南の島移住記

フレンチポリネシア(通称タヒチ)のランギロア島に移住するまで・・・毎月20日(日本時間21日)更新です

第9回 タヒチ流? フランス流?

2012-05-20 08:14:39 | 移住記


この移住記も今回で9回目となった。

10年前に依頼を受けて書いた連載は、ランギロアでの生活の中で
受けたカルチャーショックや暮らしぶりについて
テーマを決めてつづり、第22回で終了となった。

そろそろこの移住記も締めくくりに入ろうかと
迷っていたのだが、10年前に自分が感じたり体験した
あれこれも、読み返していると興味深いので
少しの間ここに掲載しようと思う。


:::::

真珠養殖の仕事にもどうにかこうにか慣れ、
ここでの毎日がおだやかな日常生活の顔を持ちはじめる頃、
島の人々との交流もはじまっていた。

そんな中で感じた、いわゆるカルチャーショックについて、
いくつか書いてみたい。

大家族で暮らしている人が多いタヒチ。
タヒチ本島では、ずいぶん都市化が進んで事情が変わってきたが、
ここトゥアモトゥ諸島では、親子はもちろん孫、兄弟姉妹、
遠い親戚までがひとつ屋根の下に暮らしていたりする。

家の建物自体も、暑いところなので風通しがいいようにと
いうもあるのだろうけれど、いつでもオープン。
ドアも窓もいつでも開いていて、夜になっても閉めないのじゃないかと
思うくらい。

道路から家の中が丸見えで、玄関の横に置いた椅子に
おじいちゃんが腰かけて、日がな一日涼しい風にあたり、
奥の部屋ではマットレスが直接床に置かれ、人が寝ていたり。
家の外では、小学生くらいの子どもたちが
よちよち歩きの赤ちゃんと遊んでいる。

こんな風景が随所で見られるこの島では、
自分の持ち物と他人の持ち物の区別があまりない。
きみのものはぼくのもの。
そんな勝手な、と言いたくなるが、その逆もしかり。
ぼくのものもきみのもの、なのだ。
モノに乏しい離島なのに、いや、だからこそなのか、
人々はあまりモノに執着せずにみんなで共有しあっている。

そんなところへ私たちのような都会人が来ると、どうなるか。

会社の同じ敷地内に、タヒチアンの夫婦が引っ越してきた。
「扇風機を貸してくれない?」と頼まれたので、
越してきたばかりで物がそろっていないのだろうと気の毒に思い、貸した。
私たち日本人の一般的な感覚からすると、
「なるだけ早く自分のを買って、返さなくちゃ」と思うだろう。
しかし、いっこうにそんな気配はなく、どんどん時間がたった。

こちらも扇風機がどうしても必要になり、
「返してくれる?」と催促して返してもらったのだが、
あのまま何も言わなかったら、あの扇風機は、
彼らの家でこわれて動かなくなるまで使われていただろうと思う。

似たようなことが何度か、相手が変わっても続いたので、
「あげてもいい」「なくなってもいい」と思うもの以外は、
貸さないことにした。
「貸して?」は「ちょうだい」と同義語なのだと解釈することにした。

またこれは私が体験したことではなく、友人(日本人)から
聞いた話なのだが、タヒチ女性と部屋をシェアして住んでいたら、
冷蔵庫の中の彼女の食べ物を何も言わずに食べたり、
クローゼットの中の彼女の服を着て出かけたり、
はては彼女のサイフの中身まで使っていたのだそうだ。

友人がそのことで文句を言うと、
本人は悪びれた様子もなく、「私のも使ってよぉ」と言うのだった。
そうだ、使っちゃいなよと私が言うと、
「でも彼女のサイフの中はいつもほとんど空なの」。

持てる者が持たざる者を助ける、という理念(?)なのだろうか、
確かに困ったときに、こちらの人は見返りを期待するでもなく、
とても親身になってくれるのだが・・・。

またあるとき。
「村でバル(ダンスパーティ)があるから、一緒に行こう、
7時に出発ね」と、これはフランス人の友人から誘われた。
7時に出発といわれれば、6時半ごろには準備を終えて、
10分前には友人宅(我が家と同じ敷地内にある)の周りをうろうろ。

しかし約束の7時になっても、誰も出てこない。
そのうち、ダンナのほうがシャワーを浴びている音が聞こえてきて、
奥さんのほうはまだ着替えてもいない・・・。
結局出発したのは8時近くだった。

レストランで待ち合わせしても、時間通りに来ないフランス人の
多いこと、多いこと。
それも10分や20分ではない。
もちろん時間にきっちりしたフランス人も知っているが、
今までのところ1人だけだ。

バースデーなどのホームパーティに呼ばれたりすると、もう大変。
言われた時間どおりに行くと誰も来ていない。
カナッペをつつきながらアペリティフを飲んでいると、
ちらほらとゲストがやってくる。
パーティが始まって、料理が運ばれてくる頃には、おつまみの食べすぎで
お腹はいっぱい。
アペリティフで酔いもかなり回っている。

席にはあらかじめ名札が置かれていて、座る場所が決まっている。
カップルは必ず遠く離れた席に引き離され、しかも別の異性の
となりになるよう、配慮されている。

まだあまり知り合いもいない席で、フランス語でよくわからない話をされて、
途中で帰るわけにもいかず、眠気とたたかいつつ、
前菜からメイン、デザートまでの長い道のりを耐えたのを、
昨日のことのように覚えている。

今では、ちょうどいい頃合いに出かけていって、デザートまで
食べられるよう食べる量を調節しつつ、
どうにかこうにか会話を楽しむ・・・くらいの技術(?)は
習得できたのではないかと、ひそかに自己満足している。


それにしても、他人の家に招待されてトイレを借りるのは
ご法度らしく、誰もトイレに行かないのにはびっくりする。
以上は、フランス式パーティでの話。

タヒチアン宅でのパーティは、またずいぶん様子が違う。
ほとんどの人が朝まで飲んで歌って踊るので、体力が勝負だ。
フランス式パーティでの忍耐とは別のエネルギーが要求される。

