日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

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「あちら側」の「あちらの世界」と「こちら側」の「こちらの世界」

2017-07-12 | 社会 政治
「あちら側」の「あちらの世界」と「こちら側」の「こちらの世界」

 前回も述べたが、いつもながら私の物言いは上から目線で、恥ずかしいくらいの傲慢な独りよがりのそれである。本当に何様かとなるが、もしこの記事を読んでくれる読者がいたら、あなたと一緒に書いている、あなたの代理人として語っているとの私の気持ちを少しでも感じてくれることを願うまでだ。

 昨日(2017年7月11日火曜日)のこと、地元の愛媛新聞の読者欄「声」に、兼近奈津子(61)「精神障害者バス割引 署名を」の記事が載っていた。愛媛県だけ、精神障碍者の路線バス利用の割引がないとのこと、身体、知的障害者の割引は認められているのに、精神障害者にも割引を認めてほしい旨の署名を集めているとのことであった。すぐ新聞社(電話089-935-2033)に連絡して兼近さんとの連絡をとれるように私の連絡先(080-6397-8047)を教えてお願いしたところ、兼近さんから連絡をいただいた。お話を伺うと、署名活動に至るまでに、県の関係機関やバス事業者とのやり取りで相当にお疲れであったと推察された。
 以前の私なら、たとえ読んで共感したとしてもそこまでのことはしなかったであろう。やはり私も他人事とは思えなかったからである。署名用紙を近日中に送ってくれるとのことで、まずは読者の方にもご協力をと思い付記した次第である。もちろん無理は禁物。
 誤解のないように一言。何も路線バス利用の割引を声高に要求しているのではない。障碍者間の扱いの違いを切り口として、障碍者の社会参加とか共生社会とかの掛け声だけに終わってしまいがちの私たちの感覚を問い直すことを主眼としているものと、私は理解した。
 幸い私は視覚障碍者の集まりと沖縄辺野古と福島をつなぐ会に参加するので、そこで署名を集めようと考えている。不思議である。こうした署名活動を介して、いろいろな人々に出会い、今まで以上に相手の姿を感じようと思うのだから。以前の私は決してできなかった。こうしたことから、「バリア・フリー党」何とかにつながればいいかもしれない。とにかくゆっくり、ゆっくり。ただし、署名は7月末(29日)が期限とのこと。少し焦らないといけないが。
 今回はここまでが一番大事なこと。後はいつもの御託というか付録だから。

 おかしなことを感じている。「あちら側」と「こちら側」、と言っても、こちら側はまだ意識の、空想のレベルだが。
 あちら側にはディズニ―ランドを手始めに、映画あり、歌ありでAKBから多種多様の面白い娯楽がある。
 あちら側には自民党から共産党と幅広く思える政治集団が存在している。
 あちら側には経営者と労働者の国内、国際的団体、それこそ国連やその他の付属機関、世界的多国籍企業が活動している。
 あちら側には有名な教機関があり、そこで研究する学者が有意義だとされる研究業績を生み出し、世界的な貢献をしていると宣伝されている。

 このように、少しだけ思いつくままに列挙してみても、あちら側にはすべてのものがそろっている。こちら側など必要ないかのように、こちら側といった考えや方向性を模索する者たちを憫笑さえしている。
 そもそもあちら側には、こちら側を代弁してくれる、演じてくれるそうした役割を担う機関やそれに従事する人たちが大勢いるのも確かである。
 こちら側とか、こちらの世界など、どんな意味があるのか。障碍者だけで、力のない、カネのない者たちだけで一体何ができようか。あちら側のあちらの世界の衣食住のネットワークの中で生きているのに、何がこちら側のこちらの世界か。アホか、阿かとの声が聞こえてくる。

 それは確かにそうだが、やはりこちら側のこちらの世界を空想することは、そうした空想できる空間を残しておくことはとても大事だと思うようになった。そうした空想ができなくなる時、上述した思考の反復しかできないことになる。結局それで終わってしまう。

 これまでの私は、あちら側のあちらの世界で、こちら側のこちらの世界を何とか創りだせないかと考えてきた。その際、いつもあちら側の衣食住のネットワーク云々を考え、自分の思考を自分で遠慮がちに自己規制していたことに気がついた。そこには長い間、システム云々で世界を考えてきたことも大きく関わっていたと思うのだが。

 私は簡単にあちら側のあちらの世界というが、そこにほとんどすべてのものが組み込まれているというが、健常者はともかく、そこで自分自身で生活できないものは、あちら側のあちらの世界の中で、どのような思いで生きているのかということに、どれほど私は考えを及ぼしてきただろうか。
 私はこれまで沖縄や福島を語ってきたが、どこまでそこで長く苦しい、やりきない思いで、無力感や絶望感にさいなむ人々をはっきりと目の前に浮かび上がらせながら、果たして論じてきただろうか。
 正直なところ、それはできなかったし、いまもそれほど変わっているとも思えない。いつももあちら側の世界の生き方を前提にしながら、それでも何とか沖縄や福島の人たちの抱える苦しみに表面では、うわべでは共感しているとの自分自身の勝手な思い込みの下で、沖縄や福島の、こちら側の世界で生きたいとの思いを無視し、理解しようともしなかった。以前の私にはそれ以上できなかったのである。
 そこには、システムを批判しながらも、システムに逆らえない、そうしても結局ダメなんだと、それゆえ、それを認めながらも、それでもシステムの中で苦しみもがく人たちに私ができることは協力したいとうわべを装っていたことに、いまさらながら気が付くのである。
 システムが提供するあちら側の世界のあちら側の生き方に真っ向から向き合い、戦う人々の気持ちに私は寄り添えなかった。沖縄や福島で戦い続ける人たちは、あちら側のあちらの世界の生き方とは異なる生き方を求めているのだが、それに気が付かないのである。これは学校にいけない、職場に行けない外に出られない引きこもりの人たちが、あちら側の生き方ではない別の生き方を求めている姿と重なるのではないか。
 しかし、あちら側の世界に生きるものが大多数の社会においては、結局は自分たちの生き方と仕組みを彼らに押し付けることになってしまうし、そうした押し付けを押しつけとは全く感じないのである。逆に言えば、大多数の者も押し付けられているのだが、彼らはなんとか我慢して生きてこれたのだろう。現実にそれができない人たちはどうすればいいのか。あちら側の理解者、支援者の助けを借りながらの、やはりこちら側のこちらの世界を、共同体を何十年、何百年かけても創り出すことが大事ではないか。少しまた元気が出てきた。
それにしても64歳を迎える私は20代や10代の若者と比べてもなお穴が青く、愚かで夢ばかりを語るアホ、阿呆であるが、とても生き生きとした自分を感じている。強がりかな。あはは、あはは、あはははははは、笑いの三三七拍子をしんどい時に繰り返している。


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