風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

空飛ぶクジラはやさしく唄う 第12話

2012年04月15日 00時35分32秒 | 恋愛小説『空飛ぶクジラはやさしく唄う』
 遥を守りたい

 
 肚《はら》を決めた僕は、携帯電話を握り締めながらドアを開けた。ただし、チェーンはつけたまま。相手がどう出るのかを見たかった。もし、足をドアの隙間に入れてくるよう真似をするなら、すぐに警察を呼ぶつもりでいた。
 遥の父は、ハイボールの似合いそうな渋い中年男だった。碁盤のようにしっかりとあごの張った四角い顔に小さく整った端正な鼻をしている。鼻筋は遥にそっくりだ。すらりと背が高く、歳相応の貫禄はついているけど肥っているというわけでもない。ポマードでなでつけた髪を七三に分け、縁なし眼鏡をかけていた。小さな目の眼光は鋭い。頭の切れそうなインテリ・サラリーマンといった風情だ。
「なんの御用ですか」
 僕が素っ気なく訊くと、
「御用って、君」
 と、中年男は途惑い気味に咳払いする。
「ここは天草遥の部屋かね」
「そうです」
「遥に会いたい。遥を出してくれ」
「外出しています。いたとしても会わせられません」
「君はいったいなんなんだ」
「遥の彼氏です。いっしょに暮らしています」
「同棲か」
 男は顔を背けたまま苦虫を噛み潰し、横目でぎろりと睨む。
「遥はいつ帰ってくるんだ」
「知りません」
「開けなさい。遥が帰ってくるまでなかで待つ」
「あなたを部屋へ入れるわけにはいきませんよ」
「私は遥の父親なんだがね」
「他人です。残念ですが、親権はないですよね。離婚された時に失った。違いますか?」
 僕の問いかけに遥の父親は押し黙った。彼のいらついた仕草がうっとうしい。
「私の意図をきちんと把握してほしいものだな」
 男は居直る。僕は許さない。
「意図というより、わがままといったほうがいいんじゃないでしょうか。あなたの言うとおりにしなくちゃけいない義理も道理もありません」
「もちろん君は他人だが」
 遥の父親の横顔には困惑と傲岸さが浮かんでいる。それから、弱みを見せまいとする虚勢も。目の色には、自分の意のままにならないことへの憤りと相手をねじ伏せたいという動物そのものの獰猛さが浮かんでいた。嘘喝《きょかつ》で凝り固まった人だった。
「外で話しませんか? きちんと言っておきたいことがありますから」
 僕は男を誘った。
「話? ――わかった。そうしよう」
 彼はしぶしぶうなずき、また嫌そうに顔を背けた。
 国道沿いの喫茶店まで黙ったまま歩いた。遥の父親は根掘り葉掘り尋ねたがっていたけど、僕は着いてから話をしましょうと言ってとりあわなかった。
 歩きながら何度も拳を握り締めた。
 こみあげてくる怒りを何度も抑えた。
 僕の大切な遥を不幸にしたのは、ほかならない彼だ。先入観で人を判断するのはやめようと心がけているつもりだけど、彼にだけはどうしてもできない。遥の父親というよりも、遥を傷つけたろくでもない男だと、そんなふうにしか思えない。もし遥の家が普通の家庭だったら、娘の彼氏にいきなり出くわした父親の途惑いを理解しようとしただろうし、彼と仲良くしようとも試みたのだろうけど。
 喫茶店のガラステーブルを挟んで彼と向かい合った。市販のレトルトカレーを電子レンジで温めてそのまま出すような、なんの工夫もない安っぽい店だ。椅子のクッションはすり減って硬い。色あせた無機質な内装のなかで、水着姿のキャンペーンガールを写したビールのポスターだけが真新しかった。
「ところで、どうやって僕たちの住所を知ったのですか?」
 僕は彼の目を見据え、切り出した。遥の父はうろんそうに僕を見て目をそらし、
「君は知らなくていい」
 と、木で鼻をくくったように言う。
「それを言っていただけないのなら、僕はなにも話しません」
「それより、君が名乗るのが先だろう」
「では、帰らせていただきます」
 僕は腰を浮かした。
「わかった。話せばいいんだろ。遥の通っている大学に伝《つて》があって、それで調べてもらったんだ」
「それって犯罪ですよね。個人情報保護法で他人に明かしてはいけないはずじゃないんですか?」
「だから君は知らなくていいと言った」
「まあ、いいですよ」
 僕は椅子に腰かけた。
「瀬戸佑弥と申します。遥とは中三の時からの付き合いです。恋人になったのは一年ほど前ですけど。あなたのことは遥からいろいろ聞いています」
「遥、遥って、気安く呼ばれちゃ困るね。よそ様の家の子供にはさんづけで呼ぶのが礼儀だろう、君」
 男は貧乏ゆすりを始めた。僕は目障りなその足を睨みつけた。
「もう一度言いますけど、あなたに親権はありません。他人です。遥もあなたを父親だとは思っていません。遥が高校へ上がる時、あなたは遥を取り戻しに行って拒絶されたそうですね」
 僕がそう言うと、男はひりつくように顔をしかめた。プライドを傷つけられたようだ。こんなことを初対面の人間に言われたら、誰でも腹を立てるだろう。だけど、彼の表情にはひとかけらの後悔や娘に対してすまないという気持ちも現れていなかった。
 ――自分の体面がすべてなんだ。
 僕はそう感じた。
「君は知らないかもしれないが、私は約束通り、遥が二十歳になるまで毎月養育費を支払った。一度も遅れることなく、きっちりとだ」
「お金の問題じゃないですよね」
「そうとも。金の問題じゃない。誠意の問題だ。私は誠意を見せた。だから、遥には帰ってきてほしい」
 男は金の問題ではなく誠意の問題だというけど、どうも混同しているようだ。お金を払うのが誠意のすべてだと勘違いしている。まるでお金さえ払えば自分の娘が帰ってくるかのように。僕が聞きたかったのは、ほかの言葉だった。
「離婚協議書で約束したことは反故《ほご》にして、あくまでも取り戻したいということですか」僕は訊いた。
「遥は私の娘だ」
「他人です。どうしてそんなにこだわるんですか? 遥は嫌がっているのに」
「血は水よりも濃いと言ってね。親子の絆は簡単に断ち切れるものじゃない」
「遥はあなたを忘れたがっています。あなたが遥のお母さんをいじめたのが、トラウマになっているんですよ」
「あんなやつがなんだ」
 男は吐き捨てた。
「私は遥の母親とは性格が合わなかったんだよ」
「合わせようとしたのですか? 理解しようとしたのですか?」
「君にそんなことを言われる筋合いなどない。夫婦のことなど、君の歳ではわからんさ。惚れたの腫れたのって言っているだけなんだからな」
「失礼ですね。そんなことはありません。僕は、遥のことは誰よりも知っているつもりです」
 僕は遥の状況を説明した。
 遥は自分を責めすぎて悩み苦しんだ状態からようやく立ち直りかけたところなので、あなたに現れてもらっては迷惑だとはっきり告げた。男は、またプライドを傷つけられたような顔をしたけど、僕はかまわなかった。彼のゆがんだプライドなど、知ったことじゃない。悲しみを乗り越えて生きようとする遥を守るほうがよっぽど大切だ。
「あんな鬱病の母親といっしょにいたからそうなるんだ。鬱がうつったんだ」
