日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

「あちら側」の「あちらの世界」と「こちら側」の「こちらの世界(4)

2017-07-15 | 社会 政治
「あちら側」の「あちらの世界」と「こちら側」の「こちらの世界(4)

 あちら側のの世界には、日本国憲法とそれが体現する普遍主義がこちら側のこちらの世界を創ろうとする人たちと彼らの運動の大きなバリアを形成している。本来なら、こちら側のこちらの世界に集い、連帯しながら暮らすはずの多くの者をつなぎとめる理念的武器となっている。あちら側のあちらの世界は「金の成る木」のシステムが有効に機能している。
 あちら側のあちらの世界では、その内部でもめごとがあろうとも、簡単には解体しない。逆にこちら側のこちらの世界は、こちらの世界づくりの運動の入り口にも差し掛からないうちに、ああだこうだと、つまらない論争を繰り返し、運動自体も離合集散を繰り返しながら、以前と比べて小さくなるのが落ちである。こちら側には、金の成る木」は影も形もなく、またこちら側の金の成るる木を作ろうともせず、ただ頭の世界でどちらが優れた理屈、理論であるかの戦いを続けるだけなのだ。
 誤解のないように言うのだが、理屈は大事だから、こちら側の理屈をつくっておく必要がある。しかしこれは相当に厄介だ。絶望的だ。話の関連で前回の図式をもう一度ここに示しておく。
 
〈 健常者の人権→(×)障碍者の人権→×原発労働者の人権 〉
〈 原発労働者の人権→(×)障碍者の人権→見城署の人権  〉
 (共時態モデル、下の図式は逆から見た関係を示している)

 私たちはすぐ上の関係モデルで描かれる人権のバリアを前提としながら、日常生活を送っている。システム人として生活している。日本国憲法は、この図式で示した差別と排除のバリア関係を是正するのではなく、この関係を逆に固定化させている。ところが、多くの者はむしろ、こうした私の見方に異論をはさむに違いない。護憲派はとくに。彼らは、人は生まれながらに平等であり、法の前に平等云々の理念から学習し始める。あるいはそうでなければいけないんだと、と世界の不正をただそうとする。
 そのくせ、誰もが薄々はわかっている。現実はそうならないと。だから現実をこうした理念で理念を武器に変革しなければと。その際、その理念は、私たち人類のどのような歩みの中で構想されたのか、打ち出されたかまでは、考えない。
 先の人権の関係を前提として、常識として生きている、生きていかざるを得ない人間集団がつくり出したとすれば、いくら人間は生まれながらに平等云々と語っても、どうにもならないではないか。どうにもならないことを承知で、私たちはそれでもいい、仕方ない、それでも運動は続けないといけないと考えてきたのだ。(民主主義の永続革命論もそうした発想の一つだ。)現実はそう簡単に変えられるものではない。理念の実現には時間がかかると。
 しかし、いくら理念の実現が見られたとしても、先の人権の差別と排除のバリア関係は変えられない。永遠にこの関係は続いている。なぜなのか。出発点からおかしいからだ。市民革命に端を発する人権思想とその実現を前提とした理想をいくら語っても、システムのあちら側のあちらの世界の歩みに役立つだけである。
 従来の人権の抱える差別と排除のバリア関係を「フリー」にしていくバリア・フリーの人権観念を構想していく必要がある。
 個の尊重とか、個人の確立が、もし上で紹介した健常者、障碍者、原発労働者の人権関係を前提としながら、実現されても何ら問題はない、素晴らしいとされたら、社会における個とか個人の尊重は、ひとまずは健常者の誰かに優先順位が与えられるのではあるまいか。健常者を文明先進国に、障碍者を半開中進国に、原発労働者を野蛮後進国に、それぞれ置き換えた場合、市民革命の母国とされる諸国が一番うまく立ち振る舞ったということになる。
 何度も拙論で指摘したように、その母国は覇権国か大国であったことを明記しておかねばならない。覇権国、覇権システムと市民革命、普遍的人権の関係を当然ながら結び付けて考察しなければならない。そうした作業もしないで、ただ民主主義の永続革命云々だけでは、その「永続」が歴史のどの舞台で行われていくのかさえ問えないことになる。

