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韓国映画「力道山」・追記 ハロルド坂田

2006-03-22 11:17:14 | 映画
この際ハロルド坂田についてもう少し触れておきたいので
付け加えておきます。

ハロルド坂田の伝記について書かれておられるJoseph R.
Svinth氏から多くを引用させて頂きます。

ハロルド坂田はハワイ島の出身で1920年1月7日生まれ、
コナ・コーヒー・ベルト地帯と呼ばれるコーヒーの栽培地域、
ホルアルアで生まれました。父親は日本人一世のリサブロウ、
母親は二世のマツエで男が6人女が4人のなんと10人兄弟
でした。戦前からのハワイ農業移住の日本人の息子として
日本人の集落であったホルアロアで生まれました。

ここは現在でも日系人経営のホテルやらホルアロア本願寺と
いう寺もあり、昔は日本人がいっぱいいて華やかなりし頃の
面影がまだまだあるところです。いまでも日本人向けの食堂
やらドラッグストアやらあり、日系人のコーヒー栽培もまだ
まだありますし、コナの海が見下ろせる高台で静かなところ
です。コナの空港までクルマで15分くらいのところで、
なかなか静かな地域で涼しい高台です。ここから見るコナ湾の
夕陽は感動的です。

日系のひとが営業しているピンクの派手なホテルもあり、
11月にはコーヒー祭りが毎年行われるところです。現在でも
ハロルド坂田の弟さんのノーマン坂田氏が住んでおられるはず
です。

かつては日系人で賑わった町のあるところですが、現在はコナ
やアリードライブのあたりにショッピングセンターが出来て繁
華街も様変わりです。

坂田少年は、学校を16才で中退してコーヒー栽培の仕事を手
伝います。家から遠くのサトウキビ畑まで行ったり、ラナイ島
のパイナップル畑まで出かけて働きました。

1938年にはマウイ島で畑仕事に従事します。18才でした。
この頃身長は180センチ近くありましたが体重はまだ50キロ
を超えるくらいのひ弱な体格でした。

マウイ島のヌウアヌYMCA でウエイトリフティングクラブに入り
1年間で,10キロ近く体重を増加させ、やがてオアフ島のウエ
イトリフティングの記録を破るまでに至るのですが1944年
軍隊に行くことになります。

日米が激しく戦っていた頃で、この後日本は形勢が不利になって
いきます。ハロルド坂田24才のときのことでした。

彼が配属になった第1399部隊はハワイ生まれの日系人が多い
アメリカ生まれの日系部隊で、マッカーサーはこの部隊をフィリ
ッピンへ派遣するよう二度ほど命令を下したようですが、結局こ
の部隊はハワイから出ることなく直接の戦火を受けるようなこと
はなかったようです。坂田青年は兵役中、勤務が終わるとYMCAで
毎日トレーニングに明け暮れます。

1946年にはハワイでスナッチとジャークの新記録を打ち立て、
明くる年の6月、US ナショナルの大会で優勝。オリンピックへの
選手派遣の対象となるニューヨークの大会に入賞しついに1948
年のロンドンオリンピックで2位に入り銀メダルを獲得します。
因みに敗戦国のドイツと日本はこのロンドン大会には参加してま
せん。

一躍有名になったハロルド坂田ですが、結局ウエイトリフティング
では食うことが出来ないため、同じ強健な身体を売り物にするプロ
レスを勧められ1949年12月プロレスラーに転向します。

レスラーになるための準備の後、1950年4月シアトルでプロレ
スデビュー。日本を強調する和服を着てリングに出たり、日系のギ
ミックで人気者になり全米をサーキットするハードスケジュールの
毎日が続きます。バス、汽車、クルマ、飛行機と乗り継ぎ試合の毎
日でしたが、1951年ハワイでプロレスのトーナメントが行われ
るために地元ホノルルへ戻ります。

そこで、東京にあるトリイ・オアシス・シュラインクラブ(乱暴に
言うと一種の慈善団体)が戦争によって怪我をした子供たちのため
の募金5万ドルを集めるための慈善事業として、日本でプロレスを
行う予定のあることをハワイのプロモータのAL KARASICKから聞かさ
れます。慈善興業でもありましたがそれはまた日本の米軍基地の慰
問としてのプロレス興行でもありました。従って日系人のプロレス
ラーハロルド坂田の存在はアメリカ側にとっても都合が良かったの
でした。