「どうして遥のお母さんのせいにするんですか? 遥のお母さんを鬱病にしたのは、あなたですよ。あなたが遥のお母さんをいびりまわして人格を破壊するような真似をするから、そうなったのですよ。わかっているんですか」
「君には関係ない」
「遥の問題は、僕の問題です」
「娘のことをそこまで考えてくれるのはうれしいがね。君は遥の代理人というわけか」
 男は唇を皮肉に曲げた。
「言っておくが、鬱病になったのはあいつ自身の問題じゃないか。私にはなんにも関係ない。離婚した時、あいつはまだ病気じゃなかった」
「言い逃れですね。遥の幼い頃から、遥のお母さんはいつも死にたいって口走っていたそうですよ」
「記憶にないな」
 男の視線が一瞬、宙に浮いた。嘘をついている。
「また言い逃れですね。どうして、ほんとうのことを話してくれないんですか?」
「どうして君はそう喧嘩腰なんだ?」
「あなたが喧嘩腰だからです。あなたは信用できません」
「もともと信用しようなんて気はないじゃないか。誰も私のことをわかってくれようとはしないんだ」
 男は声を荒げる。
「それはどうでもいいんですけど」
 僕は冷たく受け流した。ほんとうにどうでもよかった。遥のことだけが心配だった。
「僕はずっと遥を支えてきました」
「面倒くさいなら、ほかの女性を探せばいいだろう。いくらでもいるじゃないか」
「そんなことは一言も言っていません。これからもずっと遥を支えるつもりです。でも、あなたに邪魔されたんじゃ、遥は元気になれないんです。そっとしておいてあげてくれませんか。そのほうが遥のためなんですよ」
「君ではらちがあかない。遥に会わせろ」
「それはできません。どうしてもと言うのなら、警察を呼びます。あなたの会社にも電話します」
「けっこう汚い手を使うんだな。おぼこい顔をしてさ」
 遥の父親はいらだたしそうにテーブルをこつこつ叩き、蔑んだ目で僕を睨む。だけど、その目は本心から蔑んでいるのではなかった。自分自身が後ろめたいことをした時に、逆に相手が悪いと責めるための戦術だ。そうしたほうが、相手にダメージを与えられるからという計算でしかない。なにも信じていない人間特有の狡猾な目つきだった。
「大学に裏から手をまわして、僕たちの住所を手に入れたのは誰でしょうか? 遥のためだったら、僕はなんでもします」
「私だってそうだ」
「でしたら、遥には会わないでください。もし遥があなたと会う気になったら、いつか会えるでしょうから」
「だからそれはいつなんだ。私はいつまで待たされるんだ」
「わかりません」
「離婚してあの子に悲しませてしまったのは悪かったと思っている。だが、私はもう十分に償った。どうしてわかってくれないんだ」
「あなたを許すかどうかは、遥が決めることでしょう。どうして、自分のことしか言わないんですか。僕は不思議です。娘がかわいいって言いながら、結局、いちばんかわいいのはあなた自身なんじゃないですか」
「誰だってそうだろう」
「そんな理由で正当化できることではありません。遥は幼い時に心の痛手を負って、今でもそれと闘っているんです。その姿を間近で見ていないからご存知ないかもしれませんけど、トラウマの元凶が目の前に現れたらどうなるか、見当がつくでしょう」
「ずいぶんな言い方だな」
「何度同じことを言えばいいんですか。あなたが遥のお母さんを罵倒したからです。幼い頃の遥はそれを見て、いつも怖くて震えていたんですよ。あなたが怖くてしかたないんです。あなたは取り返しのつかないことをしてしまったんです」
「遥を手放したのは間違いだった。ばかみたいにお人好しで、世間知らずで、頭のおかしいあんなやつと一緒に暮して、さぞ苦労したことだろう。あいつの母親もいけすかないばばあだからな。私は償った。養育費だって払った。遥に嫌われるのが耐えられない」
 男はどんとテーブルを叩いた。異様なくらいの音が響く。コーヒーが飛び跳ね、焦げ茶色の滴がテーブルに散らばった。
「私は自分の家族を取り戻したい。ただそれだけなんだ」
 遥の父は肩を震わせる。
「自分のために遥を利用するだなんて、あんまりですよ。すこしは遥のことも考えてあげてください」
「どうして遥はそんなに私を嫌うんだ。あの子に母親にいろいろ吹きこまれたんだろう。自分の母親を信じているのかもしれないが、あいつはなにもわかっちゃいないやつなんだ」
 遥の父は、僕の話を聞かずに激高しだした。このエゴイズムの塊のような性格が遥の母親と遥を追いつめたのだろう。会社のなかではそれで通用するのかもしれないけど、そのやり方を家族に応用したのでは、家庭が壊れるに決まっている。僕は冷ややかに彼を見た。
「なんでもする。土下座でもなんでもする。殴って気が済むのなら、殴ってくれて結構だ。遥にそう言ってくれ」
「だから、もう取り返しがつかないんですよ。あとは、あなたがその事実を受け容れるかどうかの問題なんです。覆水盆に返らずって言いますよね。そういうことなんですよ。とりあえず、落ち着いてください」
「あの子の母親と離婚した後、私は会社でずいぶんつらい思いをした。針の筵に坐るようだった。いろいろ陰口を言われたものだよ。そのせいで出世だって遅れた。だが、養育費を支払わなければならない。あの子の姉さんだって育てなくちゃいけない。だから、仕事を続けた。私はこれまで努力してきたんだ。どうしてそれを認めてくれないんだ」
「あなたが相手を認めようとしなかったからです。とりわけ、遥のお母さんを。だから、あなたはその報いを受けているだけなんだと思いますよ。いちばんの問題は、さっきも言いましたけど、あなたが自分のことしか言わないことです。はっきり言って、傲慢だと思います」
「たしかに、私はプライドが高いと言われる。だが、そんなことは君には言われたくない。赤の他人なんだからな」
「そうですよ。赤の他人ですよ。これからもずっと他人です。遥とあなたとの間柄も」
 僕は、自分でも嫌なことを言っていると自覚していた。こんなことを僕に言わせた彼を憎んでもいた。でも、遥を守るためだ。遥のためだったら、なんでも言う。言わなくちゃいけないことは、きちんと言う。
「とにかく、遥の前には現れないでください。きっと、遥はパニックになります。またひどく落ちこんでどうしようもならなくなってしまうのは目に見えていますから。この間は、友人が助けてくれたこともあってなんとか持ち直しましたけど、今度そうなったらどうなるかわかりません」
「もういいっ」
 遥の父は席を蹴り、
「話をするというから、私のことを聞いてくれるのかと思ったのに」
 と、捨て台詞を吐いてそのまま喫茶店を出て行った。
 僕は彼の後ろ姿を見送り、水に濡れた伝票を持ってレジへ立った。
「悪いことはもう起きないって遥に約束したんだけどな」
 僕はつぶやいた。
 喫茶店の店主は不機嫌そうな顔で僕を見る。遥の父が大声を出していたので腹を立てたようだ。
「なんでもないです」
 さすがに遥の父親のかわりに謝る気にはなれず、僕は首を振った。二人分のコーヒー代を支払ってさっさと店を出た。
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夕暮れ