タヒチ式パーティのほうが気楽なのだが、最後までつきあえたためしがない。
もちろんこんなパーティを、みんながしょっちゅうやっているわけでは
ないので、念のため。

映画館も赤ちょうちんもない島だから、娯楽としてもとても大切なパーティ。
大勢で集まって飲み食いするパーティを、フェット(フランス語で
お祭りの意味)というのだが、フェットにアルコールはつきもの。
さすがにフランス領なので、ワインも登場するけれど、主流はビール。
タヒチのビール、ヒナノはもちろん、ハイネケンもみんな大好き。
フェットをやるというと、ぐわっと大量に買ってきて、
大きな冷凍庫(島では必需品)に入れて、冷やしている。

ビールの飲み方も、こちら流のスタイルがある。
キンキンに冷やしたやつを一気に喉に流し込んで、
「ぷはーっ」・・・
などという飲み方をしている人は、いない。

みんな基本的に、酒にあまり強くないせいもあるのだろうが、
1本のビールの小瓶を、ちびちびとやっている。
とっくに生ぬるくなっているに違いないのだが、
気にならないらしい。

夫がみんなの前で「ぷはーーっ」と日本流にやって、
瓶をからにしてしまうと、「もったいない」と言われたりする。
ぬるいビールをちびちびすする。これはいまだになじめないビールの飲み方だ。

:::::



これが10年前に私が書いた文章だ。
読み返しながら、自分でうんうんとうなづいたり、笑ったり。

あまり進歩をしていないなあ。

このあとも、貸したものが帰ってこない事件(?)は
何度もあった。ついつい貸してしまうのです、頼まれると。
いつのまにか、自分も人から借りて返していなかったりして。

『家の建物自体も、暑いところなので風通しがいいようにと
いうもあるのだろうけれど、いつでもオープン。
ドアも窓もいつでも開いていて、夜になっても閉めないのじゃないかと
思うくらい。』

と書いているが、現在の我が家はまさにこの状態である。
夜になっても窓を閉めないことが多いし
ドアにも鍵をかけない。

それどころか、うっかりしてしまい
朝起きてみると、ドアが開けっ放し・・・ということすらある。
そして心配するのは、「ねずみが入らなかったかな?」だ。
うむ。

ランギ人の家については、さらに10年がたった今では
人口も増え、住宅も建て込んできたせいか
金網で囲ったり塀をはりめぐらせる家も見かけるようになった。

が、空き巣狙いはあっても、強盗というのは存在しない。
どこの誰かすぐにわかってしまう狭い島ですしね。
警察はちゃんとある。 法に照らし合わせると、裁きが
必要であると思われるようなことが起きても
当事者たちが「まあいいんじゃないの」と思えば
そのままその事件は忘れ去られて行く。


パーティには、まず参加しなくなった。
必要でない我慢をしなくていいのは、精神衛生上まことによろしい。

暮らしている間に、知り合いやその家族が何人も他界した。
葬儀にもできるだけ出たくない・・・なぜなら
ここの慣習が私や夫には(そしておそらくは一般的な日本人にとっても)
かなり過酷であるからだ。

死者の頬にキスをしなくてはいけない。

どう思われますか?

日本の、焼き場でお骨を集める習慣も、私にはどうも
悪い冗談に思えてしまい、出来たらせずにすめばいいなあと
思ってしまうのだが・・・。
こんなことを書いて不快に思われる方がいらしたら
すみません。
こんなだから、日本に住んでいられなくなったのだな。

ビールの飲み方は、やはりちびちびは無理です。
冷たいものは冷たいうちに。

はい。





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第8回 黒真珠をつくる

2012-04-20 00:00:01 | 移住記






タヒチの特産品、黒真珠。

黒蝶貝(クロチョウガイ)と呼ばれる二枚貝を母貝として、養殖する。
私と夫がタヒチで生活していくために就くことになったのは、
黒真珠養殖の中の、核入れという仕事だった。

きれいな海のそばで暮らしたいと職を探していたときに、
ダイビングのインストラクターと観光業は、
できれば避けたかった。
ダイビングは、好きなことを仕事にするのはどうだろうかと
思ったし、観光業は自分たちに向いていないように思ったからだ。

私は生き物は子どもの頃から好きで、海の生物にも
陸の生物・昆虫にまでとても興味があったし、
手先の作業も好きで、不器用な方ではないと思っていた。

日本人なら誰でも知っている、世界で初めて養殖真珠の技術を発明して
確立したのは、日本人だ。

あ、それってミキモトパールのミキモトさんでしょ?!
と皆さん思われるかもしれない。
私もそう思っていたのだが、実は、かの有名な御木本幸吉氏は、
真珠養殖の言ってみれば育ての親。

そもそも養殖真珠を発明した生みの親なる人物は、
西川さんという親子だったのだそうだ。
エジソンの時代に西川さんが取った特許をもとにして、
世界で初めて真円真珠を作り、真珠養殖業を商業ベースに
のせたのが、御木本さんなのだった。
それが今から100年ちょっと前の話。


タヒチで最初の黒真珠養殖を行ったのも日本人技術者で、
今から50年ほど前のことになる。
それ以来、数十名の日本人核入れ技術者が、主に伊勢志摩などから、
核入れ作業のためにはるばるタヒチまでやってきていた。

いわゆる出稼ぎ労働という形で年に数ヶ月間だけ、家族を置いてひとり、
環境のきびしい離れ小島で、黙々と貝を相手に作業していた。
タヒチの黒真珠生産量は、ここ数年で飛躍的に伸び、
世界的な不況もあって市場価格が下落してしまったのだけれど、
今から20年以上前までは生産量も少なく、希少価値で高値で
取引されていたため、技術者に支払われる賃金は、
信じられないような額だったらしい。

日本にいたときは、伊勢志摩を訪れたこともなく、
真珠養殖のことなど何も知らない私たちだったが、
私たちの先生となるIさんによれば、アコヤ真珠と
クロチョウ真珠の技術は微妙に違うので、
自分が技術を教えるにあたって、
何の知識もない素人の方がむしろ良いのだということだった。

長い経験をもったアコヤ技術者が、クロチョウにあった技術に
変えることができず、失敗して帰って行く・・・ということも
少なからずあったらしい。

それに、いわゆる職人仕事のようなところもあるので、
他人から言われて、はいわかりましたと、
自分の長年のスタイルを変えるわけにもいかないのだろう。
それはわかる気がする。





なにはともあれ、93年3月、私たちはランギロア島で
黒真珠養殖の仕事をスタートした。
養殖場の名前はゴーギャン・パール。
タヒチ人のオーナーが、椰子の木と雑草しか生えていない土地を買い、
開墾し、住居を建て、養殖に必要な設備をそろえて、
母貝を大量に買い付けてきた。

