諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

竹駒神社は勘違いで放火されたのでは!?

2014年10月31日 09時34分32秒 | 神道

ちょっと質問なんですが、こんなブログを読んで頂いている奇特な皆さんは、日本三大稲荷ってご存知でしょうか。

そうです。京都の伏見稲荷、愛知県の豊川稲荷、そして我が宮城県岩沼市に鎮座する竹駒神社
です。皆さん、良くご存知ですね、素晴らしい、パチパチパチパチ・・・・・・・って書くと「違うだろ、何だその竹駒神社って」と思う人も大勢いると思います。

「茨城県の笠間稲荷だわい」、「岡山県の最上稲荷ですたい(岡山弁知りません)」と言う人もいるかと思いますが、仙台、いや東北では日本三大稲荷といえば間違いなく竹駒神社と答えます。竹駒神社と言い張ります。それだけ竹駒神社はメジャーなお稲荷さんです。

何たって正月の初詣客数では、東北で奥州一ノ宮・塩竈神社に次いで2位です(もしかしたら大崎八幡宮かも)。年間の参拝客は160万人と言われています。もの凄い信仰を集めているお稲荷さんなのです。

ちょっと小耳に挟んだのですが、近隣の弁才天・水速女命を祀る金蛇水神社と何かしら関連があると聞いています。

そして岩切に鎮座する伊豆佐比売神社の狐様も竹駒神社まで通っていたと言う伝説があります。伊豆佐比売神社と関連があるなら大変怖い面があるのかも知れません。

お稲荷さんだし怖いのは当然だと思いますが、それゆえご利益は抜群なのでしょう。だから東北でトップクラスの信仰を集めているのだと思いますね。


竹駒神社も宮城県の海岸部地に見られる三角の扁額が掲げられています。3.11の東日本大震災で宮城県沿岸は大津波に襲われましたが、何故か三角の扁額の神社は津波の被害を逃れています。

通常の三角の扁額の神社は高台にあり、それで津波の直撃を免れているケースが殆どですが、竹駒神社は平地です。岩沼市の中心部にあります。海からかなり離れた場所に鎮座していたのですが、津波は竹駒神社まで迫りギリギリで止まりました。

三角の扁額を掲げている神社で一社だけ津波が直撃した社がありましたが、元々鎮座していた場所から移されている事が判っています。

この三角の扁額ですが「津波が来たら、ここまで逃げろ」と言う、昔の人の有り難いメッセージだったのではないでしょうか。

もしそうなら忘れ去られた事は大変残念です。昔の人は大津波を伝える為に警鐘を鳴らしていたのだと思いますね。

さて、お稲荷さんは一度でも参拝して他の神様の神社に参拝に行ったりしたら、大変お怒りになり祟りを起こす神様と言われてます。八百万の神の中でも大変怖い神様なのは間違いないです。

その竹駒神社ですが平成2年の11月に放火される事件がありました。何と本殿が放火され消失したんです。全焼です。これには驚きました。お稲荷さんの神社を放火する者がいたとは。こんな恐ろしい事をする者がいるとは・・・・・・・・。

昔、金閣寺を放火した若い坊さんがしましたが、私にとって竹駒神社の放火はそれ以上のインパクトです。東北最大のお稲荷さんの社を放火するとは恐ろし過ぎです。何を考えているのか。神をも恐れぬ不届き者とはこの事だと思います。

放火した者は過激派です。新左翼の革労協が犯行声明を出しました。今上天皇の皇位継承に伴う大新嘗の関連儀式に反対しての行為です。「天皇家にまつわる諸施設は徹底的に破壊されて当然」との犯行声明を読み上げてます。

1990年は竹駒神社のみならず、東京都の白鬚神社、氷川神社、神明神社も時限発火装置で全焼させられたそうです。そして1993年も京都の清蓮院、仁和寺、三千院、田中神社も放火され全焼しています。とんでもない行為だと思いますね。

