午前10時 昼夜の食事用に炊いたご飯をわっぱ弁当箱に詰める
いただいたタラコを軽く焼いてその上に乗せ沢庵を添える
卵焼きとジャガイモにんじんソテーとゴボウとサヤエンドウの胡麻和えをおかず入れに詰める
これを今日のお昼とする
普段はタラコを焼いたりはしないのに気がつくと焼いていたのは
子供の頃にタラコが食卓に出てくることは稀だったが
そういう時はたいてい焼いたタラコだったのを思い出したら
今日は父の命日だったのも思い出した 合掌
父は刺身が大好物で「新鮮な魚は刺身 それから焼き物 そして煮物」というのが口癖で
タラコもそのまま喰うほうが好きだったに違いないのだが
そういえば母が作る料理に父が文句を言ったのは記憶に無かったし
神経質な母がタラコをそのままではなくて焼いても何も言わなかったのは
そういう小さなことの積み重ねが家庭の平和を壊す元だと考えていたからだろう
世界を平和に保つ知恵とはそういうものなのかもしれない
父が養子だったことは以前にここでも書いたことだが
実は母も養子に貰われるはずだったのを免れたのを書くのは初めてかもしれない
母方の祖母は三姉妹でその姉のひとりが嫁いだ先が九州の小倉だか八幡だったかは忘れたが
とにかく子宝に恵まれなかった大伯母夫婦が幼い母を養子に欲しくて
祖母と大伯母との話し合いでその話は無くなったようだったが
あきらめ切れない大伯母は連れ合いが満州国で事業に成功したのを機に
母を呼び寄せて贅沢に暮らさせることで本人をその気にしようとしたらしいのは
子供の頃に母が満州時代の楽しさを話し聞かせる時の表情で良く判った
そのうち戦局が悪くなり大伯母と母は本土に帰ったが
大伯父のほうはソ連軍が侵攻する寸前まで彼の地に居たようで
鍋の底の煤を顔に塗った真っ黒な顔で「やせ細って命からがら帰ってきた」のだと
その話も子供の頃に良く聞かされた話だった
結局母は養子になることは無かったけれど
私が3歳から6歳になるまで私たちといっしょに暮らしていたことを思い出せば
母と大伯母夫婦との縁は切れずにいたのだと言えるだろう
その頃の私は大伯母夫婦のことは「九州のじいちゃん」「九州のばあちゃん」と呼んでいて
恰幅の良かった祖母には似ていない細身の大伯母のことを不思議に思っていたが
それは身体が弱かったからだと気付くのは5歳の時に大伯母が亡くなった時だった
私は大伯父が大好きで良く煙草臭い彼の部屋に入り込み遊んでもらった
独り身となった大伯父の部屋にあるショートピースの紺色の箱で作ったコースターや鍋敷きや
プロレス好きな大伯父が買っていたプロレス雑誌を見るのが楽しみだった
少しづつ文字が読めるようになっていた私はプロレス雑誌を声を出して読んでいたが
読めない漢字があったので「じいちゃんなんて読むの?」と大伯父に聞いた
大伯父は「これは高千穂と読む」と教えてくれて「雲に聳える高千穂の〜♪」と歌った
白黒でぼやけた写真には丸くてずんぐりした男の人がこちらに向かって構えて写っていた
その新人プロレスラー高千穂明久はその後に全米で人気を博すグレートカブキとなる
若くしてアメリカに渡り激しい人種差別の中着実に力量を認められた高千穂だったがそのうち
鉄の爪フリッツ・フォン・エリックに認められ歌舞伎の隈取りメークと東洋の神秘性を武器に
ブルース・リー映画がもたらしたカンフーブームにも乗ってスターダムに登り詰めたのだが
人気絶頂の頃に呼び戻され日本でも人気が爆発したもののジャイアント馬場に冷遇された
それからいくつかの団体を経て新日本プロレスに出場するようになり伝説的な試合をする
残念ながら両者ともに大流血するその試合の映像は今のテレビでは放送出来ない
カブキの額の傷から血がピュッピュッと間欠泉のように吹き出すのが素晴らしいのだが
それも脇の筋肉を調整することでカブキ自らが吹き出させていたのだと知ったら
さらにプロの凄みを感じて震えた
今の大相撲にそういう凄みは感じない
流血沙汰は要らないが力士たちが格闘技の凄みが表現出来ないのならそれは・・・
プロ失格だ
馴れ合いは花相撲と「しょっきり」だけで充分だ・・・などと
いつものごとく小言幸兵衛は要らぬぼやきを口から吐き食後のコーヒーを淹れる
郵便局へ行き香典を送る
クシャミと咳が交互に出てとまらない
明日はもっと冷えるらしい