2012年04月04日 04時30分06秒 | 詩集

 春の夕暮れは
 あたたかかくって
 せつなくて
 重いコートもいらないというのに
 どこへも行けない僕は
 ただ、夕暮れを眺めるしかないのです

 少女の打ち上げたバトミントンが
 苺色した空にゆっくり舞って
 たおやかに
 やるせなく
 二階建てバスとすれ違いながら
 暗い地面へ落ちていきます

 あたたかい風は
 ふたりの恋心をどこへ運ぶのでしょうか
 いいえ
 行き先などないのです
 僕を信じてる人になにもしてあげられなくて
 なにもしてあげられないからこそ
 去らねばならないのですが

 これを裏切りというのだと
 バトミントンの羽はゆっくり落ちます
 残酷な言葉を考える僕を恨みます
 いっしょに遊ぼうとはしゃいでる
 やさしい少女の誘いに
 僕はまたもや生返事

 春の夕暮れは
 あたたかかくって
 さみしくて
 重いコートもいらないというのに
 どこへも行けない僕は
 ただ、夕暮れに身を任すしかないのです



「小説家になろう」投稿作品。
http://ncode.syosetu.com/n2006bd/

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楽しい創作ノート作り(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第100話)

2012年03月29日 07時45分15秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 
 長い話を書き始める前は、創作ノートを作ることにしている。
 こんな話を書いてみたいなというイメージが脳裡に浮かんだら、仮のタイトルを決め、テーマと主要登場人物について、箇条書きでそれぞれ二行か三行くらいささっと書いてみる。
 テーマはシンプルであればあるほどいい。複雑にしてしまうと、なにを書きたいのか、自分自身でもわけがわからなくなってしまう。ネタバレになってしまうけど、例えば『貴女と蒼穹を翔びたかった』のテーマは「大切なもののために闘ったのか?」だった。主人公の気持ちになりきり、このことについてずっと考えを巡らせながら小説を書いた。
 プロットのほうはあまり練らない。というよりも、僕の場合、いくら考えてもうまく思い浮かばないので練りようがない。ストーリーは結末だけは決めておいて、あとは実際に小説を書きながらどうやって結末へ持っていこうかと考える。ストーリーは、物語の面白さよりも、どんなストーリーがテーマにふさわしいかという観点から決めるようにしている。たぶん、エンターテインメントではほとんど採らない手法だと思うけど。
 人称をどうするかも大事な問題だ。この連載の『一人称で書くか、三人称で書くか』でも書いたけど、一人称は使い勝手のよい小刀で、三人称は切った張ったと大立ち回りできる長剣みたいなものだと思う。一人称は主人公の気持ちになりきりやすいうえに、心理描写もみっちりできて、小説を主人公の世界観で染め上げやすいから、このところ一人称で書くことがほとんどだ。たまには三人称で書いておかないと、そのうち三人称が書けなくなるような気もするけど、とうぶん、一人称が続きそう。もとはといえば、僕は三人称のほうが好きだったのだけど。
 簡単に大枠を決めたら、とりあえず出だしを書いてみる。
 実際に書いてみないとわからないことも多い。出だしはその小説の世界観と主要人物の描写が主だから、試し書きをすればイメージがもうすこしはっきりする。僕はこんなことを書きたいのだなと自分で気づいたりもする。小説というものは、頭のなかのもやもやとしたイメージを引っ張り出して、楽しんだり四苦八苦したりしながら言葉でなんとか形をつける作業だ。もっとも、僕は描写が下手だから、こんな偉そうなことを言えたものではないけど。
 こんな感じでいいかなと思えるまで何度か冒頭を書き直す。冒頭だけでイメージを摑めないときは、もうすこし先まで書いてみる。
『生煮えの鮒』の場合、バイオリンを甲高い音でかき鳴らすようにして出だしを書いたので、そこだけでは全体の感覚を摑むのがむつかしかった。だから、とりあえず先へさきへと急いで書いてみた。
 冒頭をある程度固めたら、また創作ノートへ戻る。摑んだイメージの種を膨らませるのだ。
 ネットを検索して資料を集めたり、小説を読んだり、DVDを観ながら気になった言葉を書きとめたりして、ベッドにごろっと寝転がっては小説世界を思い浮かべながらいろいろ妄想してみる。あれやこれやと考えているうちにイメージが肉付けされて具体的になってくる。テーマについても、つっこんで考えられるようになる。ずいぶん時間のかかるやり方だなと我ながらあきれてしまう。でも、こうしないと長い話を書けないのだから、ほかにやりようもない。