ハワイ島を出た後、本土ではハロルドと呼ばれていたハロルド坂田は
この話に乗ります。当時のメンバーには世界チャンピオンでもあった
ボビー・ブランズも含まれていました。このツアーにはボクシングの
チャンピオン、ジョー・ルイスも参加しています。

こうしてハロルド坂田ら一行は1951年に戦後間もない東京へ
やって来るのです。ハロルド坂田もまだやっと30才を超えたばかり。
もっとも若い盛りでした。ここでハロルド坂田は初めて力道山と会う
ことになるのでした。

世間では(映画でもそうでしたが)力道山はハロルド坂田にナイト
クラブでコテンパンにされプロレスの強さに憧れハロルド坂田から
プロレスを教えてもらうことになっています。

しかし著者のJosephh R. Svinth氏によると、これはマスコミが宣伝
用にデッチあげた話で実際にはそんなことはなかった筈だ、と当時の
特殊な時代背景を説明しています

当時力道山は相撲を辞めて新田新作の世話で、新田建設の資材部
長をしたり明治座関係の仕事をしたりしていた頃です。進駐軍の
建築物関係の仕事や戦後の土木土建関係の仕事をGHQから新田
新作は独占的に請け負っていましたから、この線でプロレス興行
の話が相撲の興行に影響力のある新田新作の耳に届いたのかも知れ
ません。それで力道山に話が行く、と考えても不自然さはなさそう
です

これで力道山はプロレスに飛びつき手ほどきを受け、この年の
10月14日10分一本勝負でブランズと引き分けています。
これが力道山のデビュー戦ではないでしょうか。これには当時
プロ柔道の遠藤幸吉も参加していました。

このあとは力道山が日本のプロレスを興し発展させていくことに
繋がるのですが、華やかな表側の人気プロレスの裏側では、相撲
界を牛耳った新田新作から、山口組の組長田岡一雄と義兄弟の杯
の間柄で、美空ひばりをかかえる芸能プロ社長、永田貞夫への興
行権移譲や政界のフィクサー児玉誉志夫(東京スポーツの創立者
でもある)や、自民党副総裁大野伴睦をコミッショナーにし理事
にはヤクザの親分衆がずらりとならぶものすごいコーザ・ノスト
ラ的ワールドへと繋がって行きます。

アメリカ生まれのハロルド坂田にはこういった世界は理解し難い
ものだったの知れません。日本人同士のプロレスと同じでどこか
スカッとしたビジネスライクなものがなく、陰湿でドロドロした
印象だらけですが、その辺のところは顔だけ日本人の、考え方は
アメリカ人としてのプロレスラーハロルド坂田だっだのでしょうか。
それともこういう裏の世界までは顔を突っ込まないようにしていた
のかも知れません。

日本滞在の間ハロルド坂田は日本人の女性と結婚し二人の男の子
をもうけています。1954年生まれの男の子、Jonと1957年
生まれの女の子Glennaがそうです。旅を続けるプロレスラーの生活
は家を空けるこが多く彼の家庭は1960年の前半に崩壊していき
ます。この二人のその後は分かりません。年令から言ってもまだ健
在でしょう。父親の生まれたハワイにいるのでしょうか。

ハロルド坂田は、オーストラリアでトシ・トーゴーとしてプロレス
のツアーをやりその後ヨーロッパにいるときに、彼の出ているテレ
ビを見たプロデューサーのAlbert Broccoliの目にとまり、ジェー
ムスボンドの仇役手下の東洋人オッドジブのイメージにピッタリと
いうことで採用されます。

この映画「007ゴールドフィンガー」は世界的なヒットとなり彼
は一躍有名になったのです。

この映画の後で日本のリングではオッドジョブのギミックで登場し
ています。彼を一躍有名にしたこの役をよっぽど気に入っていたの
でしょう。

日活の「怒涛の男・力動山物語」以来2本目の映画になりますが
(この映画の中では、プロレスのトレーニングを見に来た力道山に、
ハロルド坂田は抱えあげられて投げられ、遠藤幸吉と共にプロレス
入門を許す役を演じてます。美空ひばりと同様にちょっこと出てい
るだけです。)007の映画が彼の俳優としての実質的な第一作と
言って良いでしょう。

映画の中でオッドジョブが感電死するシーンがあります。火花が飛
び散る場面です。ハロルド坂田によると、効果を出すために、見え
ないところからわざと大きな火花を飛ばしているのだけれど、これ
がまともに当たって火傷をした、すごい痛かった。と当時のことを
語っています。

