読書な日々

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「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」

2008年03月06日 | 作家サ行
桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』(富士見書房、2004年)

なんだかんだ言ったって、小説というものは現実を反映しているものだと思う。現実という言い方がまずければ、現実のとらえ方とでもいうものを。そう思えば、この小説も、けっして奇想天外ではなく、現実に足をつけたものの見方を提示しているのがすぐに分かる。だいたい登場人物も出来事も、けっしてありえないことではなく、まさにありそうなことばかりだ。ただこの少女趣味的な、オタク的なイラストが、それを捻じ曲げている、というか別のベクトルを強く押し出しているために、それが見えてこないだけだろう。

漁師だった父親を遭難で失い母親が生活保護を受けながら、その収入とパートによるごくわずかの収入で生活している山田なぎさの家族。兄の友彦は引きこもりになり、なぎさに言わせれば「貴族」のようになっている。でも彼だけがなぎさの精神的な平衡感覚を保たせてくれる存在なのだ。

そしてなぎさの中学に転向してきた海野藻屑。この町の出身で東京に出て人気歌手として有名になったが今はそのブームも去って戻ってきた海野雅愛とともにやってきた少女。父親の暴力を小さな頃からうけ耳は片方が聞こえず股関節を傷めたために障害をもち障害者として認定されている。しかしストックホルム症候群を示し、けっして父親が悪いとは思っていない。自分は人魚だと思うことで現実から逃避している。

場所は境港のある中学というように実在する町を指定している。近くに自衛隊の基地があるとか港町だとか、実在する境港を示すような説明もあるが、ばらばらにされた藻屑の飼い犬を探しに行ったり、藻屑自身が父親にばらばらにされて捨てられる蜷山は、ちょっと歩いていけるようなところにあるように書かれているが、現実の境港は夜見が浜半島という砂州の先端にある町なので山は存在しない。対岸にある島根半島の山なのかという気もするが、冬に雪が降ってスキーができるような山はないから、このあたりにあるそのような山といえば大山しかない。しかし境港からすぐに歩いていけるような山ではない。また彼らが映画を見に行く場面が出てきて、たぶん米子のことを指していると思われるが、山の奥からずっと出てきたバスに乗ってその町の駅前に行くような描写になっているのも位置関係からすると現実とは違う。

もちろん小説の舞台が現実と違うのは当たり前で、私がここであれこれと指摘をしたのは、境港と冒頭で現実の町が指定されているけれども、小説の舞台は実際には現実の町ではないということを指摘しておきたいからだ。なぜそんなことをするのか?なぜ現実に存在する町を指定しておいて、実在しない町を描いているのか?そこのところが分からない。

この小説がいったいだれをターゲットにして書かれたものなのだろうか?もちろん作者の意図はあるだろう。だがこのイラストを見る限りでは小学生から中学生あたりだろう。とても50歳を超えた私なんかに読んでもらいたいと思っているのではないことははっきりしている。そのわりにはこの現実離れしたイラストとその小説のじつに現実に密着した内容は、まったくミスマッチのように思える。それとも現代の小学生中学生はこういうちぐはぐな、つまり現実を現実としては見ないような生き方をしているのだろうか。そうだとするなら、本当に恐ろしい話だ。

登場人物たちは、私にはみんなまともな人間たちに見える。ただ一人海野雅愛以外は。なぎさはもちろんのこと、なぎさと藻屑のあいだに割り込んでこようとする花名島だって、なぎさの担任だって、みんなまともだ。みんなまともだから異常な事件が起きないわけではない。この小説のおそろしいところは、そうしたまともな人間たちの世界に少数存在する海野雅愛のような人間の異常さをまともな人間たちの根底にもあるかのような描き方をしていることだ。砂糖菓子だとか弾丸だとかという言葉をなぎさに口にさせることで。

しかし本当は彼らはみんなまともなのに、なぜそんな風に異常が人間存在の根底にあるような描き方をするのか。「現代の病理」?

そういう意味では作品そのものの成立要件がホラー的と言えるのかもしれない。

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