民主党の農業政策を、FTA締結は日本の農業は壊滅すると騒がれ、戸別保障制度をばら撒きと批判されているが、農業を世界と競争する営利産業と位置づけし、個人営農は社会のお荷物とみるのか?
当方には、そんな2者択一の問題でなく、個人営農が日本の国土保全、食料安定、地産地消、地域文化の継承など日本の原風景を残すことに寄与しており、農業の多面性・多様化に注視すべきと思いますね。
当方は、農業には、疎い人間ですが、本ブログで、再三、日本の国つくりを、
”「国民が安心・安全で暮らせる社会は、まずは、第一次産業が国の基幹と思っております。温暖化で環境破壊が進行しても、石油が枯渇するエネルギー問題が深刻化しても、食糧危機が最悪の事態になろうとも、自給自足で最低の生活ができることことが第一で、第二は、社会保障制度の充実での安心さで、その上での自由競争社会という国造りが必要で、人材育成が肝要と思っております。」”
と書いてき、第一次産業を国の基幹と位置づけの考えで、農業政策には関心事です。
農業改革が火急問題として、来る総選挙でも自民・民社党の農業政策が盛んに論評されています。
例えば、ダイヤモンド社論説委員の辻広雅文氏が「次期政権党の真贋を、農業改革への覚悟から見抜く」で、「日本の農業は、過剰かつ長期に渡る保護政策で競争力を失った典型的産業である。同時に、競争力喪失という事態に開き直り、多くの年月が流れてもいっこうに解決策が講じられない日本全土に広がる既得権の岩盤である。」とし、日本の農業の縮図であり、象徴であるのは米である。そして、米を作る農家には、二つの謎がある。
米作農家のおよそ4割、59万戸は、0.5ha未満の水田を、0.5ha以上1ha未満では43万戸、合計7割の米作農家が1ha以下の極小農家で、極小規模農家の農業所得は、0.5ha以下の米作農家は年間10万5000円の赤字で、0.5haから1ha未満の米作農家は、3万6000円であるが、
第一に、この低所得でなぜ生活できるのか。
第二に、コストダウンができない極小水田を、なぜ彼らは所有し続けているか。これが、二つの謎である。
第一の謎の答えは、他に収入源があるから、である。米作農家の7割を占めるこれら極小農家(1ha以下)は兼業農家でもあり、総所得は0.5ha以下の米作農家で441万5000円、0.5haから1ha未満の米作農家は477万3000円となるのである。
第二の謎に対する答えは、極小規模の水田を持っている経済的インセンテイブが働く政策がいくつも維持されているから、である。
水田は公共工事によって真平に拡張されており、水はけよく、まとまった面積を持ち、しかも農道が整備されている。
それは、交通アクセスが良いということだ。したがって、大規模小売業、住宅地に適している。つまり、少なからぬ転用期待を農家は抱いているのである。農地には売買規制はあるが、政治的に極めて融通が効く。
バブルの頃には、農地価格の30〜50倍で売買されたこともあるという。また、保有コストが低い。固定資産税は優遇されており、相続税もほとんどかからない。自分の代で転用できなくても、子や孫に受け継げばいいのだ。
そして、
”「専門家たちは、日本の米は十分世界に通用する、と断言する。そのためには、意欲の高い専業農家に特別融資などで動機付けし、100haまで集積させ、生産コストを現在(1俵、60kgで1万円〜1万2000円)の半分にする必要がある。専業農家を輸出産業育成の先兵にするのである。産業全体の底上げを図るのは時間がかかる。まずは、そうした先兵によって突破口を開くことは、改革の常道である。」”
と専業農家に注力し、輸出産業育成の先兵にすべく政策の立案が必要と書いています。
要は、大規模経営で世界と競争できる農業政策を重視していますが、これも一つの解でしょうね。
山下惣一氏が「THE JOURNAL」に「「誤解」だらけの農業問題(2)」に寄稿に、過保護の農業から人が去って行くのは、何か?と問題提起しています。
一部の地域を除けば日本の農業は自給農業で、売るためではなく食うための農業と主張しています。
日本の農業は、売るためではなく食うための農業であるが、日本の農政の長年の悲願は「農業構造改革による零細農業からの脱却」であるが、零細農家が多いために兼業化、高齢化がすすみ自立も産業化もできず国際競争力もなく補助金頼みにならざるを得ないというのが実態としている。