当時、私は東京で働いていましたが、この犯行声明文を聞いて大変危惧しました。そして思いました。これは神道の知識が無い者の犯行だと。そして神道の知識を身に付けたら、更に大変な事になると。

竹駒神社や白鬚神社、氷川神社は天皇家と大した関連なんかありません。あるのは天皇家のご先祖の神々を祀っている神社です。

その事、犯行グループは知らなかった。知っていたら竹駒神社等々へは放火しなかった。勘違いで放火したのではと思えます。

この事に気付いた者が私以外にもいます。私の友人の禰宜です。彼の神社は天皇家の始祖神を祀っています。それも宮城県内では大きい方の社です。

もし天皇家と友人の神社の関連が犯行グループに知れたら、同じ宮城県内の竹駒神社ではなく、友人の神社がターゲットになるかも知れない。

友人もそう思ったらしく茫然自失に。そして夜な夜な自分の神社を長い期間パトロールしていたそうです。放火されてはたまりませんからね。

火災保険には入っていたでしょうけど、そんな問題ではないです。神社の尊厳に関わります。絶対放火は阻止せねばならん。それも神職の絶対的な勤めです。決死の思いでパトロールしていたとの事です。

それにしても天皇家に異を唱えて神社仏閣を放火するなんて卑劣です。こんな罰当たり行為をするなんて。

天皇家に文句があるなら、神社仏閣を燃やさず自分の身でを燃やし抗議しろと言いたいです。

これは或る意味、日本への侵略行為なのでしょうけど、やる事が卑劣だと思います。ふざけ過ぎだと思いましたね。


ではでは。










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真善美の探究【真善美育維】 (阿頼耶識)
2014-11-02 00:11:31
【真理と自然観】

《真理》

結論から言って, 真偽は人様々ではない。これは誰一人抗うことの出来ない真理によって保たれる。

“ある時, 何の脈絡もなく私は次のように友人に尋ねた。歪みなき真理は何処にあるのか, と。すると友人は, 何の躊躇もなく私の背後を指差したのである。”

私の背後には『空』があった。空とは雲が浮かぶ空ではないし, 単純にからっぽという意味でもない。私という意識, 世界という感覚そのものの原因のことである。この時, 我々は『空・から』という言葉によって人様々な真偽を超えた歪みなき真実を把握したのである。我々の世界は質感。また質感の変化からその裏側に真の形があることを理解した。そして我々はこの世界の何処にも居らず, この世界・感覚・魂の納められた躰, この意識の裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。



《志向性》

目的は何らかの経験により得た感覚を何らかの手段をもって再び具現すること。感覚的目的地と経路, それを具現する手段を合わせた感覚の再具現という方向。志向性とは或感覚を具現する場合の方向付けとなる原因・因子が具現する能力と可能性を与える機構, 手段によって, 再具現可能性という方向性を得たものである。

『意識中の対象の変化によって複数の志向性が観測されるということは, 表象下に複数の因子が存在するということである。』

『因子は経験により蓄積され, 記憶の記録機構の確立された時点を起源として意識に影響を及ぼして来た。(志向性の作用)』

我々の志向は再具現の機構としての躰に対応し, 再具現可能性を持つことが可能な場合にのみこれを因子と呼ぶ。躰に対応しなくなった志向は機構の変化とともに廃れた因子である。志向が躰に対応している場合でもその具現の条件となる感覚的対象がない場合これを生じない。但し意識を介さず機構(思考の「考, 判断」に関する部分)に直接作用する物が存在する可能性がある。



《思考》

『思考は表象である思と判断機構の象である考(理性)の部分により象造られている。』

思考〔分解〕→思(表象), 考(判断機能)

