仁左衛門日記

The Diary of Nizaemon

川上哲治物語 背番号16

2017年05月25日 | ムービー
川上哲治物語 背番号16』(1957年/滝沢英輔監督)を見た。
物語は、「昭和8(1933)年6月、全熊本小学校野球大会。大村尋常高等小学校の川上哲治(信田義弘)は三振11を奪う大活躍をした。父・伊兵次(河野秋武)は家まで取られる貧乏生活で、母・ツマ(高野由美)は高等科への進学を断念させるつもりだったが、土肥先生(葉山良二)と熊本後援会長・安西医師(深見泰三)の学費援助でなんとか熊本県立工業学校へ進学したのだった。全国中等学校優勝野球大会で2度の準優勝を果たし、同校を卒業した昭和13(1938)年に捕手・吉原正喜(宍戸錠)と共に東京巨人軍に入団した。ルーキーながら開幕戦から正捕手に抜擢された吉原に対し、球威不足を指摘されていた川上は、打撃のセンスをかわれ、藤本定義監督(二本柳寛)は投手と打者の二刀流で起用したのだった」という内容。
全熊本少年野球大会での大村校の選手は靴ではなく足袋。
普段は下駄ばきで、運動する時は足袋だったのだろう。
そういえば、仁左衛門が小学生だった昭和40年代は、普段は靴だったのに何故か運動会だけは足袋だった。
あれは戦前の体育競技というか、生活習慣の名残だったのか。
(^_^;)
当時の大学卒の初任給が65円だったのに対し、東京巨人軍に入団した川上選手は月給100円、支度金300円だったという。
「野球なんて遊びごとをしてて、本当にそんなにくださるんですかね」という気持ちは正直なところだっただろうと思う。
(^。^)
ただ、陰では「吉原と抱き合わせさ。刺身のツマみたいなものだよ」と言われていたようで、甲子園大会の準優勝投手で終わってしまったからか、評価はイマイチだったようだ。
"テキサスの哲"などと言われていたようだが、正一塁手・永沢富士雄の怪我の代役として一塁のポジションをつかんだ。
吉原捕手は残念ながら南方で戦死してしまったようだが、太平洋戦争では素晴らしい選手達が多数出征し、そして帰ってこなかった。
生きて帰ってこれた川上哲治選手(本人)は、昭和31(1956)年には日本初の2000本安打という大記録も打ち立て、"打撃の神様"とまで呼ばれることになるわけだが、そのような大選手になるとは、入団時に一体誰が想像しえただろうか。
野球選手に限らずだが、うまくいく人生もうまくいかない人生も、その分岐点は紙一重なのだろう。
さて、現在は"二刀流"と言えば大谷翔平選手(北海道日本ハム・ファイターズ)だが、職業野球と呼ばれていたプロ野球黎明期には随分と"兼業"の選手がいたようだ。
これは、当時、"打撃王"と呼ばれた川上哲治選手の半生を描いた物語。
本人役で川上選手自身が出演していたり、ナカナカに楽しめたのだった。
(^_^)

タケカズ少年のプロ野球コレクション(その10)ジャイアンツ川上

2013年04月14日 | 明治 大正 昭和のコレクション
『タケカズ少年のプロ野球コレクション』(その10)は、ジャイアンツ・川上選手の野球カード。
川上哲治(1920年~)氏は、左投げ左打ちの一塁手。
"赤バットの川上"として、"青バットの大下"、"物干し竿の藤村"と共に人気を集めていたらしいが、この野球カードも1949(昭和24)年のものだろうと思う。
調べてみると、川上選手は熊本県立工業学校(現熊本工業高等学校)在学時、夏の全国中等学校野球選手権大会(1934年・1937年)と春の選抜中等学校野球大会(1936年)でいずれも準優勝投手となり、同校卒業後、バッテリーを組んでいた同級生・吉原正喜氏と共に東京巨人軍(現読売ジャイアンツ)に投手として入団した。
昭和13年春シーズンの開幕第4戦・対名古屋金鯱軍(1938年5月9日/阪神甲子園球場)に「7番ピッチャー」でスタメン出場しているものの、実はその8日前・開幕第2戦(1938年5月1日/阪神甲子園球場)対阪急ブレーブス戦では「6番ファースト」で初スタメン出場を果たしており、入団当初から藤本定義監督に野手転向を勧められいたこともあって、同年秋シーズン開幕戦(1938年8月27日対南海ホークス/後楽園球場)からはほぼ一塁手として先発出場をしている。
投手としては通算4年・5シーズン(1938年春・1938年秋・1939~1941年)に試合出場し、登板39、11勝9敗(完投8、完封2)、投球回数200、勝率.550、防御率2.61、奪三振97(奪三振率4.37)の成績を残しているが、その間、1939(昭和14)年に首位打者(打率.338)と打点王(75点)、1940(昭和15)年に本塁打王(9本)、1941(昭和16)年に再度首位打者(打率.310)と打点王(57点)のタイトルを獲得している。
打者に専念したのは1942(昭和17)年のシーズンからのようだが、対大和軍(1942年9月16日/後楽園球場)を最後に先発出場記録は無く、戦後になって、対セネタース(1946年6月28日/後楽園球場)で再び出場を果たすまでプロ野球界から離れざるを得なかったようである。
復活後は、1948年・本塁打王(25本)、1951年に首位打者(打率.377/セントラルリーグ)、1953年にも首位打者(打率.347/セントラルリーグ)、1955年には首位打者(打率.338)と打点王(79点)に輝き、1954年にはサイクルヒットも記録している。
打者としての生涯成績(1938年~1942年・1946年~1958年)は、出場試合1979、打数7500、安打2351、本塁打181、打点1319、打率.313、出塁率.385、盗塁220(成功率73.3%)。
また、MVPを3回(1941年、1951年、1955年)、日本シリーズMVPを1回(1953年)、オールスターゲームMVPを1回(1951年第1戦)受賞し、1965年には野球殿堂入りも果たしている。
「ボールが止まって見える」という言葉はあまりにも有名だが、【打撃の神様】との称号はいつ頃から言われるようになったのだろうか。
川上選手の背番号16は、読売ジャイアンツの永久欠番となっている。