従業員は、マネージャー1人、ダイバー1人、
タヒチ人女性2人、海事やメカ担当2人、
そして核入れ技術者が私たちを入れて4人。
総勢12,3名でのスタートだった。

朝は6時ごろに起床。
7時には、住居と目と鼻の先にある仕事場に向かう。
歩いてものの数十秒の距離だ。
私たちより早くランギロア入りしていたIさんとOさんは、
どんどん核入れの仕事をこなしている。

私だけがゼロからのスタートとなり、
ひと足先に研修を受けてきた夫から指導を受けることになった。

まずは、メス作り。
核入れの作業は、「挿核手術」とも呼ばれるように、
貝の体に行う一種の外科手術のようなもの。
できる限りショックを小さくするためには、
もちろん切るときの技術が大切なのだが、
メス自体もいつでもよく切れるようにしておかなくてはならない。

子どもの人差し指の爪くらいの大きさの、ステンレス製の薄い板を、
見本を見ながら、砥石や紙やすりを使って、
形・大きさをととのえて行く。
刃物など作ったこともなく、研ぎ方もよくわからない。
疲れてときどき外を眺めると、燃え立つようなラグーンの青が
目に飛び込んでくる。
それから、波の音と頬をなでる風・・・。

ついこの間までは、固く窓を閉ざした空調の効いたビルの1室で
仕事をしていたのだ・・・。

いけないいけない、作業に集中しなくては。
汗をぬぐいながら黙々とがんばったのだが、最終的には
夫に仕上げてもらった。
メスを自分で作れるようになれば一人前と言われるらしいが、
私はまだまだ当分先だろうなと思い、少し不安な気持ちになった。

次は細胞片作り。

なぜ真珠ができるのか、ご存知だろうか?
真珠の歴史というのは、天然真珠がそのはじまりで、
食べようとして貝をあけると、ぽろっときれいなものが
出てきたというのが、人間と真珠との出会いだ。

貝はふつうに生きていれば、プランクトンを食べて、
海水中からカルシウムをとりこんで体を守る貝殻を作って成長し、
繁殖して、一生を終わる。
真珠なんかつくらない。それがたまたま(まさに!)外部からの
あまりうれしくない刺激によって(体の中に異物が入ってくるなど)、
ふつうなら作らないところに貝殻を作ってしまうことがある。

つまり、真珠層を形成する物質を、貝殻以外の場所に分泌してしまう。
これが天然真珠なのだが、その真珠層を作っているのが、
貝の体の中の外套膜という器官。
養殖真珠は、この外套膜を切り取って小さな細胞片にして、
丸い核といっしょに貝の体の中に移植してやることによって、作られる。

細胞は、真珠の色や形を左右する大きな要素のひとつなので、
細胞を採る貝を選ぶことと、切り取った外套膜から
2ミリ角くらいの小さな細胞片を作ることは、とても重要な作業だ。
それにしても細かい作業で、気が抜けない。

そして一番重要で難しいのが、貝の体にメスを入れる作業。
貝の口を1センチばかりあけて、そのすき間から手早く確実に、
内臓を傷つけないように注意しながら行わなくてはならない。
メスを入れるのだから、当然出血するし、貝も痛みを感じている
かもしれない(それとも貝の体には痛点はないだろうか)。
手術のショックで、死んでしまうものもいる。

ベテランIさんの作業の様子を見させてもらって、
あとはひたすら自分で、実際に数をこなしていくしかない。
ペンチのような道具で、貝の口を貝柱を切らないよう
注意しながら開け、貝台のうえに置いて、貝の体にメスを入れて、
細胞片を挿入し、核を挿入する。
これでひとつの作業は、終わり。

普通の技術者は、だいたい一日に400個くらいの貝を手術するのだが、
私はひとつの貝を手術するのにいったい何分かかっていただろうか?

神経が張り詰めているため、1個終わると、ぐったり疲れる。
自分でも何をやっているのかよくわからないような状態で、
とにかく夢中で作業をした。

核入れ手術後、最初の真珠ができるまで約1年半。
自分がやった仕事の結果が、1年半も待たないと出ないのだ。

これがこの仕事に関する今でもストレスのひとつなのだが、
真珠を取り出す前に、手術の約2ヵ月後にわかるひとつの結果がある。

脱核検査というもので、死んだ貝と、死なないけれど核を吐きだして
しまった貝をよりわけるという作業だ。
手術後に貝が死んでしまう理由は、もちろん手術のショックだけとは
限らないのだが、同じような貝を手術していても、
技術者によって死に貝の率が違ったりするので、
手術が成功したかどうかの、ひとつの目安となる。

初めての脱核検査での成績は、良くはないけれど、悪くはなかった。
ショックでみんな死んでしまうのではないかと恐れていたのだが、
がんばって生きていてくれた。
核を吐き出してしまった貝も、そんなに多くはなかった。
ひとまずは安心できる数字で、心底ほっとして、
これからこの仕事でがんばっていこうという気持ちをあらたにした。

しかし本当の戦い(?)は、この数年後始まったのだったが、
これについては長くなるし、退屈な部分も多くなりそうなので、
また別の機会にゆずりたいと思う。

はじめて自分が作った真珠を取り出すときは、
感動よりも、緊張と不安のほうが大きかった。

きれいなものもあれば、真珠と呼べないようなきたないものもある。
貝と私の共同作業のようなものなのだが、晴れた日のラグーンの色を
すいこんだような真珠は、日本のデリケートなアコヤ真珠に比べると
真珠層も分厚く、堂々たる南の島のたくましさを持った、
”海の宝”という趣があって、圧倒されてしまった。

あまり宝飾品に興味がなかった私だが、そのさまざまな色・形・表情には、
しだいに魅了されていった。

つづく





唐突ですが、この移住記は、ランギロアに住んでいる私が
タヒチ時間の毎月20日(日本時間21日)に
更新することにしています。

が、今月(2012年4月)は、20日現在日本におります。

どちらの時間に合わせるべきか?
迷いました。

それから、お気づきの方もおられるかと思うのですが
「移住記」と称したこのブログ。

もうランギロアへの移住を果たしてしまいました。

この先の続きは、ナヴェナヴェ・ランギロアという
ウェブサイト内の日記とブログへどうぞ!
・・・とするべきなのかと、これも迷いながら
10年前に連載をしていたときは、しばらく続きがあったので
それを掲載していこうかと思っています。

