローバル化した時代には『担い手』は『地域農業の担い手』だけにとどまらない。・・・このように農村の社会的課題が噴出した」時代にあっては、その課題を担う担い手は、「A:『農業経営の担い手』、B:農業経営まるまるは無理だが土日・朝晩なら農機に乗れる『農作業の担い手』、C:農機は危なくなったが水管理・畦草刈りならお手のものという『地域資源管理の担い手』、D:『直売所、地産地消や食育等の担い手』、E:生まれ在所に生き死んでいこうとする者が居てこそ『むら』が守られるという『むら社会の担い手』など、農村社会は住民がそれぞれの『もち味』を活かした『担い手』になることによって初めて定住可能になった。『多様な担い手』論の登場である」。
田代氏のこの論文は上掲書のなかで「土地利用型農業の担い手像」つまりは規模拡大経営について担当し書いたものだが、このテーマに即してもAの「農業経営の担い手」だけでは自己完結せず、B以下すべての「担い手」との連携・共同があって初めて成り立つものであることを明らかにしている。」”
で、農文協論説委員会の論説は現実的と思え、共感できます。
当方は、農地法については無知であり、感覚の意見しか持ち合わせていないが、休耕田・耕作放棄地については、もう少し、有効活用できる環境整備が必要ではないかと思っています。
秋山弘子女史の「WEDGE Infinity」に寄稿の『高齢者はゲーセン通いより地域で就労を』で、秋山弘子女史は、定年退職後も、高齢者は何らかの形「生きがい就労」で働くべきとの考えであり、当方も、定年退職後も、高齢者は「社会貢献・社会参加」すべきという考えであり、その延長線に、限界集落への労働奉仕があり、理想は「生涯現役」ですね。
当方は高齢者の労働奉仕(社会参画)の考えがあり、本ブログ「TPP開国に関して、中野剛志助教授の主張、池田香代子女史の意見に賛同」で、
”「当方が、TPP参画にするにしても、農林業主体の地方経済を守るのは、団塊世代の労働力を活用すべきという思いがあります。
定年退職した年金生活の団塊世代を労働奉仕させることですね。
池田香代子女史の言われる”「食糧とエネルギーをまず自前でまかなって、心安らぐ生存条件をつくりだし、その結果、お金で購うぜいたくからすこしばかり遠ざかったとしても、それを積極的によしとするような価値観への転換をはかる」”には、新技術と経済性を度外視した労働力が不可欠であり、余裕のある団塊世代の「社会貢献・社会参加」とし労働力を使うことでしょうね。」”
と書きました。
本ブログ「コラム「趣味化した農家をいつまで保護するのか」・・・雑感」で、昆 吉則氏の「貧農史観」が現代の農政のなかにも生きていないかの論調を紹介しましたが、団塊世代の当方は「貧農史観」の考えはなく、逆に、自然相手の農林漁業は、ある意味、幸せな生業ではないかと思うこの頃です。
田舎のない当方にとっては、農文協論説委員会の論説にある、”「定年になったら年老いた親とバトンタッチして米作りに励む」”という定年退職後に、Uターンで帰れる田舎がある人間は恵まれていると思いますね。
マアー、認知症の老母(90歳)を自宅介護で時間を割いている当方にとっては、直前の事柄も自分の家も忘却する老母が生まれ故郷での生活の記憶だけが鮮明であり、毎夜、生まれ育った頃の夢(幻想・幻覚)を見ている老母に接して、人間にとっては、生まれ故郷は死する場所に相応しいのではないかと思うこの頃ですね。








