日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

加計学園獣医学部新設問題で私たちが不問に付した重要な論点

2017-08-05 | 社会 政治
 学校法人加計学園の愛媛県今治市での獣医学部新設にかかわる問題を検討していくとき、いったい何が問題なのか、何を俎上に載せないように、私たちは動き回っているのだろうか、それが私には気になって仕方がないのだ。私はこの問題を考えていく際に、何か釈然としない思いを抱き続けていた。感覚のズレといった次元以上の恐ろしさを感じるのだ。それはは何故なのか。第3次安倍改造内閣の発足に伴い、加計問題を巡る「疑惑」にどう向き合うかのマスコミの取材に対して、首相は疑惑解明に向けてもっと謙虚に、丁寧に説明責任を果たす云々と繰り返している。また新内閣の船出に際して県内のマスコミの取材に応じて、愛媛県の中村知事は、県と今治市(あくまでも県民や市民のすべてが支持しているわけではないことを銘記しておく必要がある)は加計学園獣医学部新設を一貫して、国や政府に対してお願いしてきたので、政府はより丁寧に説明してほしいと主張していた。
 ところで、「疑惑」とは何だろうか。簡単に言えば、新設を巡る手続きの妥当性の有無、証拠資料の改ざんや黒塗り文書、首相の「意向」や「忖度」の有無、あるいは言った言わなかった等々に関係したそれである。果たしてこれらの問題が加計学園の学部新設に関した疑惑なのだろうか。私たち国民にとって、こうした疑惑の解明は本当に必要なのだろうか。疑惑の究明や解明という名のもとに、私たちが俎上に載せなければならない問題が視野の外に置かれてしまう危険性はないのだろうか。こうした点を鑑みるときに、私たちが参考にしたい発言がある。それは新内閣発足以前の7月25日の閉会中審査での民進党の桜井充議員の発言である。同氏は次のような内容の話をしていた。すなわち、今治市は96億円もの公金を投入するにもかかわらず、年3000万円の増収しか見込めず、その反面、投資資金の回収に320年を要する、と。氏の発言で私にとって見逃せない、看過できないと思われたのは以下のような言及であった。行政が不当に捻じ曲げられて、そうした結果となったのだ。行政がゆがめられていなければ、手続きが正当であったのならば、私は金額にとやかくは言わないし、問題はないと考える、と。
 私はこの物言いが気になっていた。何か釈然としない、異常さ、異様さを感じざるを得なかった。そしてほどなく加計問題の疑惑追及の背後に、もっと恐ろしいものを見つけ出したのだ。いくら説明を丁寧にしても、行政的手続きがたとえ正当なものであれ、地方の愛媛県の小さな「都市」の、赤字財政に苦しむ今治市がこれほどの公金を「一私企業」に融資する(いや、正確に言うならば、吸い尽くされる)のはおかしいし、あってはならないのではないか。何故こうした事態を私たちは許してしまうのか。国会審議や国会議員は何を守るために、何を許さないためにあるのだろうか。私たちは本来なら、こうしたやり方の異様さ、異常さこそを糾弾すべきではなかったのか。それが念頭に浮かばないのは、私たち自身がこうした赤字(それはお金だけではない。多種多様の不合理かつ不条理な境遇や環境も含んでいる。)を抱える者に、さらに借金を負わさせ、そこからさらに利潤、利ザヤを稼ぐ社会に生きていることから、またそうした関係を当然としてきたことから、そうした問題の異様さ、異常さと真正面から向き合わない、向き合えないのである。(私たちは、多国籍企業が世界のここかしこで貧しい国とそこに生きる人々の命と暮らしを脅かし、奪い尽くしてきた歴史を周知のこととしている。私たちはそうした事態を仕方のない、抗えないこととして、等閑視してきた。)国際関係における豊かな国と貧しい国との「帝国主義」関係が、形を変えて愛媛の今治に再現されようとしている。既に、愛媛県は伊方原発という「不良債権」を抱え、愛媛県民の命と暮らしの安全が保障、確保されにくい状態に置かれていることと併せて考えれば、中央(先進国・文明)と地方(後進国・野蛮)の支配と従属、差別と排除の関係が髣髴とされるのではあるまいか。
 「官」から「民」へとの大合唱で小泉郵政民営化改革が実現された。今回も行政の硬い岩盤に穴をこじ開けて新設にこぎつけようとしている。何故、「官(公)」から「民」へと活力を取り戻す動きを推進する民営化、規制廃止推進論者が、これほど臆面もなく、公金(税金)だけは手放そうとしないのか。加計学園が自分のお金でやるのなら何の文句もないし、またそれこそが「官」から「民」への構造改革ではないのか。弱者には「自己責任」を押し付けるのならば、加計学園も自己責任の原理原則の下、自力で、自前で、学部新設に努めるべきではないか。疑惑とか疑惑解明という物言いに、私たちは騙されてはならない。と同時に、私たちも、自分たちより弱い立場にある者をないがしろにしてきた自らの歩みを猛省すべきではないか。(先ごろの都議会選挙で、どれだけの候補者が福島原発事故で苦しむ福島の人たちに思いを馳せる選挙公約を構想しただろうか。)「僕(私)が僕(私)であるために勝ち(負け)続けなきゃならない」生き方から、「僕(私)が僕(私)であるために譲り合い、支え合い、助け合わなきゃならない」生き方に、替えていかない限り、私たちはいつもお茶を濁すだけの、その場その場のご都合主義の政治を自らが担わざるを得ないのは確かなことだ。:

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