ノエルのブログ

文学、映画、ガーデンを巡る雑記帳

若者のすべて

2017-03-15 21:04:28 | 映画

懐かしい「若者のすべて」がリバイバル公開されるというので、行きつけのミニ・シアター「シネマ・クレール」へ観に行ってきた。

もちろん、ルキノ・ヴィスコティの1960年製作の映画である。学生時代見たっきりというから、この映画に再会するのも、23年ぶりくらい。ああ、懐かしいなあ~。

大学時代は、とにかくヴィスコティの映画が大好きで、「ベニスに死す」はもちろん、「家族の肖像」、「ルードヴィヒ」も繰り返し繰り返し観たもの…・…あの華麗な映像がもういちど見れる、と思いきゃ、これはそうした晩年の絢爛たる作品とは違うのであった。  ネオリアリズムというものが、戦後のイタリア映画を席巻していて、貧しかったり苛酷だったりする名もなき人々の生態を克明に描いたドラマが当時は、受けていたのだ(イングリッド・バーグマンの夫だったロベルト・ロッセリーニなんか、そうね)。

ヴィスコティも、若かりし頃は、「赤い公爵」と呼ばれたほど、プロレタリア運動に熱中していた過去があり、その初期作品もちょっと、小林多喜二の「蟹工船」の趣がある?

貧しいイタリア南部の村から、大都会ミラノにやってきた一家……イタリアのマンマを体現するかのような母親とその息子たち。彼らは五人兄弟なのだが、一足先にミラノにやってきていた長男を頼って出てきたのだ。こう書くと、もうお分かりのように、この映画はイタリアの南北問題と、田舎から出てきた家族が、都会で厳しい現実に翻弄されるさまを描いたもの。  ここでの主人公は、アラン・ドロン演じる三男ロッコで、副主人公は次男シモーネといっていい。  善人で聖人のような趣さえ持つロッコ(これを、あの悪の華のようなドロンが演じるというのが、とっても面白い)と元は善良でありながら、都会の毒に身を持ち崩し、落伍してゆくシモーネの対比が、とても面白いのだけれど、彼らを描く視線の残酷さは、さすがヴィスコンティ―――人間を描いて、これほど厳しく、その非情さが、深い余韻を残す映画作家はいないだろう。

そして、特筆すべきは、やっぱりドロンの美しさ! 「太陽がいっぱい」と同時期の、この作品で、彼の俳優としての魅力は出尽くした感さえしてしまう……「地下室のメロディ」や「パリの灯は遠く」などの佳品も素晴らしかったけれど、この若い日の鮮烈さは、それだけで別格なのだ。
アニー・ジラルド演じるナディアも、映画に迫真のリアリティを与えていて、三時間もの映画が全く長く感じられなかったほど。商売女で、始めはシモーネの恋人、のちには、ロッコと愛し合うようになるナディア。偏執的なシモーネに付きまとわれ、後には湖のほとりで彼に殺されるのだが、単なる薄幸の女性とは違う、ふてぶてしさ・破滅型ぶりが、何とも魅力的。
映画の最後は、ロッコの顔写真が大きく載ったポスターが画面にひるがえる。愛する兄シモーネを救うために、大金が約束されたボクシング選手とならざるを得なかったわけだが、そこへ流れる歌がせつない。「我を生みし、はぐくみし、母なる故郷・・・・・・」 ロッコが夢見たオリーブの実がみのる故郷への帰郷はかなうことはないだろう、と暗示して、この物語も終わる。 貧しく、悲劇的でさえある人生。しかし、そこには、神話を見るような輝きさえあるのだ。
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