きみとのむミュスカデシュールリー

お酒はあんまり関係ありません あしからず

ルールがちがう

2008-06-23 05:18:28 | おもった
いくつになってもに関係してるのだけど、大人ってすげー難しい、と思ったのです。まあ私も大人にそろそろ分類されるのかもしれないけど。うー、こういう定義付けで議論するのはあんまり得策じゃないと思うのでおいとこう。

大人になると、好意を示すのがもはや当たり前みたいに感じます。当たり前じゃないけど、割とそんな気がする。それがおとなだからというその一言で片付けられてしまう。すごい。そんな中で、誰かと誰かが周りと違う関係だな、って思わせるものが、むしろ仲違いとかだったりすることがあったので、驚いた。喧嘩するほど仲がいい、なんて言葉も、わからなくもないけど、殴り合いとかじゃなくて、もっと微妙な空気で、でもわかりあってるみたいな。
そんなふたりがいて。

そういうのみてると、まどろっこしいな、って。でも本人たちにしてみたらある種のストレートなのかもしれないけど、私すごいめんどくさがりだから、うあー、ってなってしまう。

でも、根本が子供だとおもうと、ちょっと安心できる。突っ張ってる気持ち、隠す気持ち、そういうの全部、がんじがらめになっちゃってて、傍から見たら複雑になっちゃってたって、私の知ってるしってほしい、構ってほしい、って気持ちとか、嫉妬とか、馴染んだ子供みたいな気持ちがそこにあるならば、どんなに複雑に見えても、怖くない、ってなんとなく思う。むしろかわいい、とすら思う。めんどくさいけど。でもつんでれはきらいじゃないんだな。

大人になってきたなくなった、とか、ずるがしこくなった、って、きいたことあるし、少し思うことあるのかもしれないけども、なんてことない、もしかしたら、素直さをくるむものが分厚くなっただけで、根っこは変わらないのかなって思った。
しかも子供がくるむものを持ってないと思ったら、大間違いだ、と思う。

いくつになっても

2008-06-23 04:54:28 | おもった
嫉妬について考える、これずっと考えてるけど。

昔から、友達によく嫉妬してた。たぶんすきなひととかいたら嫉妬するんだとおもうけど、いなかったから(かどうかはよくわかんないけど)友達に。
言ってしまえば、私より、あの子といる方が楽しいの?みたいな感じ、です。おお、恥ずかしい。
いまは、だいぶそこまでじゃなくなってきた、っていうのは、嫉妬をしたときに忘れるようにしたからなんだろう、と思います。まえは、覚えてて、その友達に対して「てめえおぼえてろよ」みたいに考えてた。あと自分友達少なかったから余計に。
心が狭いんです、自分に他に世界がないから、相手の広い世界に嫉妬してしまう。
でも今は、自分にも複数の空間があるから割合安定してるのだと思う。その程度でごまかされちゃう自分もあれだなあ、とは思うけど。

でもさ、きっと多かれ少なかれ、こういうきもちってみんな持ってるんだな、って最近とてもおもう。人に対する嫉妬とか、妬みってきっとずっとある、いくつまであるのかわかんないけどとりあえず身の回りで私が大人だと思ってた人には確かにあった。
嫉妬するのは子供っぽい、って思う、だから、それを隠しきれない人、あからさまに表に出してる人を見ると、人は子供だなあ、って思うんだろう、と思う。
でもそれは自分から嫉妬っていう感情が失われたりしたわけじゃなくて、単にかくすのがうまくなっただけ、それだけの違いで、別に嫉妬が消えたわけじゃないんだろうな、と思ったら、大人と子供に境界線が見えなくなった。
たぶん、減りはするんだろうけどね。
きっと嫉妬だけじゃなくて、感情とか、動揺とか、嫌悪とか。私が思ってた最終地点は、嫉妬しないの境地であるところの大人、は、きっとあるいみ永遠に存在しないのかもしれない、と思う。子供はずっと心の中にいて、でも、表に出られなくてかたちはいびつになるけども、それでもやっぱり人から感情は消えないから、私は安心していい、と思った。

あこがれ

2008-06-23 04:34:49 | おもった
なんだかおもうのだけど、やっぱり隠した方がいいときってあるよね、だって惜しげもなく出すと、どうでもいいものみたいに扱われたりする、と思うのです。
でも同時にばかだ、とも思う。
同じものを、だだっぴろいところに出しとくのと、大事そうにガラスの中にしまっとくので、価値が変わったように思えるなんて、ばかみたいだ、と思ってしまう。
でもそういう生き物なんだよね。
逃げられると追いたくなったり、隠されると見つけたくなったり。
でもいつか消えてしまうそんな工夫を見るよりは、最初から野ざらしになってるそれをすきになりたいとおもうのだけど、なかなかどうして見極められそうにありません。
私もまた、ばかの一人です。