私がひとり日本で夫からの便りを待っていた
3ヶ月間、その間に夫がツアモツの島々で経験した
面白かったりドキドキしたりするような手記も
(もちろん夫が書いたものです)
アップしようと思っております。

今しばらくおつきあいいただけるとうれしく思います。

(あ、ぎりぎりのところでタヒチ時間20日になりました!! 笑)

さあ ランギロアに帰ります!!!





photos&text by Naoko Nishimura


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第7回 日付変更線と赤道を越えて

2012-03-20 00:10:39 | 移住記



南緯15度、西経147度。
太平洋のど真ん中、地球儀の上で見ると世界のどこからも遠いようなこの島で、
私と夫の新たな生活が始まった。

ランギロア島。
Rangiroa・・・タヒチ語で「大きな空」という意味を持ち、
118の島々からなるフレンチポリネシア(通称タヒチ)の中の
トゥアモトゥ諸島に属している。
北西から南東へ1500Km、東西500Kmの海域にちらばる77の島のうちのひとつだ。

タヒチ島やボラボラ島などの火山をいだいた島とは対照的に、
平べったくて細い陸地が首飾りのように楕円形につらなり、
その真ん中にラグーン(礁湖)が静かに青い水をたたえている、環状珊瑚島だ。
世界で2番目に大きな環礁であり、その大きさは長さ約75km、幅約25Kmにもおよぶ。
タヒチの中では、ボラボラ島・モーレア島につぐリゾートで、
特にダイバーに人気のある島だ。

成田空港を飛びたったジャンボは、夜明け前の真っ暗なタヒチ国際空港に着陸した。

機内には、ハネムーナーやバカンス客のうきうきとした熱気と興奮があふれ、
そんな雰囲気の中、私たちの緊張はいやがうえにも高まった。
ウクレレと歌、「花」という名前のタヒチの花、ティアレの
むせかえるような香りに迎えられて、入国手続きをすませた。

しらじらと明けはじめたエアターミナルの外では、
養殖場のオーナー、Bが出迎えてくれた。
はじめて下見に訪れて移住を決意してから、私にとっては6ヶ月ぶりのタヒチだった。
荷物をまとめて、とうとう来てしまった。


モーレア島をのぞむ見晴らしのいいBの自宅でひと休みして
今後の打ち合わせをしたあとは、昼ごろの国内線でランギロアへと向かった。
私たちに真珠養殖の技術を教えてくれるIさんと、
もうひとり若い日本人男性のOさんが、ひと足先に仕事を始めているのだ。
ぐずぐずしてはいられない。



国内線の小さなプロペラ機から見るランギロアの海は、やはり美しかった。

巨大な環礁なので、全景を見渡すことはできない。
コバルトブルーのラグーンに白い船がぽっかり浮いている。
スローモーションのように、船尾から引き波が伸びていく。
これから私たちはここで暮らして行くのだ。

飛行機が着陸してエンジンが止まると、半年前に来たときと同じ静けさがあった。
外へ出ると、大きく息を吸いこんだ。

それからは、毎日が新しいことの連続だった。
はじめての海外での暮らし、はじめての仕事、はじめて会う人々・・・。

今から思うと、最初の年は、一種不思議な酩酊感とも呼べる精神状態の中で、
毎日が過ぎていったような気がする。

職場は養殖場だからラグーンがすぐ目の前にあり、
住居も同じ敷地内にあった。
朝起きると外洋側の水平線にのぼる朝日が見え、
昼間は真っ青なラグーンを見ながら仕事をし、
夕方にはラグーンに沈む夕日を眺める。

毎日毎日その繰り返しなのだが、飽きることがない。
朝日の色も夕焼けの色も、ラグーンの表情も、ひとつとして同じものがないのだ。

天気が悪いこともある。
季節風が吹いて、ラグーンが大荒れに荒れることもある。

太陽と風、海のリズムに大きく左右されるこの島での暮らしは、
都会で経験したそれに比べると、ときには苛酷なものであったけれど、
とても人間的なものに思えた。
暮らしていく中での不便ささえもが、「生きている証」のように思えた。
体の中の細胞が、ひとつずつ目覚めていくようだった。

上に酩酊感と書いたけれど、ラグーンの青に酔ったのだろうか?
などと書くと格好つけすぎだろうが、しかしこの青さは、
ナチュラルハイをもたらすような魔力を持っているようだ。

とはいえ、実際の生活がこうした感覚的な「きれい」「心地よい」だけで
構成されていたわけではもちろんない。
物資のとぼしいこの島で、都会にはない不便を乗り越えて
生活をスタートすることができたのは、まずは夫のおかげだった。

物資が少ないとはいっても、この島はトゥアモトゥ諸島の中では
人口がもっとも多く(93年当時は1,000人ちょっとだった)、
その分インフラが整備されていた。

生活物資をタヒチ本島から輸送する定期貨物船は毎週2隻来ていたし、
本島からの国内線のフライトも毎日1便はあった。

離島としてはかなり恵まれているとはいえ、
生活していくうえでの必要最低限の衣食住は、
自分で面倒をみなくてはいけない。

家はとりあえず会社が建ててくれたものがあったので
(チリから取り寄せたという木造のキット?住宅)良かったが、
そうでなければ知り合いに手伝ってもらって、
自分たちで少しずつ作らなくてはならないところだ。

大工さんという職業の人は、特に存在しない。
まずはコンクリの土台を作って、そこに柱を立て、
周りにベニヤ板を釘で打ちつけて、屋根をのっけて終わり、というのが
典型的なトゥアモトゥスタイルのシンプルな家。
みんな小さい頃からお父さんや近所の人が作るのを見たりしていて、
見よう見真似でトッテンカッテンやる。
だから、枠がゆがんでいて、窓が入らな〜い! 
ドアが開かな〜い!なんていうのは、日常茶飯事・・・。


話が少し脱線したけれど、フランス語はもちろん、
英語もほとんど話せない夫は、しかし、
大工仕事や機械いじりが大好きで、電気のことやメカにも
かなり詳しかった。

雨漏りがするとか、ネズミに配線コードをかじられたとか、
はては水道の配管まで・・・。
島暮らしにつきもののこうした問題は、よほどのことでない限り、
夫が解決してくれた。