 僕の好きな話には、かならず問題提起がある。問題提起が話を深め、そこから力強いメッセージが生まれる。
 問題提起などと書けば大袈裟に響くだろうから、プロ野球の出来事を例に引いてみよう。
 二〇〇五年四月二十一日、東京ドームで開催された阪神・巨人戦。七回裏ジャイアンツの攻撃。ツーアウト満塁の場面で清原和博選手がバッターボックスに立った。ピッチャーは当時中継ぎへ転向したばかりの藤川球児投手。藤川投手はフォークボールを投げて清原選手を三振させた。
 清原選手はまさか変化球で勝負されるとは思いも寄らず、
「ストレートで勝負しないなんて信じられへん。ち×ちんついとんのかっ!」
 と怒りのコメントを発して、物議を醸した。
 これは、「男らしさとはなにか?」ということの問題提起だ。「男なら真っ直ぐ勝負しろ」というのが清原選手のメッセージ。もちろん、このメッセージが「正しい」かどうかはまったくの別問題。往々にして「正しさ」は個々人の価値観によるものだから。たぶん、ノムさんなら、「アホなこと言《ゆ》うてんと、もっと考えて野球せい」と言うだろう。
 これは問題提起の一例だけど、素材は身近なところにいくらでも転がっている。
 もちろん、問題提起やメッセージに具体性や重みを与えるのは、登場人物のキャラクターだ。キャラクターとメッセージが嚙み合っていないと頓珍漢なことになる。さっきの例で言えば、へなちょこな選手が「真っ直ぐ勝負しろ」と言ってみてもしょうがない。しかるべきキャラクターにしかるべき問題を提起させる必要がある。キャラクターをしっかり作り上げないと、問題提起やメッセージが生きいきとしたものにならない。
 キャラ作りをする際、僕は各キャラクターの声を必ず先に決めるようにしている。
 このキャラクターはどの声にしようかとあれこれ考え、俳優さんや声優さんや噺家の声を頭のなかで鳴り響かせてみる。もうすこしいい声はないかとほかの声も探ってみたりして、しっくりくるまで何度かその作業を繰り返す。キャラの役柄と性格にぴったりの声を見つけたら、キャラ作りはだいたい七割くらい完了だ。もちろん、このキャラはこの声でいくとはじめから決めておく場合もある。『祝福を遠くはなれて――エンタープライズ、カミカゼの奇襲を受く』のタイラー艦長は、前から一度この声で描いてみたいと思っていた声にした。誰の声なのかは内緒。
 声が決まったら、キャラクターの容姿を決める。俳優さんの声を選んだ場合、自動的にその俳優さんがキャラクターの容姿になったりする。容姿の描写は大事だから、いろいろ考えて、できりかぎりイメージをはっきりさせるようにしている。一人称小説の場合、カメラアイが主人公の視線に固定されるので、主人公自体の描写はなかなかしにくいけど、小説のなかで描くかどうかは別として、やはりきちんと決めておくことにしている。
 プロの作家の小説作法を読んでいると、書いている途中から登場人物が書き手のコントロールから離れて、勝手に動き出すといったことがよく書いてある。そうなればしめたものだと。僕の場合、声をしっかり決めておけば、書いている途中から勝手に喋ってくれるようになり、頭のなかで各キャラクターの声が互いに響きあうような感じになる。
『罪と罰』、『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』といったドストエフスキーの作品群を分析した哲学者バフチンは、登場人物の声がそれぞれ独立して響き合う形式の小説のことを「ポリフォニー小説」と呼んだ。僕の書くものはしょせんたかがしれているけど、ドストエフスキーの爪の垢でも煎じて、すこしでも近づけたらと思う。憧れの作家だから。
 声が響き合うようになれば、登場人物が勝手に動いてくれてストーリーも自然と固まる。格好をつけた言い方をすれば、「人の歩いた跡が道になる」といった感じだろうか。実際の人生にしても、できあいのストーリーがあって、それを僕がなぞるのではなく、ままならない現実や自分自身とえんやこらと格闘しているうちに、自分自身の物語ができるものなのだから。
 キャラクターの声と容姿が決まったら、出だしを書き直したり、もうすこし先を書いてみたりしてイメージを固める。できるだけ、キャラの声が頭のなかですっと自然に響くように何度も練習する。それから、また創作ノートへ戻り、あれこれと考えを練って、思いついたアイデアや途中でこんな場面を入れたいなと思ったものを書きつけておく。どんな小説にしようかと考えをめぐらせている間がいちばん楽しい時なのかもしれない。実現可能かどうかは別として、いろいろと夢が広がるから。
 いけない。
 軽く書くつもりがけっこう長くなってしまった。与太話ばかり書いていないで、肝心の創作ノートをちゃんと作らないと。
 それにしても、こんなことをしている僕とはいったい何者なのだろう?
 