ハロルド坂田は1964年の007の映画の後、20年にわたり
俳優としてTVや映画に結構出演しています。その多くは当たり役の
ゴールド・フィンガーのオッドジョブのような用心棒役がほとんど
で、オッドジョブのままで出ている映画もあります。

日本でも放映された探偵モノのTV映画「ハワイアンファイブオー」
にもゲスト出演していますが、私は見た記憶がないです。
早川雪洲がゲスト出演したTVシーズの西部劇は見た覚えがありますが。
ワゴントレイン・駅馬車というシリーズものの1時間モノだったよう
な気がします。ウェー古い!もう誰も知らないかも!

ハロルド坂田は1982年7月29日ホノルルにてガンで亡くなります。
62才の若さでした。

またまた長文になってしまいました。会社で書くのも楽じゃありません!


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12 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (リリィ)
2010-06-09 19:26:06
ハロルド坂田の弟 ノーマンさんから手紙を頂ました。
私は、坂田家とは、遠縁にあたり今年の1月3日に手島食堂の100歳の看板娘で食事にいらして インタビューを受けてらしたのを見て テレビ局に住所を聞き手紙を出しました。
とっても 喜んだ様子の手紙で 近いうちに写真を送るからと書いてありました。
返信する
ハロルド坂田 (nnakazawa)
2010-06-10 23:42:12
リリィ様

コメント有難うございます。
私もテシマ食堂でご飯を食べている
ノーマンさんをテレビで拝見いたしました。
個人的に面識はありませんが、ウエブ上で
ノーマンさんを存じ上げておりましたので
ちょっとビックリというか意外な驚きでし
た。今でもコーヒー農園に関わっていら
っしゃると思いますが、ご高齢なので
半分リタイヤーかも知れません。

ホロアロアのあたりは大変良いところですが
テシマさんを通り越してマナゴ食堂でつい
食べてしまいました。

今年の10月末あたりにまたハワイ島に
行くかもしれません。機会があればノーマン
さんにお会いできればとも思っていますが
スケジュールしだいです。

ハロルド坂田は日本が参加しなかった
オリンピックで銀メダルを取った日系の
スポーツマンです。もっと評価は高くても
良いと思いますし、日本人として誇っても
充分な人物だと感じています。

そのような人と親類関係にあるリリィさん
を羨ましく思います。

それでは、御免ください。
返信する
Unknown (リリィ)
2010-06-11 07:23:15
ノーマン坂田は、10月にロシアへ旅行すると手紙に書いてありました。
ノーマンさんのおばさまは、20年前に亡くなられ今は、東京と熊本に従兄妹がいます。
従兄妹も皆高齢です。
ハロルドが元気なころは、ハロルドの父母や兄弟や姉妹を連れて日本に来てたようでよくあってたようですけど 手紙も英語なので連絡も途絶えたようです。
ナカザワ様がハワイで会われるならノーマンの連絡先を教えてもいいですので 連絡ください。
返信する
Unknown (nnakazawa)
2010-06-11 21:03:30
2005年にホルアルアに行った時に
有名なピンクのイナバズ・コナ・ホテルの
中を見させて頂いたことがあります。
多分ノーマンさんのお宅はそこから近い
高台にあるのだろうと想像しております。
コナコーヒーフェスティバルも見て参りました。

ノーマンさんはそのコーヒーフェスティバル
の委員を長く勤められて、2007年には
人間国宝にも選ばれていらっしゃいます。

10月の末からのハワイ島行きを予定して
おりますので、このコーヒーのお祭りにも
行けるかと思いますが、まだ日程がはっきり
しておりません。時間が許すのであれば
是非お会いしたいとは思っています・・・

差し支えなければノーマンさんの住所を
教えて頂ければ幸甚です。

お気遣いに感謝します。有難うございます。

返信する
Unknown (リリィ)
2010-06-12 15:32:33
ノーマンの手紙によると ハロルドの長女は、一人は、43歳で6年前に亡くなって 一人は、俳優をやっていて コナに住んでます。
私の親戚も高齢になり ハロルド坂田の存在も忘れかけてるときに いつもなら昼寝の頃にテレビでノーマンを見てびっくりしました。
ノーマンの連絡先は、パソコン上には、載せたくないので 心何処というブログのアガタリョウさんに聞いてください。
ノーマンからメールがきて手紙のファイルが開けなかったときに転送で送ってますので アガタリョウでもブログが出てきます。
返信する
Unknown (nnakazawa)
2010-06-14 22:12:17
ハロルド坂田は1964年(昭和39年)
の映画ジェームズボンドの「ゴールド・
フィンガー」の当たり役オッドジョブで
世界的に有名になってからも、レスラーと
して昭和43年や昭和47年にも来日して
おります。多分それ以外にも私的来日はあったかと思います。