『考えていても表面にそれが現れるとは限らない。→思考の領域は考の領域に含まれている。思考<考』

『言葉は思考の領域に対応しなければ意味がない。→言葉で表すことが出来るのは思考可能な領域のみである。』

考, 判断(理性)の機能によって複数の中から具現可能な志向が選択される。


《生命観》
『感覚器官があり連続して意識があるだけでは生命であるとは言えない。』

『再具現性を与える機構としての己と具現を方向付ける志向としての自。この双方の発展こそ生命の本質である。』


生命は過去の意識の有り様を何らかの形(物)として保存する記録機構を持ち, これにより生じた創造因を具現する手段としての肉体・機構を同時に持つ。

生命は志向性・再具現可能性を持つ存在である。意識の有り様が記録され具現する繰り返しの中で新しいものに志向が代わり, その志向が作用して具現機構としての肉体に変化を生じる。この為, 廃れる志向が生じる。


*己と自の発展
己は具現機構としての躰。自は記録としてある因子・志向。

己と自の発展とは, 躰(機構)と志向の相互発展である。志向性が作用した然としてある意識(現象)から新しい志向が生み出され, その志向が具現機構である肉体と意識に連動して作用する。生命は然の理に屈する存在ではなくその志向により肉体を変化させ, 然としてある意識, 世界を変革する存在である。

『志向(作用)→肉体・機構』



然の理・然性
自己, 志向性を除く諸法則。志向性を加えて自然法則になる。

然の理・然性(第1法則)
然性→志向性(第2法則)



【世界創造の真実】

世界が存在するという認識があるとき, 認識している主体として自分の存在を認識する。だから自我は客体認識の反射作用としてある。これは逆ではない。しかし人々はしばしばこれを逆に錯覚する。すなわち自分がまずあってそれが世界を認識しているのだと。なおかつ自身が存在しているという認識についてそれを懐疑することはなく無条件に肯定する。これは神と人に共通する倒錯でもある。それゆえ彼らは永遠に惑う存在, 決して全知足りえぬ存在と呼ばれる。

しかし実際には自分は世界の切り離し難い一部分としてある。だから本来これを別々のものとみなすことはありえない。いや, そもそも認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう?

言葉は名前をつけることで世界を便宜的に区分し, 分節することができる。あれは空, それは山, これは自分。しかして空というものはない。空と名付けられた特徴の類似した集合がある。山というものはない。山と名付けられた類似した特徴の集合がある。自分というものはない。自分と名付けられ, 名付けられたそれに自身が存在するという錯覚が生じるだけのことである。

これらはすべて同じものが言葉によって切り離され分節されることで互いを別別のものとみなしうる認識の状態に置かれているだけのことである。

例えて言えば, それは鏡に自らの姿を写した者が鏡に写った鏡像を世界という存在だと信じこむに等しい。それゆえ言葉は, 自我と世界の境界を仮初に立て分ける鏡に例えられる。そして鏡を通じて世界を認識している我々が, その世界が私たちの生命そのものの象であるという理解に至ることは難い。鏡を見つめる自身と鏡の中の象が別々のものではなく, 同じものなのだという認識に至ることはほとんど起きない。なぜなら私たちは鏡の存在に自覚なくただ目の前にある象を見つめる者だからである。

そのように私たちは, 言葉の存在に無自覚なのである。言葉によって名付けられた何かに自身とは別の存在性を錯覚し続け, その錯覚に基づいて自我を盲信し続ける。だから言葉によって名前を付けられるものは全て存在しているはずだと考える。

愛, 善, 白, 憎しみ, 悪, 黒。そんなものはどこにも存在していない。神, 霊, 悪魔, 人。そのような名称に対応する実在はない。それらはただ言葉としてだけあるもの, 言葉によって仮初に存在を錯覚しうるだけのもの。私たちの認識表象作用の上でのみ存在を語りうるものでしかない。

私たちの認識は, 本来唯一不二の存在である世界に対しこうした言葉の上で無限の区別分割を行い, 逆に存在しないものに名称を与えることで存在しているとされるものとの境界を打ち壊し, よって完全に倒錯した世界観を創り上げる。これこそが神の世界創造の真実である。