一方、言葉の問題は、もっぱら私が担当することになった。

タヒチはフランスの海外領土なので、公用語はタヒチ語とフランス語。

タヒチ語も諸島ごとに方言のようなものがあるらしく、
トゥアモトゥ語もあるということだった。

私はもともと大学で仏文学を学び、日本ではフランス系の会社で働いていたので、
フランス語ならばまったく話せないわけではなかったのだが、
実際にその言葉を使って日々の生活を営むとなると、たいへん、たいへん・・・。

仕事で使っていた数少ないボキャブラリーはほとんど役に立たず、
毎日新しい言葉をおぼえなくてはならなかった。

職場や身の回りにいる人たちは、生粋のタヒチ人、フランス人、
タヒチ人とフランス人のハーフの3種類に大別することができ、
フランス語は話せるけれどタヒチ語は話せないという人はいても、
その逆という人はいなかったので、しぜんとタヒチ語習得は
あとまわしになった。


私は、人と人のコミュニケーションで大切なのは、
最終的には言葉だとは思っていない。
ビジネスをするには言葉が通じないことには話が進まないだろうが、
日々の人とのつきあいで大事なのはやはり人柄だろうと思う。
木を見てツリーと言えなくても、魚を見てフィッシュと言えなくても、
木が何かは誰でも知っているし、魚が食べ物だということもわかる。
笑っていれば何が面白いんだろうと思うだろうし、涙を流していれば、
悲しいことがあったのだとわかる。

まあユーモアの感覚というのは、国や個人によって
違いはあるだろうけれど。

夫がランギロアの人々にとけこんでいくのを見ながら、
私はその思いをあらたにした。

私が毎日悪戦苦闘しているかたわらで、彼は、しだいに、
へたくそな(夫よ、ごめん!)フランス語や英語を使うようになり、
しまいにはジョークで相手を笑わせているではないか!

目からうろこが落ちる思いだった。
都市のように物事が事務的に進まないこんな田舎では、
「気分」が大事だ。いわゆるノリというやつだろうか。
そのノリに乗ることが、言葉がどうのというよりも重要なのだと、今では思う。

タヒチの人たちには、シャイな人が多い。
はじめは話しかけても、横を向いていたりして、
「あれ?なんか気を悪くしちゃったのかな」と心配するのだが、
そのうちすごくひとなつっこくなって、びっくりするくらい
親切にしてくれたりする。

それも、わざわざ〜してやってるんだ、というような恩着せがましい様子や
妙にかまえたところがない。
他人に親切にするのって、意外にむずかしいと思うのだが、
こっちの人は屈託がなく、自然体。
そう、まるで家族にしてあげるみたいな感じなのだ・・・。

島には、たった一本の道しか通っていないのだが、
車やスクーターなどで移動していて道ですれ違うと、手を振ってあいさつし合う。
一日に何度会っても同じようにあいさつする。
知り合いが増えてくると、犬の散歩などで道を歩いているとき、
しょっちゅう手を振っていることになる。

逆に、知らない人でも、よく道ですれちがうので
手を振っているうちに知り合いになった、ということもよくある。

車に乗っていても、「この車は誰それさんの」と知っているから、
運転席が見えなくても車に向かって手を振る。
愛想のいい人だとわざわざ窓から手を出して元気よくあいさつしてくれる。

「タヒチの人」と書いたけれど、特にトゥアモトゥの人に
こうした情の深さを感じる。
定職がなくても食べるのに困らない、ほんとうの楽園に住む人々の
特性ではないかと思う。
まあ物事には裏と表があるので、それがマイナス面に働くこともあるのだけれど、
その辺についてはのちのコラムで触れていきたい。

最後にひとつ、ここでの生活を語るのに欠かせないものがある。
わがやの愛犬、ポセイドンのことだ。
そろって犬好きな私と夫は、自然の中で犬を飼うのが夢だった。
東京にいたときも、犬と一緒の生活にあこがれたけれど、
都会の環境は犬にとってかわいそうだと思い、あきらめていた。

ここに住み始めて2ヶ月ほどたったある日、
知り合いのタヒチアン宅で生まれた子犬をもらうことになった。
ポセイドンというたいそうな名前をつけて、泳ぎの得意な犬になるよう
子犬のうちから特訓した。
ランギロアでのこの10年間とポセイドンの存在は、切り離すことができない。

つづく




2012年3月19日。私は今、日本の東京にいます。
晴れてはいますが、強い北風が吹いているようです。
春一番にはならないかしら。

今回の一時帰国は、出発が3月の、タヒチに戻るときは
4月の移住記更新の時期とかぶってしまいそうだったので
予約投稿にしてきました。
もしネット環境が整わないなどの事態になっても
本文だけでも自動的にUPされるようにしました。
ですので、この補足部分は、日本で書いています。

ポセイドン。
私が自分の人生で初めて子犬のころから面倒を見て
長い時間を一緒に過ごし
注げるだけの愛情のすべてを注ぎつくした犬は
2年前の5月に、17歳で死にました。

10年前に記事を掲載したときは
「ポセイドンは今でも健在で」と書いていたのですが
ここでも時間の経過を感じます。

島の犬たちは、獰猛な犬を別として
まずつながれることなく、自由奔放に暮らしています。
犬は(ペットは?)飼い主に似るといいますが
島の犬は、ツアモツ人になんとなく似ているような気がします。

おっとりとして、どこかぽよんとしているような。
ランギ人の知り合いが聞いたら、怒るかな。

ポセイドンをこのような環境で飼うことで
犬たちの生活・生態について、いろいろ知ることができて
面白かったです。
ポセイドンの晩年は、夫とともに介護もしましたし
子犬のしつけから看取りまで、かなり精通していると
ひそかに(?)自負しております。
何の役に立つのかわかりませんが。


さて、ランギロアでの生活が始まって、フランス語での
話す・聞くでは苦労しました。
もともと話すほうは、そんなに得意ではなかったのです。
それにボキャブラリー。

日本にいたときにはあまり使うことがなかった語彙が
必要になりました。

たとえば、家にまつわるもの・・・
冷蔵庫、洗濯機、オーブン、冷凍庫、浄化槽、
貯水タンク・・・
覚える単語がいっぱい。

そのうち生活が落ち着いてくると
次に必要になってきたのは、「自己主張するための言葉」。

それは楽しい内容ばかりではなく、時に
他人を批判するための表現であり
強く要求をする言葉であり。

もっと楽しい言葉を覚えたいなあと思うことしきり、
という時期もありました。

暮らしていれば、病気や怪我もしますから
医者に診察してもらうための言葉。

思い返すと、悪戦苦闘の日々でしたが
20年も暮らしていれば、正確なフランス語ではないにせよ
考えなくても口から出てくるようになるものですね。
いずれにしても、ここはフランスではなく
南国タヒチです。