 健常者も障碍者も原発労働者も人権関係において、差別や排除のバリア関係を許さないという条件で、新たな関係を構想しようとすれば、個の確立や個人の人格尊重云々でははじめから無理な相談となる。これら三者がそれこそ一堂に会しながら、それぞれを個人としてお互いが敬い認め合うためには、三者の共同体が、バリア・フリーの関係に位置づけられる、三者の共同体を創る必要がある。
 もしそうした共同体の一員だとすれば、原発労働者の絶えず被ばくにさらされた仕事、営業の自由は許されないとなるだろう。公共の福祉に反しなくとも、原発労働者の存在を許す公共とその福祉のおかしさ、異常さが追及されるに違いない。
 そこから原子力産業の存在とその背後でそれを推進する国家を、そうした国家権力を選挙で選ぶ形式的民主主義とそれを担う国民の存在に関しても、問い直す動きが生まれてくるに違いない。
 さらに、健常者とっ障碍者の関係にも従来とは異なる見方が生まれてくるかもしれない。両者の間にあるバリア関係について、健常者であれ障碍者であれ、こちら側のことらの世界の共同体の一員としての自覚から、これまで当然とみなしてきたお互いのバリア関係を、自らがお互いの立場に成り代わって生きる空間をつくれる可能性も高まる。こうした連鎖を導くためにも、やはり従来の近代憲法を基にした日本国憲法の人権観念は、新たな人権観念にすげ替えられる必要がある。

 だが、そうした営為をこれまでことごとく打ち砕いてきたのは護憲派とその運動だったのだ。社会党や共産党の存在は、私の説くバリア・フリー党のまさにバリアとして脅威たる存在だ。広瀬隆さんの反原発運動を妨害している、と私は考える。しかし護憲派の中にはそれを理解できない人たちが多いのだ。

 同時に、小出裕章さんの反原発運動は、小出さんの護憲派との共闘で、広瀬さんらの運動と一枚岩の関係を作れないと、私は見ているのだ。小出さん自身も差別の上に立ってりいる原発をなくす上で、日本国憲法を持ち出す。昔から、反原発や平和運動は一枚岩の運動にならなかった。「平和」といっても、先の図式の人権のバリア関係を前提としたものもあれば、それを変えたいと願う平和があり、両者は激しく対立、敵対し、ぶつかってきた。両者の間にもかなりのバリアが存在している。
 こうした話を一応頭に入れて、それがどれだけ困難な作業かを以下でもう少し考えてみたい。「ユーチューブ」の動画で「安倍辞めろデモ」を見ていて前回の記事で書いた護憲派のことを思い出した。デモ参加者が「安倍辞めろ」「戦争反対」云々と叫ぶ中で、「憲法守れ」の掛け声に少し戸惑いを覚える私がいた。
 そんなことは言わないで、ただ安倍辞めろだけでいいのに、と。憲法を守れという意味がどういうものなのかを、わかって叫んでいるのだろうか。この先を想像するとまた憂鬱になる。もちろん、それはそれでいい。小異を捨てて大同につくのが大事。しかし、それは簡単に横において大同に付ける小異ではない。それどころか大きな大きな大事な問題である。
 なんだか、疲れてきたが、最後に、既成政党は、私の見る限り、口では反原発とか脱原発と叫ぶが、広瀬さんや小出さんを心底支えているようには見えない。原発関係の労働者は、それこそ電力会社だけでなく多くの企業が関係している。多くの労働者の生活の糧はそうした企業の連合体に依存している。そうした労働者の支持に依拠する革新政党が本気で広瀬さんや小出さんを応援するのは難しい。
 私が原発労働者というとき、当然ながらそうした大企業や力のある企業に勤める労働者ではない。むしろそうした企業が下請けで雇用する原発作業員をさしている。彼らはそれこそ電力会社の正規の労働者が危険で立ち入らない、被爆の危険にさらされる労働者である。下請けの構造は10次にもなると、また最低賃金以下で働く労働者もいるとのことである。労働者間にも人権の差別と排除のバリア関係が張り巡らされている。
 真面目に少しでも考えれば、こうした関係を今も放置している私が、やれ差別はいけない、分かち合い、共生社会だ、人権は尊いと訴えてみても、むなしいだけだろう。
 だからこそ、逆に言いたいのだ。憲法を守らないから、こうした原発労働者が生み出されるのか、と。憲法を守るとは一体どういうことなのか。
 何かここにきて、また振出しに戻ってしまった感が強いが、中途障碍者となった私は今までとはやはり異なる。どうしても従来の普遍主義に取って代るバリア・フリー思想を練り上げていきたい。
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