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ブックマーク タッチ厳禁?

2017-01-30 18:42:16 | 陶器

 音楽とは本来、極めて身体的な営みである。コンサートへ行けばいやでも、むんむんする肉体の群れの中に

 自分を投入しなければならない。隣のご婦人の香水がきつすぎてむかつきを覚えるとか、前の紳士の背が高すぎて

 よく舞台が見えずイラつくとか、あるいは立見席なら周囲の人と身体を密着させて聴く破目になるとか、

 こういうことが頻繁にある。そこには常に身体が放つ熱気と臭気がある。

 それに引き換えCDや携帯ヘッドフォンステレオで聴く音楽には、こうした身体的なわずらわしさがない。

 音楽だけに集中できる。透明でにおいがなくてクールで清潔で心地よい孤独が、そこにはある。

 こういう音楽の快適さに慣れてしまうと、コンサートに行くのが面倒になってくる。

 身体があるからこそ私たちは音楽を奏で、あるいは音楽を聴いて、そして他者と身体で共鳴できるという、当たり前の事実を

 忘れそうになるのだ。

 身体の何かしら煩わしいもの、それどころか、穢れた「いやらしいもの」のように見做す昨今の風潮の極北というべきか、

 最近は音楽大学などの教育現場で、非常にやっかいな問題が生じているようである。

 タッチ厳禁、レッスンで学生に触ってはいけないのである。

 もちろん音楽とは何の関係もないセクハラなど論外であるが、これでは何も教えられないという嘆きを、多くの音大教師

 (男性女性の双方を含む)から頻繁に耳にする。

  言うまでもないが、身体が周囲に対して「警戒モード」に入っていると、絶対にいい音は出せない。身体が楽器に対して

 そして周囲にいる人たちに対して打ち解けて初めて、いい音楽は生まれる。心だけではだめ。身も心も開く。

 これが音楽の極意だ。教える側も教えられる側も互いへの身体的な警戒心を抱いている状況で、果たして実りのある

 音楽教育が成り立つのだろうか。

 身体を精神とのいびつな関係は現代社会の至るところで生じているわけだが、身体排除に伴う人間関係の非人間化は

 音楽教育にまで入り込み始めている。



        岡田 暁生 (音楽学者)
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