人は音楽に何を聞いてるのか、
とゆうのは前々から興味のあることでしたが、
これはなかなか難しい問題です。
メロディがあれば音楽になるかと言うと、
案外そうでもなくて、
音階が出せない楽器の演奏に、
グイっと引き込まれることがあります。
ドラムのソロなんかがそうですね。
じゃあ、リズムさえあればいいのか?
そうゆうわけでもない。
リズムを感じさせない、
ただただ、音がにじみ出てくるように、
空間の中へと広がっていく、
そうゆう音楽もあるからです。
そして、それはそれで、
とても気持が良いもんなんですね。
音楽自体にもいろんな種類がありますが、
それを聞く人たちにもいろんな人がいる。
好きになった音楽については、
徹底的に調べなきゃ気が済まない人もいれば、
自分の知り合いが舞台に立ってるのを見に来ただけで、
音楽には全然興味なんてない人もいる。
(ピアノの発表会の大半がこれですね)
こうなると、
「音楽に何を聞く?」とゆう問いは、
成立しないのかもしれません。
つまり究極的に言ってしまえば、
「人は何も聞いてない」
とゆうことなのかもしれない。
しかし、実際のところ、
我々の耳には何か音が聞こえてるんですよね。
鼓膜はちゃんと振動してる。
「聞いて」はいませんが「聞こえて」はいるんです。
言葉遊びに過ぎないように思われるかもしれません。
しかし、この言葉の違いは案外大きいような気がします。
それは例えるなら、
隣りに座ってる友達の話を親身になって聞いてるのか、
それとも、ただ聞こえてるだけなのか、
その違いと変わるところがないように思います。
何かが分かり合えた時の喜びは、
言葉にせよ音にせよ、大きなものだと思うのです。
分かり合いたいから、聞こうとするのではないかと。
こうしてみると、
「我々は音楽に何を聞くのか」とゆう問いは、
「我々は音楽に何を聞きたいのか」と言い換えられるでしょう。
それは多分に主観的なものでしょう。
しかし、人間程度が抱く主観に、
それほど多くの種類があるとは思えません。
その意味で、これには、
ある程度の答えが出せるような気がするのです。
もっとも、それには長い付き合いを要するようではありますが。
とゆうのは前々から興味のあることでしたが、
これはなかなか難しい問題です。
メロディがあれば音楽になるかと言うと、
案外そうでもなくて、
音階が出せない楽器の演奏に、
グイっと引き込まれることがあります。
ドラムのソロなんかがそうですね。
じゃあ、リズムさえあればいいのか?
そうゆうわけでもない。
リズムを感じさせない、
ただただ、音がにじみ出てくるように、
空間の中へと広がっていく、
そうゆう音楽もあるからです。
そして、それはそれで、
とても気持が良いもんなんですね。
音楽自体にもいろんな種類がありますが、
それを聞く人たちにもいろんな人がいる。
好きになった音楽については、
徹底的に調べなきゃ気が済まない人もいれば、
自分の知り合いが舞台に立ってるのを見に来ただけで、
音楽には全然興味なんてない人もいる。
(ピアノの発表会の大半がこれですね)
こうなると、
「音楽に何を聞く?」とゆう問いは、
成立しないのかもしれません。
つまり究極的に言ってしまえば、
「人は何も聞いてない」
とゆうことなのかもしれない。
しかし、実際のところ、
我々の耳には何か音が聞こえてるんですよね。
鼓膜はちゃんと振動してる。
「聞いて」はいませんが「聞こえて」はいるんです。
言葉遊びに過ぎないように思われるかもしれません。
しかし、この言葉の違いは案外大きいような気がします。
それは例えるなら、
隣りに座ってる友達の話を親身になって聞いてるのか、
それとも、ただ聞こえてるだけなのか、
その違いと変わるところがないように思います。
何かが分かり合えた時の喜びは、
言葉にせよ音にせよ、大きなものだと思うのです。
分かり合いたいから、聞こうとするのではないかと。
こうしてみると、
「我々は音楽に何を聞くのか」とゆう問いは、
「我々は音楽に何を聞きたいのか」と言い換えられるでしょう。
それは多分に主観的なものでしょう。
しかし、人間程度が抱く主観に、
それほど多くの種類があるとは思えません。
その意味で、これには、
ある程度の答えが出せるような気がするのです。
もっとも、それには長い付き合いを要するようではありますが。