みんなが喋るフランス語だって、アクセントや
言い回しは、タヒチ訛りといいますか
独特です。
タヒチアンが使うフランス語の響きって、
やわらかいから好きなのですよ。

あるフランス人男性は、タヒチエンヌのアクセント、
特に「R」の音の発音の仕方がたまらない、
くらっとくるみたいなことを言っていました(笑)

言葉に関するおしゃべりが長くなりました。

上に書いたような、住み始めたばかりの頃に感じた
酩酊感。

それはいまだに、感じます。

タヒチの島々をパワースポットだという人がいます。
よくわかりませんが、何か自然のエネルギーを
溜めているのが、あの広大な礁湖なのかもしれません。

何回見ても、あの燃え立つようなブルーのラグーンは
私の心のどこかに何かをふつふつと満たしていきます。

あの感覚・・・うまく言えないのですが
強いて言うなら、「何かが自分の中に満ちていく感じ」
であり、「叫びだしたい感じ」であり
また「泣き出したいような気持ち」でもあるのです。

こんなに強い気持ちを与え続けてくれるランギロアの海。

日本で会社勤めをしていたときの、フランス人のボスが
「1年いたら飽きるよ」と言ったけれど
気づいたら20年、飽きることがありませんでした。

海、沈む太陽、昇る朝日、月の満ち欠け。
貿易風、季節風、西風。
スコール、サイクロン、うねり。

自然はやさしく、きびしい。
その中に身をおいて生きること。

思ったとおりの人生が、そこにはあったのです。




photo&text by Naoko&Masaharu NISHIMURA


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第6回 タヒチに移住するために

2012-02-20 18:52:13 | 移住記



夜のタヒチ国際空港で夫と別れてから、2ヶ月近くがたっていた。

郵便受けに入っていた赤と青の縁取りのあるエアメールは、
いやに重たく感じられた。
早く開けて読みたいような、こわいような、複雑な気持ちに
せかされながら、封を切った。

長い手紙には、慣れない離島での暮らしについてと、
初めて勉強する黒真珠養殖の仕事についてが、細かく書かれていた。

黒真珠養殖はフレンチポリネシア(タヒチ)のほぼ全土で行われているが、
なかでも77個の環礁の島からなるTuamotu(トゥアモトゥ)諸島に
養殖場が集中しており、夫はIさんともう一人の日本人男性とともに、
トゥアモトゥ諸島の島々を小さな船で回っているのだった。
ほとんどの島には飛行機が発着するための滑走路がなく、交通の手段は船だけ。

一家族しか住んでいない小さな島の話や、信じられないくらいきれいな
水色の浅瀬の海がどこまでも続く環礁の話、
君たちは初めて来た日本人だと歓迎された島の話・・・。
遠く離れた日本で読むと、ドキドキするようなことばかりだった。


タヒチには、蚊やノノと呼ばれるサンドフライがいるのだが、
立ち寄ったある島で、夫は蚊の集中攻撃を受けてしまった。
刺されてかきこわし、手足の皮膚がボコボコになって、
慣れない環境で体が弱っていたせいもあるのだろう、かなりの高熱が出た。
医者などもちろんいない小さな島だ。
Iさんから抗生物質をもらって飲んだところ、アレルギー反応が出てしまい、
体が痙攣したという。

簡素なバンガローの窓から、スコールが横なぐりに降って
ベッドが濡れてしまって、熱による寒さに震えながら困ったという
部分は、読んでいて、自分の体がブルブル震えているような
気がした。


もちろんこの手紙を書いているときの夫は、病からもすでに回復して
いるわけなのだが、読んでいる私はいたたまれない気持ちになり、
すぐにでもタヒチへ飛んでいきたくなった。

「高熱に浮かされながら、一時は冷凍のマグロと一緒に日本へ
運ばれるのではと心配しましたが、二人のためと思ってがんばりました」
この一行には、目頭がじんと痛くなった。
「今は元気になって、静かな木陰でこの手紙を書いています」
もう大丈夫、心配することはないのだと、自分に言い聞かせた。



訪れた島々で、夫はIさんの助手をつとめながら、
真珠貝の核入れ作業について、一から教わった。
もともと手先が器用で細かい仕事が好きな夫なので、
どうやら何とかやっていけそうだという感触をつかんだ。
私は自分にもできるだろうかと気になっていたのだが、
「特別に力のいる作業ではなく、生き物が相手なので、
むしろ繊細な指の動きが要求されます。直ちゃんでも大丈夫、できると思います」
という夫の言葉に、ほっと胸をなでおろした。


そして11月も終わりに近づいたある日、夫から国際電話が入った。
島々での研修を終えて、ようやくベースとなるランギロアへと
戻ってきたのだった。
ランギロアだって、何もない、かなりの田舎なのだが、
村があり電話があり、飛行場もある。
ようやく夫との連絡手段を手にした私は、安堵のあまり泣きそうだった。

3ヶ月間の滞在ビザは、12月には切れてしまう。
ランギロアで黒真珠養殖の仕事に就いて、2人で暮らしていく決心をした私たちは、
今度は日本のフランス大使館に労働ビザの申請をしなければならなかった。

タヒチに長期滞在するためにはまず労働許可が必要で、
雇用主との労働契約書がなくては申請することができない。
夫は2人分の契約書を持って、日本に帰国することになった。


12月7日、この日は夫の30回目の誕生日だった。
機内で日付変更線を越えたときに、この日は宙に(文字通り)
浮いてしまったのだが、エールフランスからはお祝いの言葉と、
ちょっとしたプレゼント(ファーストクラス用のアメニティグッズだった・・・)
が用意されていた。
「転職するなら30歳までに」と考えていた夫は、
まさにその記念すべき誕生日を、日本へ帰国する飛行機の中で迎えたのだった。


東京の広尾にあるフランス大使館領事館へ何度か足を運び、
ビザ申請のための書類をととのえた。
申請してから、約3ヶ月で許可がおりるだろうということだった。

私は2月いっぱいで会社を退職することになっており、
おりしも決算期で残業が続く毎日だったが、
大使館からの連絡を今日か明日かと待ちわびていた。
ビザがおりないことには、タヒチへ出発する日を
決めることもできないのだから・・・。