しかし真実は, 根源的無知に伴う妄想ゆえに生じている, 完全に誤てる認識であるに過ぎない。だから万物の創造者に対してはこう言ってやるだけで十分である。

「お前が世界を創造したのなら, 何者がお前を創造した?」

同様に同じ根源的無知を抱える人間, すなわち自分自身に向かってこのように問わねばならない。

「お前が世界を認識出来るというなら, 何者がお前を認識しているのか?」

神が誰によっても創られていないのなら, 世界もまた神に拠って創られたものではなく, 互いに創られたものでないなら, これは別のものではなく同じものであり, 各々の存在性は虚妄であるに違いない。

あなたを認識している何者かの実在を証明できないなら, あなたが世界を認識しているという証明も出来ず, 互いに認識が正しいということを証明できないなら, 互いの区分は不毛であり虚妄であり, つまり別のものではなく同じものなのであり, であるならいかなる認識にも根源的真実はなく, ただ世界の一切が分かちがたく不二なのであろうという推論のみをなしうる。



【真善美】

真は空(真の形・物)と質(不可分の質, 側面・性質), 然性(第1法則)と志向性(第2法則)の理解により齎される。真理と自然を理解することにより言葉を通じて様々なものの存在可能性を理解し, その様々な原因との関わりの中で積極的に新たな志向性を獲得してゆく生命の在り方。真の在り方であり, 自己の発展とその理解。


善は社会性である。直生命(個別性), 対生命(人間性), 従生命(組織性)により構成される。三命其々には欠点がある。直にはぶつかり合う対立。対には干渉のし難さから来る閉塞。従には自分の世を存続しようとする為の硬直化。これら三命が同時に認識上に有ることにより互いが欠点を補う。

△→対・人間性→(尊重)→直・個別性→(牽引)→従・組織性→(進展)→△(前に戻る)

千差万別。命あるゆえの傷みを理解し各々の在り方を尊重して独悪を克服し, 尊重から来る自己の閉塞を理解して組織(なすべき方向)に従いこれを克服する。個は組織の頂点に驕り執着することなく状況によっては退き, 適した人間に委せて硬直化を克服する。生命理想を貫徹する生命の在り方。


美は活活とした生命の在り方。

『認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう? 』

予知の悪魔(完全な認識をもった生命)を否定して認識の曖昧さを認め, それを物事が決定する一要素と捉えることで志向の自由の幅を広げる。予知の悪魔に囚われて自分の願望を諦めることなく認識と相互してこれを成し遂げようとする生命の在り方。



《抑止力, 育維》

【育】とは或技能に於て仲間を自分たちと同じ程度にまで育成する。または, その技能的な程度の差が縮まる様な決まり等を作り集団に於て一体感を持たせること。育はたんなる技能的な生育ではなく社会が優秀劣等という概念, 価値を乗り越え個人が人間的対等を認め合うこと, すなわち愛育である。


【維】とは生存維持。優れた個の犠牲が組織の発展に必要だからといっても, その人が生を繋いで行かなければ社会の体制自体が維持できない。移籍や移民ではその集団のもつ固有の理念が守られないからである。組織に於て使用価値のある個を酷使し生を磨り減らすのではなく人の生存という価値を尊重しまたその機会を与えなければならない。

真善美は生命哲学を基盤とした個人の進化と生産性の向上を目的としたが, 育と維はその最大の矛盾たる弱者を救済することを最高の目的とする。



私には難しい分野の様ですが・・・・。 (綱永井寵生)
2014-11-03 00:09:48
阿瀬耶識さんへ

初コメント有難う御座います。
他の方のブログでも同じ内容の文章をコメントしていましたね。

コメントを2度ほど読みました。スピリチュアルな内容と認識しますが、私の現在の知識と読解力では中々実感するのは難しいなぁーと思いました。

私は〇から100ではなく、マイナスから0を目指す人生を送っていますので、阿瀬耶識さんの考えまで到達するのは大変時間が掛かりそうです。

時間を頂いて更に読み深めて、自分の人生に応用出来る点は阿瀬耶識さんの考えを参考にしたいと思います。

有難う御座いました。

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