(2011年4月17日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第100話記念として投稿しました。 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/
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消費税率を5%引き上げればネットカフェ難民やホームレスがさらに続出する

2012年03月27日 22時59分25秒 | 日記

 民主党執行部は、2015年に消費税率を5%引き上げ、10%とする方針のようだ。
 消費税は、誰もが同じ税率の税金を支払うため、一見公平のようだが、お金を持っている人には負担が軽く、お金を持っていない人には負担が重くなる。
 たとえば、今現在、ワーキングプアの状態に貶められている人はどうだろう。
 仮に手取り年収150万円ですべてを消費に回すとすれば、年間7万5000円の負担増となる。ぎりぎりなんとか食べていける経済状態の人にとっては、決定的な追い討ちとなる。自力で部屋を借りて自力で暮している人でも、こんなことをされてはネットカフェ難民やホームレスにならざるをえない人たちが続出するだろう。
 百歩譲って、今食うや食わずの状態に置かれている人々が、憲法25条に保障されている「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」を実現できるようにし、「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。 」という成文規定を遵守する政策をとり、2015年には人々が安心して暮せるようにするというのなら、まだ理解できる。が、これではワーキングプアに死ねといっているに等しい。
 民主党の指導者たちは、国民がどんな状態で暮らしいるのか、理解しているのだろうか? 憲法の条文の意義を理解しているのだろうか? 食うや食わずで暮している人々は人間扱いしてもらえないのだろうか?


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福島第一原発の真相は?

2012年03月26日 08時00分15秒 | 日記

 いろんな噂が飛び交っている。
 四号機の燃料プールが崩壊しそうで、そうなれば東京も人が住めなくなるだとか、メルトスルーした燃料は地下800メートルに潜っているだとか、報道で発表している放射線量は人為的に低い値を発表しているだとか、東京でも中性子線が計測されただとか、などなど。
 政府が情報操作を行なっている以上、噂が飛び交うのは当然だろう。
 ただはっきりしているのは、事故はいまも終わっていないということ。それから、「放射能公害」の被害を最小限に抑えるための措置が取られていないということだ。政府は被害を出来る限り低く発表しようとしているのだから、当然、必要な措置が取られるはずがない。
 今起きていることの真相を知ることができるのは、いったいいつになるのだろう。
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消費税率引き上げ後に起きた金融危機(1997年の教訓)

2012年03月25日 06時23分18秒 | 日記

 1997年4月、橋本内閣は、前の村山内閣の時に決定していた消費税率引き上げをそのまま実行した。
 当時、日本経済はバブル崩壊後の不況から脱却しつつあり、経済の軟着陸(ソフトランディング)を模索できる状態にあった。しかし、消費税率引き上げによって、景気は失速し再び下降局面へ入った。さらに、97年に緊縮財政を実施したことも、景気の悪化を加速させることになった。
 そして、その年の秋には、北海道拓殖銀行や山一證券が破綻した。もちろん、バブルの時にむちゃをしていた金融機関が潰れても自業自得といえばそれまでだが、金融危機によって数多くの中小企業の融資がとまり倒産の憂き目にあったりと実体経済にかなりの被害が出た。
 慌てた橋本内閣は、翌年減税を実施したが、その甲斐もなく98年はとうとうデフレになる。
 いわば、病み上がりでまだ恢復しきっていない病人に薬を投与するのをやめ、しかも大量の血液を採取したために、病人がショック症状を起こしたようなものだ。
 今、消費税率引き上げを決定すれば、この先どうなるのかは目に見えている。
 1997年の教訓から学ぶべきだと思うのだが。

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景気と増減税の関係

2012年03月19日 22時44分23秒 | 日記

 景気のいい時は増税をしてオーバーヒート気味の景気を引き締める。逆に景気の悪い時は減税を行なって民間の活力が戻るようにする。
 これが増減税の基本だ。
 景気のいい時は市場にお金が溢れている。そこで、政府が増税することによってこれを吸収し、市場の金回りをすこし悪くしてやる。つまり手綱を締めるわけだ。そうすることで景気の暴走を防ぐ。
 景気の悪い時は市場の金回りが悪いので、減税――つまり政府が民間から吸い上げるお金の量を減らし、市場の金回りがよくなるようにする。過去に景気が悪化した場合、政府はその都度、減税政策を行なった。
 では、二〇一二年三月の今がどういう局面なのかといえば、あきらかに減税を行なうべき局面だ。リーマンショック以降、世界の景気が冷え込み輸出が振るわない。円高によって製造業の海外流出がさらに進み、日本国内の雇用の場が減っている。東日本大震災からの復興も遅れている。減税によって疲弊した民間の力を休ませる必要がある。
 日本の財政赤字はひどいという財務省のプロパガンダが世間に流布し、人々はそれを信じこまされているが、実はあと二〇〇兆円ほどは赤字国債を発行する余力がある。
 まずは大量の赤字国債を発行してでも東日本大震災の復興を進めるとともに、バブル崩壊以降のいわゆる「失われた二十年」から脱却するプランを立て、日本経済を軌道に乗せる必要がある。そうしなければ、なにより人々の暮らしが立ちゆかない。もちろん、景気が悪ければ税収も伸びず、国家の運営に支障をきたすことにもなる。
 消費税を値上げすれば、失われた二十年が失われた三十年になっても不思議ではない。不況下の今、消費税の値上げ議論を行なうのは正気の沙汰とはとても思えない。増税よりもはるかにだいじなことは、日本再生のプランをすみやかに実行することではないだろうか。