ボンド映画で有名になる前のハロルド坂田を
知るひとも少なくなって来ました。一時期
本名からヒネッて「トシ・東郷」とも
名乗っていたようですがもう大昔の話に
なりました。

ハワイ島へのスケジュールが固まりしだい、
「アガタリョウ」様にコンタクトしてみたい
と思います。

有難うございます。
返信する
Unknown (リリィ)
2010-06-18 20:55:36
アガタリョウさんには、連絡してありますけど管理者しか見えないコメントの設定は、出来ないんですか
今 ノーマンからの手紙の返事待ちです。
返信する
Unknown (nnakazawa)
2010-06-21 12:27:03
昨日の日曜まで仕事ですぐに返事が出せず
失礼しました。

「プロフィール」の下に「メッセージを送る」を設定しましたので、よろしければこちらを
ご利用下さい。設定したつもりでしたがどこかで忘れたか消してしまったか、定かでありません。

ご不便をおかけしました。
返信する
割り込み御免下さいませ。 (光ちゃん)
2010-11-24 19:11:25
大事なコメントのやり取りをなさっている中に、割り込みするみたいで申し訳ありません。

先日BS放送だったか、ハワイの日系人の番組がありました。最初はぼんやり見ていたのですが、こちらのコメント中の【手島食堂の100歳の看板娘】らしき方がお出になっていて、しかも「長兄が有名人です」というおじいちゃんも出てきました。
日本からお見合いでお嫁に行かれたご婦人たちもインタビューにお答えになっていましたし、コナのコーヒー農園や、日系人が創められたホテルなども登場し、ハワイに移住した一世、二世の方々の並々ならぬご苦労や艱難辛苦のお話に涙する番組でした。

つい先日にも『スミソニアン博物館「Art of gaman(我慢の芸術)」』という別な番組を見ていて、感銘を受けたばかりでしたのでなおのこと感心することばかりでした。

で、ふとこの番組はもしかしてと数日たった本日になって、このコメントのやり取りにたどり着いたのです。
私も米国本土の友人の数人は三世さんや、二世さんですので感慨深いものがあります。この方々は日本人の失われた古き良き素晴らしい慣習を残しておられ、私はいつも彼らに日本人の奥ゆかしく謙虚で立派な美意識を感じています。

ハワイからはお帰りになったのでしょうかね?わたくしの娘たちもいまハワイに行っています。
返信する
お元気そうですね。 (nnakazawa)
2010-11-24 21:37:36
ご無沙汰しております。

今回の旅行もハードでした。
一週間で約700キロを走る旅と
なりました。

ハワイ島へは日本人は明治維新から
移住をはじめております。官約移民
で国と国との間で始まりました。

その後民間ベースの移民となります
が、ハワイ島でも当初はきつい肉体
労働のさとうきび農業、後になって
コーヒー栽培と変わっていきます。

辛酸を舐めてやっと落ち着いたかと
思うと今度は戦争に米国人として
二世たちがヨーロッパ戦前に参戦。
全米で最も勇敢な日系人部隊として
今に名を残しております。

一世二世のひとたちの苦労を思い、
かつては日系人で賑やかだった町が
今やただ寂れて静かな町になっている
のを見ると心が痛むような、何とも
言えない複雑な心境になります。

Gaman は果たしてArtとなるかどうか
わかりませんが、彼らの苦節の歩み
には涙してしまいます。

テシマに登場した「おじいちゃん」は
ハロルド坂田の弟さんでノーマン坂田
です。現在ハワイの人間国宝に指定されて
おります。今回コナで会うことができました。

彼のみならず現地の二世の方々は古き良き
日本を心の中に持ち続けておられて、懐かしい
感覚を抱きます。こちらが恥ずかしくなる
ようなくらい日本的です。

今旅行記を急いでまとめておりますが、
近日中に彼のこともアップいたします
ので、お暇な折にでも覗いて見て下さい。

娘さんたちのハワイ旅行、良い思いでが
残ると良いですね。
返信する

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