元に戻ろうと言った舌の根も乾かないうちに再び脱線する。そうしないと、話がうまくまとまらないのだ。
この民話と同じような話が上名栗の人見という地区にあるという。“人見地区の餅なし正月”というタイトルで、「名栗の民俗」(名栗村教育委員会編)に載っている。詳しいことは省略するが、この地区では「餅を搗いてはいけないが、食べるのはよい」ということ。その理由は、「米ができなかったから」とか、「生活が苦しかったから」だという。また、上名栗の人見入(人見とは別の小字)の「入道伝説」では、「餅を搗くと入道様が怒り出す」とか「山が荒れた」とかで、今でも餅を搗かないと書かれている。
さらに、「武蔵の伝説」(大島建彦・渡辺千佳子編著、第一法規出版)には、‘里芋を作らない一族’(児玉郡児玉町下浅見の野本一族)や‘里芋を作らない村’(熊谷市上川上)があることが記載されている。両者にそれなりの理由はある。前者では、野本一族は駒形神社を屋敷神に祀っているから。後者では、上川のいさなぎ神社(熊野権現)の神が戦に出て芋畑で転んで戦に負けたので、芋を作ると罰があたるから。第三者からみればどぉってこともない理由でしかないが・・・。
ここで本当に本題に戻る。なぜ、どうして「下働きの娘の死亡は盗み食いに原因があるのにお大尽の家が潰れたのか」、「八つ頭を喉に詰まらせて死んだのに、八つ頭を食べるのはいいが、自分の家では作らないのか」という問題。先にも述べたように、八つ頭を作らない習慣は今でも一部で生きているのだ。
今度こそ解答を簡単明瞭に言おう、「分からない」である。そう言ってしまえば、それでは解答になっていないと読者は怒り出すだろう、入道様のように。しかし、怒り出しても、炙り出しても分からないものは分からない。ただ、それではすまないので、小生なりの推定というか、思いつきに基づいた矛盾解消方法はあるので、我慢できるのであれば読んでいただきたい。
まず断っておくが、この民話の筋をそのまま信じれば「分からない」としか言いようがないと言っているのである。最初から指摘しているように、「下働きの娘の死亡は盗み食いに原因があるのにお大尽の家が潰れた」、「八つ頭を喉に詰まらせて死んだのに、八つ頭を食べるのは良くて、自分の家で作るのはいけない」ということ自体がもう矛盾しているのだ。この矛盾を矛盾としないから分からなくなるのだ。
かけ違えたボタンはそのままではどのように工夫しても正常にはならない。かけ違えたボタンを一度はずして、かけ直さなければならない。この矛盾も同じだ。矛盾している部分を別の解釈なり付け加えるなりしてそれを解消しなければ、なんにもできない。矛盾をなんらかの方法で解消すれば、それなりに解答はできるのだ。もちろん、矛盾の解消の仕方や付け加えるものによって、いくつかの違った解答になるが。
先に里芋と八つ頭の違いをいろいろ述べたのは、そこに何かのヒントがあるのではと考えたからだ。また“人見地区の餅なし正月”や‘里芋を作らない一族’や‘里芋を作らない村’の話をしたのは、どれ一つとして合理的な理由も説明も民話・伝説の表面には表れておらず、その背景や歴史などを掘り下げなければなにも出てこないということを言いたかったからである。
ここまで回りくどい言い方をしてきた。これからは「下働きの娘の‘八つ頭盗み食い喉詰まらせ死’が原因でお大尽の家が潰れた」という不条理と「八つ頭を喉に詰まらせて死んだのに、八つ頭を食べるのはいいが、自分の家では作らない」という不可解を一気に解決しよう、もちろん小生なりに工夫をして。
この民話と同じような話が上名栗の人見という地区にあるという。“人見地区の餅なし正月”というタイトルで、「名栗の民俗」(名栗村教育委員会編)に載っている。詳しいことは省略するが、この地区では「餅を搗いてはいけないが、食べるのはよい」ということ。その理由は、「米ができなかったから」とか、「生活が苦しかったから」だという。また、上名栗の人見入(人見とは別の小字)の「入道伝説」では、「餅を搗くと入道様が怒り出す」とか「山が荒れた」とかで、今でも餅を搗かないと書かれている。
さらに、「武蔵の伝説」(大島建彦・渡辺千佳子編著、第一法規出版)には、‘里芋を作らない一族’(児玉郡児玉町下浅見の野本一族)や‘里芋を作らない村’(熊谷市上川上)があることが記載されている。両者にそれなりの理由はある。前者では、野本一族は駒形神社を屋敷神に祀っているから。後者では、上川のいさなぎ神社(熊野権現)の神が戦に出て芋畑で転んで戦に負けたので、芋を作ると罰があたるから。第三者からみればどぉってこともない理由でしかないが・・・。
ここで本当に本題に戻る。なぜ、どうして「下働きの娘の死亡は盗み食いに原因があるのにお大尽の家が潰れたのか」、「八つ頭を喉に詰まらせて死んだのに、八つ頭を食べるのはいいが、自分の家では作らないのか」という問題。先にも述べたように、八つ頭を作らない習慣は今でも一部で生きているのだ。
今度こそ解答を簡単明瞭に言おう、「分からない」である。そう言ってしまえば、それでは解答になっていないと読者は怒り出すだろう、入道様のように。しかし、怒り出しても、炙り出しても分からないものは分からない。ただ、それではすまないので、小生なりの推定というか、思いつきに基づいた矛盾解消方法はあるので、我慢できるのであれば読んでいただきたい。
まず断っておくが、この民話の筋をそのまま信じれば「分からない」としか言いようがないと言っているのである。最初から指摘しているように、「下働きの娘の死亡は盗み食いに原因があるのにお大尽の家が潰れた」、「八つ頭を喉に詰まらせて死んだのに、八つ頭を食べるのは良くて、自分の家で作るのはいけない」ということ自体がもう矛盾しているのだ。この矛盾を矛盾としないから分からなくなるのだ。
かけ違えたボタンはそのままではどのように工夫しても正常にはならない。かけ違えたボタンを一度はずして、かけ直さなければならない。この矛盾も同じだ。矛盾している部分を別の解釈なり付け加えるなりしてそれを解消しなければ、なんにもできない。矛盾をなんらかの方法で解消すれば、それなりに解答はできるのだ。もちろん、矛盾の解消の仕方や付け加えるものによって、いくつかの違った解答になるが。
先に里芋と八つ頭の違いをいろいろ述べたのは、そこに何かのヒントがあるのではと考えたからだ。また“人見地区の餅なし正月”や‘里芋を作らない一族’や‘里芋を作らない村’の話をしたのは、どれ一つとして合理的な理由も説明も民話・伝説の表面には表れておらず、その背景や歴史などを掘り下げなければなにも出てこないということを言いたかったからである。
ここまで回りくどい言い方をしてきた。これからは「下働きの娘の‘八つ頭盗み食い喉詰まらせ死’が原因でお大尽の家が潰れた」という不条理と「八つ頭を喉に詰まらせて死んだのに、八つ頭を食べるのはいいが、自分の家では作らない」という不可解を一気に解決しよう、もちろん小生なりに工夫をして。