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作品の構造と作家の人生

2012年03月17日 10時00分15秒 | エッセイ
 
 作品と作者を切り離して考えてよいと教わった時、とても興奮した。
 教授は「従来の文学研究は作家研究であって、かならずしも作品研究にはなっていない。作品は作者から切り離して考えるべき」と主張し、構造主義による文学研究を講義した。
 それまで僕は、文学研究というものは作家の人生を調べ、その人生のなかからどのような小説が紡ぎだされたのかを解明するものだとばかり思っていた。たとえば、芥川の生い立ちが作品にどのような影を落としているだとか、太宰と誰それとの心中がどこの作品に描かれているといったことだ。
 ファン心理というものがあるので、好きな作家のことはいろいろと知りたくなるものだし、それはそれで面白いのだけど、物足りなさも感じていた。作品の分析が作者の人生にとどまっていて、それ以上の広がりや深みがない。有名作家の人生は調べつくされているから、新しい事実も新しい角度からの見解もなかなか出てこない。
 名作と呼ばれる作品には、人類の普遍的なテーマが描かれている。だからこそ、ドストエフスキーやトルストイといった十九世紀ロシアの作家が書いたものを読んでも感動するわけだし、同じ日本でも、漱石や芥川といった明治・大正の作家の作品を読んで共感を覚えもすれば、そこに自分の課題が描かれていると感じ入ったりもするのだ。とりわけ、漱石、芥川、中島敦、太宰といった作家が抱えた孤独感(孤立感)は、解消されるどころか、ますます広がっている。自傷(リストカット)の問題はまさにそうだろう。漱石は『こころ』のなかで、

 自由と独立と己れとに充ちた現代に生まれた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないのでしょう

 と書いている。この小説で漱石が「現代」と書いたのは大正時代の初め頃だが、二十一世紀の今でも充分通じる。現代的な課題だ。孤独感(孤立感)など感じず「この淋しみ」のない人はリストカットなどしたりしない。漱石が描いた課題は、今でもずっと続いている。「自由と独立と己れ」と「この淋しみ」は普遍的なテーマだ。
 ところが、作家研究では、その普遍性に対する分析が甘くなってしまう。触れられていないわけではないが、往々にして通り一遍のものになってしまう。作家という一個人の人生物語にこだわるあまり、大きなものを見逃してしまっているような気がしてならなかった。

 物事にはある一定の構造があるのだと教わった。
 そして、物語にもある一定の構造がある。
 一番解りやすかったのは「父親殺し」のテーマだ。これは文学作品のみならず、さまざまな物語で繰り返し表現される人類の普遍的なテーマの一つだ。
 映画『スターウォーズ』には、ルーク・スカイウォーカーとダースベイダー親子の決闘シーンがある。教授がビデオでそのシーンを流した後、これは「父親殺し」のテーマだと解説し、ギリシャ神話の『オイディプス王』からオイディプスコンプレックスと名付けられているものだとも話した。
 男は父親を乗り越えることで大人になる。
 この課題を端的に表現したものが、オイディプス王の父親殺しなのだとか。
 神話には物語の原型があり、神話を解明すれば人間の心に潜むある一定の構造がわかる。なんだか、人類の秘密が解き明かされるようでわくわくした。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』やファーストガンダムの最後のほうでもこのテーマが語られている。「父親殺し」の例をあげれは枚挙に暇がない。
『スターウォーズ』の「敵を倒して姫を獲得する」、逆に言えば「敵を倒さない限り姫を得ることはできない」というストーリーも、よくある物語の構造だ。身近な例で言えば、ゲームの『スーパーマリオブラザーズ』はクッパ大王を倒さなければ姫を獲得できない。『古事記』のスサノオノミコトはヤマタノオロチを退治した後で、大蛇《オロチ》の生贄になるはずだった少女クシナダヒメを獲得する。英雄《ヒーロー》の在り方を示したものと言えるだろう。
 神話や物語だけではなく、近代文学にももちろん構造がある。
 ドストエフスキーの『悪霊』は、帝政ロシアで実際に起きた社会主義の秘密サークルのリンチ事件を題材にして描いた作品だが、一九七二年の日本赤軍浅間山荘事件でも同様の事態が起きた。地下鉄サリン事件などを起こしたオウム真理教でも、同じような事態が発生していたことがわかった。革命を志向する過激な秘密結社では、誰かをスケープゴートにして殺害し、メンバーがその秘密を共有することで結束の強化を図るものらしい。これも構造の一つだ。もっとも、ここまで極端な例でなくとも、秘密を共有することで絆が深めようとするのは日常生活でもよくあることだろう。
 漱石の『こころ』は、己の心に地獄を見つけてしまった人間の自己との壮絶な戦いだ。そして、「自由と独立と己れ」という近代的自我を確立するための物語でもある。この作品に描かれているように、近代的自我とは罪の意識、それも全人類に対する罪の意識と人間全般に対する不信感を通じて、それと格闘することによって確立するもののようだ。これも構造の一つだろう。
 歴史は繰り返すとよく言うが、物語も繰り返されている。人は時を超えて、民族を越えて、同じ構造の物語を繰り返し語るものらしい。人の心にある一定の構造がある限り、人は同じことを繰り返すのだろう。もう懲りたはずの悲しい過ちさえも。
 作品から作者を分離して作品のみを取り上げて研究する構造主義的文学研究は刺激的だった。目を開かされた感じがした。
 もっとも、なにぶん難解な用語がたくさん出てくるから、むずかしすぎて僕の頭ではよくわからないことも多かった。だが、作品にひそむ構造を解き明かすことで見えることがいろいろある。構造主義は、ある問題を一個人の枠のなかや、民族の枠のなかや、時代の枠のなかに閉じこめるのではなく、もっとスケールを大きくとって、時空を超えて変わることのない人類の普遍的な課題としてとらえるということだ。文学作品を比較することで構造が浮き彫りになる。構造主義による文学研究は物の見方を教えてくれた。