現実

2008-06-22 02:06:49 | おもった
道端で死んでる猫がいた。たぶん車に轢かれたんだろうなって位置で死んでて、私は、うおっていって驚いて通り過ぎた。でもほっといたら絶対またあの位置で轢かれそうだ、と思って、せめて道の横に移動させといておこうと思って、戻った。猫を持ったら意外に温かった。もっとこちんこちんになってるかとおもってたけどちがった。で、道の脇においといたけど、おいといてどうすんだ、と思って、自分に嫌気がさした、さしてたら、隣を別の猫が通りすぎてった、それで、その猫と目があった時点で泣いた。びっくりしたけど、何もかんがえてないのに涙が出てへんだ、と思った。別に猫の死ぬ前の恐怖とか、全然想像したわけでもないのに泣いてた。結局そのまま生きた猫を撫でて帰ってきた。
帰る途中は、一緒にそこに人がいたら、ってことをかんがえてた。私の友達はすごい動物嫌いだから、一目散に逃げてきそうだなと思って心の中で想像して笑った。例えばうちのお父さんとかお母さんだったら、嫌な顔しても一緒に埋めてくれるんだろうな、とおもった。なんでもいいんだけど、できたらせめて私がこんなふうに泣いててもひかないで一緒にいてくれる人が恋人とかになったらいいんだけどな、って思った。

20年

2008-06-11 00:29:01 | わるくない
6月10日を以て、二十歳になりました。

気恥ずかしさプラス誕生日なんてなんとも思ってない自分気取りたいみたいなとこがあったので、いままで誕生日意識しないようにしてたのですが、だがしかし意識しないようにしようとしてる時点で意識してて、毎年逆に悲しい気持ちになってた。と思います。
でも毎年、逆にそれで意識しすぎてたな、と思ったので、今年はもうガンガン意識していこうと思いました。
もう3週間前くらいからずっと考えてた。
というか、やばいなあ、と思ってました、二十歳になるの、やばいなあ、って。
別段何も変わらないけど、何も変わらないままこのまま30、40ってなってって、あとでし忘れたことあったりしたら、まずい、と思ってた。
このまま怠惰に自分の誕生日迎えるべきでないな、と思った。
だから、何しよう、と思って、万が一自分の誕生日に死ぬとしたら、それまでになにしなきゃいけないか考えて実行しよう、とまず思いました。
考えたらなんとなく勝手に涙が出てきて、身の回りの人の元気を確認、それこそじーちゃんばーちゃんから友達まで、しようかな、と思ったんですが、家に帰って改めて日常に帰ると、面倒くさくなったので、やめにしました。
誰かに対するアプローチが面倒くさいなら、心の中で、まあ20年をふりかえってみよう、と思って、帰り道とか、自転車に乗りながら、いままでなにやってたっけなあ、ということを思い返したりしました。
悪いことばっかり覚えてるのが自分らしいなあと思った。
知ったかぶりするな!って怒られたこととか、親を騙すな!って怒られたこととか怒られたこととか怒られたこととか。
あと、誰かがいないときのさみしい気持ちとか。
喋れない自分のこととか。
でも、20年、見守ってくれてた人がいることの温かさは感じた。
すごい、よ。自分が小さかったこととか、いっぱい考え方が変わったこととか、それに付き合ってくれてた人のいたこととか。
人より付き合ってきた人の数はすくなかったかもしれないけど、でもそこにたしかに誰かはいた。
自分がいままでなにをしてもらってきたかを考えると、妙に謙虚な気持ちになった。
何をしてくれるか、期待ばっかりして、他人と比べて、悲しい気持ちになるより、たぶんしあわせなことなんだろうな、と思い、まあ当日誰も祝ってくれなかったとしても、イコール別に嫌われてるわけでもないだろうな、とも思い、というか考えすぎてどうでもよくなったりして、なんだか、穏やかな気持ちで10日を迎えることができました。
実際、祝ってくれる人もいたりして、うん、うれしかったです。

結局ただの日で、別段何が変わるわけではないけど、契機なんだろうなあと思った。いろいろ考えるための。
できたら毎年振り返ろうと思った。普段は忘れてる、蓄積されたものを、たまに振り返ると、自分が思ってたより果てしない日々がそこにあって、なんとなくすごいなあとおもえる。思えます。

うむ。

離れた所から見る

2008-06-01 21:13:58 | おもった
客観的に見ることと主観的に見ることについて考える、なんか知り合いが友達を客観的に見てると私はどきっとしてしまう。
それがつまり、好きだとか嫌いだとかじゃなくて、他人扱い、というのか、よくわからないけど、分けられてる感じ、がする。
カテゴライズされるときの冷たさを感じる。
逆に相手の主観にぴったり寄り添ってる図は、信仰か!ともいいたくなるきもするけど、でも客観視してるのがわかると、ああーってなっちゃうんだなあ
でも、最近客観的になってなお感じられる愛もあるなあと思うので、(愛ある「あいつはばかだから」発言をきいた)うむ、よくわからん