昔から日本の農家は農業生産だけでなく、山仕事、炭焼き、わら細工などもやって、これを「副業」と称したのです。日本の伝統工芸のほとんどは農家の副業から始まったといわれています。このようにカネもうけではなく、暮らしを目的としてそれに必要なことは何でもこなす人のことを、筆者は「百姓」と称しています。
そして、日本の農村は、
”「日本の村社会はいまもなお基本的に血縁関係であり、何百年も同じところに住み続ける定住社会です。住んでいるのは「百姓」です。高齢化した百姓衆が村を支え、乏しい年金をつぎ込んで、赤字の農業を守っているのです。農家が農業を守っているのが実感です。その根っこ、核、コアとなっているのは稲作に使う「水」なのです。田んぼは個人の所有ですが、水は個人のものはなくみんなの共有財産です。この水の共同利用こそが日本の農村の土台でもあり、畑作農業地帯とは異なるところでしょう。何よりも公平、平等、和が尊重されないと維持できない社会で個よりも集団が優先します。
長い間農政が進めてきた「構造改革」は「村こわし」「村つぶし」なわけでその結果生まれたのが、「限界集落」です。農家の数が減って、残った人の経営規模が大きくなるどころか、結局みんな滅びるのです。」”
と実態を語り、いま株式会社の農業参入が注目されているが、これはあくまで部分的、限定的と考えるべきで、農林業の本体ともいうべき全国津々浦々の農山村の家族農業が担っているものをそっくり肩替わりするのでなく、問題の本質は、農業・農家・地域社会の「本体」をどうすべきと問うていますね。
零細農家は、地域社会を構成する生活者の主体であり、農業を短絡的に専業・大規模化することは、地域社会が破壊に繋がるということですね。
本ブログ「『農業の幸福な日々「今夜が最高!」』・・・・人生処世術と農業論(雑感)」で、玉村豊男氏が対談記事で、「右肩上がりの経済成長は望めない成熟社会で、玉村豊男氏は「今、自分の目の前にある状況がベストである」、「農業が素晴らしいのは、「必ず明日に仕事が残る」点でだ。1日を終えて、「さあ、明日はこれをやろう」と眠りにつけるのは幸せなことである」と語っています。」と紹介しました。
玉村豊男氏は、農業に従事することより、穏やかな日常が持続していくことが農業的な価値観で、そのような価値観を見直されれば、社会はもっと住みやすくなるし、ぎすぎすしなくなるんじゃないでしょうかと語り、農業は、基本的に出来高が限定的で、一攫千金はなく、出来る範囲を持続してゆくのが、農業的な価値観で、農業の工業化には批判的ですね。
農業については、大規模化し、競争力をUPし、成長産業に位置づける考えもあれば、営農者は、自給自足が基軸で、地域社会を保持している主体者という考えもあり、更に、農業は、いくら自分が頑張っても最後はお天道様次第だということ自覚し、目の前のものを受け入れるしかないという生活エンジョイの考えもあり、多面的ですね。
農業は、世界と競争する農家もあれば、地産地消で地域の食を支える農家もあれば、産直にする農家もあれば、自給自足で生活をエンジョイする農家もあれば、消費者と交流を売りにする農家もあれば、、一方、食料危機も予想され、経済性より自給率UPの政策的な農業もあり、農業は多様性を持っており、大規模化の成長産業に位置づける画一的な政策はありえないと思っています。
農業は、日本の原風景そのものであり、その原風景は、農業ありきで保持されており、農業分野だけで、農業改革はありえないと思っています。
サラリーマン退職組の団塊世代の当方は、個人的には、玉村豊男氏のいう農業の素晴らしさは、「必ず明日に仕事が残る」点だ。1日を終えて、「さあ、明日はこれをやろう」と眠りにつけるのは幸せなことである。」に共感します。
自給自足・自産自消で、毎日、やることがあることの有難さに、共感できますね。
でも、これは、農業といえるのか疑問で、この考えは、営農者には、失礼でしょうね。
ただ、生涯現役の農業従事者が、元気なのは、社会保障からは重要な要素であり、農業改革で、無視できない要素と思っています。
一方、大前研一氏が寄稿の「国の借金を減らすための大前プランを示そう」で、国民の資産を「湾岸100万都市構想」に活用して、国の借金を減らす案には、賛成できませんね。
成長性を否定しないが、田舎、里山の原風景を保持することのほうが堅実であり、賢明と思いますね。
農業改革は、日本の社会変革であり、大いなる議論のテーマですね。