 ただし、構造主義は万能ではない。
 構造はただの骨組みに過ぎない。骨組みばかりに目が行き過ぎると、作品に通っている人間の魂や血潮といったものを忘れることになる。いわば、人間を研究するつもりが、人間の骨格ばかり研究するようになってしまう。人間には死ぬまで鼓動し続ける心臓もあれば、体を巡り続ける血もある。見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れるといった五感は骨格には現れない。骨格標本だけを調べても人間のことがわからないように、構造だけを見ていたのでは大切なことを見落としてしまう。
 文章の味わい、といったものは構造主義ではとらえることができない。たとえば、「どくとるマンボウ」こと北杜夫先生の詩情やユーモアに溢れた文体を構造主義的に分析しようとしてもむりだ。感覚や感性に属するものを構造主義によって分析するのはかなりむずかしい。たとえ分析したとしてもこじつけになってしまうだろう。文章の味はいわく言いがたいものだが、作家それぞれにそれぞれの文体があってそれが読者を惹きつける。小説の大切な要素であるにもかかわらず分析は困難だ。
 プーシキンの文体にはロシア人の心を躍らせる独特のなにかがあるらしい。僕がロシアを旅行した時に出会ったロシア人は、じつに楽しそうに「自由」という詩を朗読した。このことなんだなと僕は感じた。だが、プーシキンを研究して何十年という研究者でも、なぜプーシキンの文体がロシア人の心のつぼを押すのかはわからないそうだ。プーシキンをプーシキンたらしめているものを構造主義では分析することはできない。
 分析できないものは文体ばかりではない。
 ありとあらゆる構造を究めたとしても、「なぜ生きるのか」「なぜ恋をするのか」「神は存在するのか」「私の魂はどこからきたのか」といった根源的な問いかけには答えてくれない。構造の分析はこういう仕組みになっているということを明かすだけであって、その構造を突き動かす根源的な力までは分析できない。
「なぜ彼女のことが好きなのか?」
 と問いかけてみても、その答えは出ない。たとえ、「恋をするのは人間の本能だ。なぜなら、子孫を残そうとする本能に突き動かされているのだから」といった答えが返ってきても、それは問いかけに対する答えにはなっているようでなっていない。
 人は誰でも恋をする。
 だが、誰にでも恋をするわけではない。
 先の骨格と血肉の例えでいえば、「恋は誰でもする」というのは構造にあたり、「なぜ彼女なのか?」というのは、血肉や感覚の問題に当たる。数多《あまた》いる異性のなかで、その人だけを選ぶのだから、なぜ彼女なのか、というのは非常に重要な問題だ。なぜ彼女でなければいけないのか、そこにその人の人生にとって大切なことを解き明かす鍵がある。いささか大袈裟な言い方をすれば、人生の神秘がある。
 なぜ、彼女なのか?
 なぜ、彼なのか?
 だが、この謎は容易には解明できない。
 だからこそ、時代や民族を超えて数多くの恋愛小説が執筆され、大勢の人々に読まれるのだろうけど。
 さらに、
「私《わたくし》の存在の意味は?」
 と問いかけても、なんにも答えてくれない。
 構造主義は、この世の仕組みや存在の仕組みを教えてくれても、存在の意味までも明らかにしてくれるものではない。構造主義は機械論だ。世の中を機械仕掛けの時計ととらえている節がある。人間の心やその心が紡ぎだす物語のメカニズムを理解することは大事だが、人間は完全な機械仕掛けではない。機械は意味を問いかけたりはしない。時として、意味を問わずにいられないのが人間だ。もっとも、人生の意味といった根源的な問いかけに対する答えを見つけようとするのは、もはや宗教的な領域になるのだろうけど。

 作家は血の通った人間だ。
 そして、作品は血の通った人間によって書かれるものだ。
 もちろん、読み手である「私《わたくし》」も血の通った人間だ。
 構造論だけでは割り切れないものを抱えている。それだけでは解き明かせない魂を持っている。作品を機械仕掛けのもののようにとらえるわけにはいけない。
 作家には作品を書くために血反吐を吐くようにして格闘した人生があり、作品はそうした格闘から生まれてきたものだ。そう考えれば、作家の伝記的文学研究を読み、作者の人生や想いを理解してから作品を読み返せば、また違う味わいが出てくる。構造主義は非常に有効な方法だが、作品と作者を完全に分離したままにすることはできない。
 要はバランスなのだろう。作品の構造と作家の人となりや人生をバランスよく見ることができれば、つまり、人類の普遍的なテーマとそれに対する作家という一個人の格闘を同時に見ることができれば、もっと深くておいしい小説の読み方ができるのではないだろうか。


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Character assassination (連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第85話)