そして待ちに待った電話が、フランス大使館領事館からかかってきた。
2月に入ってすぐくらいだったろうか。
思ったよりスムーズに手続きが進んだようだ。

そのあとは、指示されたクリニックで健康診断を受け、その結果を持って領事館へ。
パスポートに、「○月×日までにフレンチポリネシアに入国するように云々」と
書かれたスタンプを押された。
あとは出発日を決めて、準備するばかりとなった。
区役所に出向いてもろもろの手続きし、住居を引き払い、
出発までは私のほうの実家に世話になることになった。
毎日があわただしく過ぎていった。

1993年3月16日、夫と私は家族に見送られて、タヒチへと発った。

涙もろい妹がやっぱり見る見る目を赤くしてしまい、
急に雰囲気がしめっぽくなった。
父は「なにも戦地におもむくわけじゃないんだから」と妹を軽くいさめた。

荷物は最小限におさえて、衣類などかさばるものや重いものは
船便で送ったのだが、それでもかなりの量になっていた。


新しい人生が始まる。南半球の、小さな島で。

つづく





:::::

ひとりで日本に戻り、夫がいまごろどこで何をしているのだろうかと
考えながら会社勤めをしていた日々。

やっとランギロアから電話で連絡がつくようになってからも
当時は国際電話の通話料は高額だったので
ビザ取得手続きなどに関する連絡以外は、極力控えていた。

そして、日本に帰国する日が決まってからは
一日千秋の思いで毎日を過ごした。

その日は、確か午前の早い時間に成田空港に到着したと
記憶している。
まだ暗いうちから、父が車を運転してくれて、2人で空港へ
迎えに行った。

約3ヶ月ぶりに会う夫は、髪が伸びて肌は日焼けしており
抱き合って匂いをかいだわけではないのだが(笑)
海や太陽や貝やとにかく色んな、都会にはない南国特有のものの
匂いを全身にたっぷりとたくわえて姿を現した。

この匂いを、私もまたこれから身にまとうことになるのだ。

そう思うと、なんだか不思議な思いだった。

夫が帰国した12月8日から、2人でタヒチへ再び出発する
翌年3月16日まで、いろんなことがあった。
私は仕事をまだ続けていて、夫は家事をしてくれた。

短い間とはいえ、病気や怪我をすると困るので
私の社会保険の扶養家族に夫を入れてもらうよう
会社に頼んだ。
逆のケースなら手続きは簡単だと思うのだが
夫が妻の扶養に入るというのは、ちょっとしたハードルが
あるようだった。
今でも変わらないのだろうか。

私の保険証を持って歯医者に行った夫が
「はい、次の方、○○く〜〜ん!!」と元気よく
受付のお姉さんから呼ばれたことがあった。
夫は野太い声で「は〜〜〜い!!!」と返事したかどうか(笑)

生年月日を見ればわかるのだが、女性の扶養家族になっている場合
子供だろうと思いますよね。

ランギロア島は、何もないところ。
電化製品などは一切売っていないし、食器類もほとんどない・・・
うーん、ないものよりもあるものを挙げた方が早いくらいかな。

医者は、かろうじて無料診療所にひとりいた。

日本から持っていく荷物については、大いに悩んだ。
よく覚えていないのだが、カメラと本の類はあきらめた。

けれども、なぜかCDラジカセを手荷物で運んだ。
本・活字は大好きだから、実を言えば何冊も持って行きたい。
けれど、重い。そして、一度読んだら、読み返すことなく
終わってしまうかも。
それならばと、タヒチのFM放送や、音楽が聴けるオーディオ機器を
選んだのだったと思う。
静かな島暮らしで、音楽を聴きたくなることがあるだろう・・・。

なるだけコンパクトで音質のよいものを選んだ。

ランギロアに着いて、このラジカセを見たタヒチアンが
「帰るときには売って」と私たちに言ってきた。
こちらとしては、移住してきたばかりなのに、もう引き上げる
ときのことを言われている気がして、絶句してしまった。

きっと1,2年で日本に帰ると思ったのだろうなあ。
それが、もう20年近くたってしまった。
「売って」と言った彼女とは、時々村で会っては
お互いに名前を呼び合ってあいさつしたりする。
夫の写真館に、子供たちの証明写真を頼みに来てくれる。

きっと私たちのことを、こんなに長く住み続けているなんてと
驚いているのに違いない。




photo&text by Naoko Nishimura


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第5回 初めてのタヒチ

2012-01-20 11:40:05 | 移住記


  

タヒチへの移住に向けて、周囲の事柄と自分たちの気持ちが
いっせいに動き出した。
向こうで仕事を教えてくれることになっているIさんのお兄さんが
日本に住んでいるので、その人と連絡をとりつつ、話を煮詰めていった。

話がほぼ決まってから、親や兄弟姉妹に報告をした。
私の父は「二人のどちらが言い出したことなのか」と私たちにたずね、
夫が「かみさんが求人広告を見つけてきました」と答えたら、黙ってしまった。

夫の兄弟姉妹のほうが、反対は強かった。
周囲の知り合いや友人は、さまざまな反応を示してくれたのだが、
それを見るにつけても私は、自分たちがやろうとしていることに、
自信がわいたり不安になったりした。

タヒチでの生活も楽なものではあるはずがない。
けれど、私たちがしたいのは、「のんびりした南の島暮らし」ではない。
この東京で暮らしていくことを考えたら、
青い海のそばならどんな苦労があったって、人間らしい生き方ができるに違いない。
同じ苦労をするなら、好きな場所でしたい。
自分の人生を、自分のものにしたい・・・。


夫は一足先に、92年7月いっぱいで、丸7年勤めた会社を退職した。
そして9月に、2人でタヒチをたずねることになった。
私は仕事があるため1週間だけで日本へ帰り、夫は残って約3ヶ月間
研修を受けることになった。

これでこの仕事をやっていけそうだということになれば、
晴れて2人でタヒチへ移住することになる。
うまく行かなければ、すべてはなかったことになって、
日本で職探しをしなければならない。