きえたらどうしよう

2008-06-01 21:04:31 | 好ましくない
いざ口にしようとすると、取るに足らなかったことのような気がして、思ったように言うことができない。
不満や愚痴は特に

言葉が滑りでる寸前に許してしまう。それと怖がってしまう。
言って嫌われるのといわないでこのままなのを、無意識に、反射的に天秤にかけてる。
時には脳内で、不満を言ってる自分と、それに反応する相手を想像して、すっきりしてしまうことがあって、まあそれで済むなら済んだ方がいいのだろうけど、ちょっと悔しい、と思った

ひとりで交差点

2008-06-01 20:33:03 | 好ましくない
初めての接触が多い日がある、いろんな人と話す日がある。
そういう日を振り返ると、自分の残像が見える。どう思われたか、っていうのがいっぱい重なって、疲れる。
考えなければいい、のかもしれないけど、それって考えなくて済むくらい毎日ひとに囲まれてればいいのか、と思うと、果てしないな

僕に手を触れてください

2008-06-01 17:40:13 | 好ましくない
ばかな無限連鎖を自分でつくって自分で苦しんで、こんなつもりじゃないのにな、と思って嗚咽を漏らした。

自転車に乗りながらどんどんあふれてきて、涙が、情緒不安定に見られてるんだろうな、と思ったら余計に誰にも言えない。
言えばいいのに、馬鹿だ、私

友達と普通に話してただけだった。
今日はなんとなく、きくだけでいいや、と思ってしまって、それが馬鹿だ、と思う
相槌うつのとかすごくする、すごくつっこんできく、そしたら、相手はすごくうれしそうに話してくれる。そういうのずっとしってて、でも自分の取り分を取ること、自分もしゃべらないと詰まらなくなるって知ってたのに、相手が喋るのきいてればいいや、と思う自分をすごく高慢だとおもう。聞けば、満足なんでしょ、という態度。
でもすごく突っ込んでほしいのは、自分もそうしてほしいからだ、きいてくれないとしゃべれない私。だっておもう、結局自分が喋ることが大事なおしゃべりで、自分が話してることに何の価値が相手にとってあるんだろう、相手がききたいと思ったときにしゃべる言葉以外に何の価値があるんだろう、ということ。
だから私は相槌を返しながらどんどん虚しい気持ちになる、心が乾く、胸が軋む。本当は、自分も好き勝手にしゃべればいいんだ、お互いにしゃべることで満足して、相手の話もそこそこきいて、自分のいいたいこと言って、それでいいのに、私は、いったん染み付いた根性から離れられなくて、相槌を打ちながら、相手がきいてくれるのをずっと待ってた。
すごく、きたないぶぶんがある。きかずにいられなくなればいいのに、と思ってる。自分が一方的に喋ってることに、相手が気付けばいいのに、それで、相手が私のこと何も知らないのに早く気付いて、私のことが気になればいいのに、って思ってる。
それが歪んでるってことも知ってる。

別れる、電話をかけまくる、つながらない、かえってくる、ごめん、今用事中なんだ、そっかごめん、またかけるね、ばいばい、
役立たず!と思った。自分が困ったときはきいて欲しがるくせに私が困ってるときにきいてくれないなんて役立たず、って。
実家にかけたらお父さんにつながった、そしたら涙が出てきた。自転車に乗りながら、ぼろぼろ泣いてた、思えばひとり暮らししてから初めて自分から電話した。
お父さんはおろおろしてた、たぶん。娘から電話かかってくるのなんて初めてだし、私は理由をちゃんと言わないし
なんでこうなんだろう、って私は言う、そしたらお父さんは、我慢するのがうちの家系だから仕方ない、って言った。私はなんて家系に産んでくれたんだ、っていった、そしたら笑ってた。
お父さんは、最終的には、話に困ってしまって、うちの県の出身の人がいまドラマにでてるんだぞ、あの芸人もそうだった、とか話し始めて、私は笑う、しまいには、お金に困ったら俺に言え、お母さんは厳しいから、と言ってた。娘に甘くなるのはどこのお父さんも同じなんだなーと思った。自分の父親で再認識するのもおかしい話だけど。

話したい話なんてない、でも話を聞いてほしい、話を聞いてもらうためにいっぱい話を聞く、イーブンになるように、でもそれは正しく作用しない。
でも手を伸ばせばつかんでくれる人がいる、だから素直に手を伸ばせばいいのに、つかんでくれる手がないかもしれない、って私は自然に思う、いままでなかったから、でも常に、期待しすぎる方が間違ってる、んだろうと思う。

私のやり方は遠回りすぎる、もっと素直になればいいのに、でも思ったところで即座になれないけど、なれないなんて思ってると一生なれない、から、もうちょっとがんばりたいかな