2012年03月08日 08時05分15秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 
 誰でも、根も葉もない噂を立てられて困ったことがあるだろう。
 人間ほど噂に弱い生き物はない。
 とりわけ、妬みや恨みをかきたてるような噂にはあっけないほど弱い。
 それは、人の心にどうしようもないほどに、後ろめたい欲望が渦巻いているからだろう。たぶん、人の心の奥には、自分はこれほど努力しているのに評価されないという恨みつらみや、自分は苦労しているが他の誰かは楽をして不当な利益を得ているという妬みがわだかまっている。彼の足を引っ張り、自分より上に立たれるのを邪魔したいという暗い願望もあるだろう。恨みつらみを掻き立てられた人間は、得てして自分自身の心に渦巻く悪を検証もせずに、自分が正義だと思いこみやすい。実際のところは、後ろめたい欲望にただ操られているだけなのに。
 ある人物に狙いを定めてあらぬ噂をまき散らし、その人物を社会的に抹殺してしまうことを、英語では"character assassination(人物破壊)"と呼ぶそうだ。"assassination"には、暗殺、名誉の毀損という訳語があるけど、この場合はまさに「暗殺」がぴったりくる。
 敵を葬りたいと思えば、この人物破壊が手軽で便利だ。それが事実であろうとなかろうと、悪い噂はあっという間に広まってしまう。
 劇場版『フランダースの犬』を例に挙げるとわかりやすいかもしれない。
 少年ネロは風車に放火したと決めつけられ、村八分にされてしまう。しかも、誰にも相手にされなくなるどころか、パトラッシュが牽く荷車でミルクを運ぶ仕事も奪われてしまい、生計すらも立てられなくなったネロは、最後には自殺同様に死んでしまう。彼を死に追いやったのは、少女アロアの父ばかりではない。積極的であれ、消極的であれ、村人たちも加担していた。無実の放火罪を背負わされたネロは死ぬよりほかに道がなかった。『フランダースの犬』が日本で流行ったのは、人物破壊がまかり通る世間の愚かさや怖さがよく描かれているからなのかもしれない。
 今の日本の政治の世界では、小沢一郎議員に対する人物破壊が行なわれている。「政治とカネ」をめぐる虚偽のキャンペーンによって、評価は貶められ、しかもでっちあげの罪で起訴までされてしまった。彼に限らず、"character assassination(人物破壊)"によって政治家が失脚することは歴史を紐解けばいくらでもある。
 人物破壊をしかける側には、必ず欲望や野心が働いている。
 ネロを追いつめたアロアの父は、自分の娘がネロと仲良くなるのを好まず二人を疎遠にさせたかった。小沢議員を社会的に抹殺したい人々は築き上げた特権を守り、既得権の甘い蜜を吸い続けようとしている。自分自身の利益に過敏な人間は、自分自身に対する噂にも敏感だから、どんな噂を流せば人々がどう反応するかも心得ている。人物破壊をしかける輩は煮ても焼いても食えない。
 とはいえ、どういう形であれ、人物破壊の片棒を担いだ後で、後味の悪い思いをしたり、損をするのは自分自身だ。消極的であれ、積極的であれ、そんなことには加担したくない。迂闊な噂にのって、大切な友人や知人を傷つけたりするのはごめんだ。自分の首を絞めることに手を貸すのもごめんだ。
 巧妙にしかけられた人物破壊を見抜く智恵を持ちたい。後ろめたい欲望を掻き立てられるような噂を耳にしても、冷静でいられる平常心を持ちたい。もちろん、たっぷり自戒をこめて。




(2011年3月11日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第85話として投稿しました。 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/

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隣の市の給食はおいしい(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第83話)

2012年03月03日 13時02分14秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 高校に入学したばかりの頃、隣の市に住む新しい同級生と学校給食の話で盛り上がったのだけど、隣のH市の話を聞いてびっくりしてしまった。
 僕が通っていたN市の小学校では、年に二三回、お雛様の日や六年生の最後の給食の日といった特別な日だけケーキが出た。お雛様のケーキは、桃色、白、黄緑の三色ケーキで、それがとても楽しみだった。
 ところが、H市ではなんと毎月一回、給食にケーキがついたという。しかも、なんのイベントもないごく普通の日に。H市のクラスメイトはケーキくらいどうってことないよといった顔をしていた。僕はうらやましくてしょうがなかった。
 僕が通っていた小学校では、月に一回ご飯食が出た。砂糖をいっぱいまぶした揚げパンや黒パンは好きだったけど、普通のコッペパンとご飯を比べたら、やっぱりご飯のほうがいい。いっそ、毎日ご飯だったらいいのにと思ったものだった。
 ところが、H市では週に一回はご飯食だったそうだ。しかも、ただの白いご飯ではなく、炊き込みご飯や五目御飯などが多かったのだとか。僕は話を聞いているだけでつばが出てきた。
 僕の家からチャリンコで十分も走ればH市だったのだけど、市が変わるだけでこんなに給食が変わるものかと不思議でしょうがなかった。
 なんでも、H市には工業団地があって企業がたくさんあるので、税収が多くて市の財政が潤沢なのだとか。それで、給食のメニューも豊富だったそうだ。いまさら小学生に戻って給食を食べなおすわけにもいかないからどうしようもないのだけど、なんだかなあとちょっと割り切れなかった。
 ちなみに、給食のメニューのなかでは、デザートのカルピスゼリーがいちばん好きだった。ぺらぺらの薄いプラスティックの容器に入った四角いゼリー。たしか、月に一、二回は出ていたと思う。カルピス色のゼリーを見ただけで、なんとなく楽しい気分になれた。もういちど食べてみたいな。





(2011年3月5日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第83話として投稿しました。 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/
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