バカンス客で混み合うエールフランスの直行便に乗って、約11時間。
フレンチポリネシアの首都パペーテがあるタヒチ島の国際空港に、
ジャンボは着陸した。

体格のいいタヒチ人男性がウクレレをかなでて、
歓迎の歌をうたってくれる。
髪の長い女性が、白くてかわいらしい花を手渡してくれる。とてもいい香り。

今まで訪れた南の島とは、なにか雰囲気が違う・・・。
しかし、これからのことを思うと緊張と不安が先にたって、
ゆっくりと空気を味わう余裕がない。
空港では、ランギロアの養殖場でマネージャーをつとめている
フランス人男性Cが出迎えてくれた。

到着してすぐにしたことは、3ヶ月間滞在するためのビザの申請だった。
書類に記入して、空港内にあるイミグレーションオフィスへ行かなければならない。
手続きのために2日ほどタヒチ島に滞在したのだが、
その間に養殖場のオーナーであるタヒチ人男性Bとも会った。

握手しようと手を差し出そうとしたら
「あれ?あれ?」と思ううちに、まっすぐ私の目を見つつ、
Bの顔が私の顔に近づいてくる。
そして私のほっぺたにチュッ、もう片方のほっぺたにもチュッ。

ここでは初対面の人とも、こんな風にあいさつするのか・・・。
タヒチで初めて受けたカルチャーショックが、これだった。

男性同士だと握手、男性と女性のときと女性同士のときは、両方の頬にキス。
時と場合や間柄によっては、男性同士でもキスをする。
抱き合うこともある。

Bは60代前半くらいだろうか、背が高くがっちりとした体躯で、
あごにはやした髭はかなり白く、肌は小麦色、目の色は明るいブルーだった。

フランス人との混血だろう。しかし話す言葉は、タヒチなまりが強いフランス語。
とても達者とはいえない私のフランス語力では、聞き取れないことも
しばしばだったが、優しく大らかな人柄の彼は根気強くこちらの話を聞いてくれて、
中華料理店での会談は、なごやかに終わった。


タヒチ島に到着した2日後、私と夫は国内線に乗って、
Cとその奥さん(当時はまだ結婚していなかった)とともにランギロア島へ向かった。

47人乗りの小さなプロペラ機で50分ほど飛ぶと、ネックレスのような形を
した細い陸地に囲まれた大きな環礁が見えてくる。
その美しさに感動しているうちに、まるで海に突っ込んでいくかのように、
飛行機は軽やかに着陸した。
窓の外に見えるのは、椰子の木ばかり。
建物らしきものは何も見えない。タヒチ島の喧騒が嘘のようだった。


ランギロア島には、3日間滞在した。

まだ出来たばかりの養殖場「ゴーギャン・パール」の施設や
私たちが生活することになる住居を見たり、
あとからやってきたオーナーのBと合流して話をしたり、
すでに長いことタヒチで黒真珠養殖の仕事にたずさわっている
日本人男性を紹介されたり、中身がぎっしりつまった3日間だった。

想像していたよりもずっと暮らしやすそうな環境に驚いた私たちだった。
タヒチの養殖場といえば、村からは遠く離れた小島にぽつんとあり、
かなり過酷な生活環境だと話に聞いていたのだ。

こんなに便利な場所で真珠養殖がうまく行くのだろうかと、半分は喜びながらも、
もう半分にはばくぜんとした不安が残った。
(その不安は、のちになって現実のものとなる・・・)


ランギロアで暮らして行く決心をした私たちは、
いったんタヒチ島へと引き返してきた。

その日の夜のフライトで私だけが日本へ戻り、夫は残って、
これからお世話になるIさんとともにあちこちの島をめぐって
真珠養殖の研修を受けることになっていた。

Iさんは、タヒチ島からは1,700キロも離れたガンビエ諸島で仕事をしており、
あと数日するとタヒチ島へ移動してくるので、
それまで夫にはタヒチ島で待機していてほしいということだった。

これより先、電話もなにもない島々を周ることになる夫とは、
いっさい連絡がつかなくなる。
深夜の空港での別れは本当につらかったけれど、私はひとり、
成田へ向かう満席の国際線に乗り込んだ。


日本へ戻ると、秋の長雨。出発前はまだ夏の名残りがあったというのに、
街はすっかり衣替えしていた。
そして11月の半ばころ、夫から1通のエアメールが届いた。


つづく


:::::



日本からタヒチの国際空港に、エールフランスの直行便が飛ぶようになったのは、
1989年のこと。
(それまでにも、羽田からタヒチ経由リマ行きという路線もあったらしいけれど)

その頃東京に住んでいた私たちは、ドライブしながら、
FM放送から繰り返し流れてくるパペーテ便就航の宣伝に聞き入って、
ほのかな憧れの気持ちをTahitiという言葉に感じていたのを覚えている。

そして、タヒチ独自のエアライン、エアタヒチヌイが
当時のフレンチポリネシア大統領の悲願(?)のもと、誕生する。
確か1998年のことだ。

現在パペーテから成田へ飛ぶ国際線は、早朝の時間帯に離陸する。

だから最近は、上の本文に書いた空港での夫との別れについて
思い出すこともあまりないけれど、
ここに住むようになってしばらくの間は、深夜の成田行きに乗るたびに
当時の記憶がよみがえっていた。
あのときの不安な、後ろ髪を引かれるような、これで良いのだろうかという気持ち・・・
色々な感情が、少しの期待とともにせめぎあっていた。

周囲のほとんどの知り合いがあきれたであろう決断を下した、
あの当時の記憶の扉は、楽しくダイビング旅行をしていた頃ほど簡単には、
ひらいてくれないようだ。

ゆっくりと自分の気持ちを確かめながら、文章という形に表現していきたい。

しかし、初めての訪問で見聞きしたこと、感じたことは
書ききれないほどたくさんある。
記憶が風化しないうちに、残しておきたいなと思うようになってきた。

当時、ランギロアで働き生活するにあたって、とてもお世話になった
フランス人マネージャーのCとその奥さんEは、のちに結婚をして
一男一女にめぐまれた。
残念ながら3年ほど前に、フランスへと引き上げてしまったけれど
この島にこれだけ長く、夫婦の離別もなく(ここで言う離別とは、ほかの人と
一緒になること。これがとても多い)、家族で暮らし続けたフランス人は
少ないと思う。
まあ色々あったけれど(笑)、かなり真面目な人たちだったと、
振り返って思う。

また思い出したこと、書きたいことが出てきたら、このおまけの部分に
書き足すかもしれません。

今回はこれにてペンを置きます。(パソコンのふたを閉じます、が正しい?)



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text&photos by Naoko Nishimura

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