『島田裕巳の日本仏教史 裏のウラ』(佼成出版社)に、葬式仏教の元祖として、曹洞宗の瑩山紹瑾((けいざん じょうきん、1268年11月21日―1325年9月29日)が紹介されていました。
瑩山紹瑾((けいざん じょうきん、1268年11月21日―1325年9月29日)という人があらわれます。多くの方は、初めて聞いた名前かもしれませんが、曹洞宗では、道元を[高祖]と呼ぶのに対して、瑩山紹瑾を「太祖」と呼んでいます。道元と紹瑾は、いわば曹洞宗の二枚看板だったわけです。
瑩山紹瑾は宗教家である一方で、経営者だったのかもしれません。道元は、もっぱら修行のことだけを考えていて、いかに悟りに近づくかだけを求めていました。
紹瑾は、そうした道元とは異なり、修行道場としての永平寺を経済的に支えるためのシステムを作り上げました。
どうやったかと言うと、兼修の伝統に戻って密教を取り入れていったのです。つまり、坐禅だけを行なうのではなく、密教の儀礼を導入して、祈祷を中心とした儀式を開拓していきます。そのときに。紹瑾は、それまでなかった仏数式の葬儀を編み出します。 仏教式の葬儀を編み出す際に、紹瑾は道元の「永平清規」にならって、[瑩山清規]を作ります。これは中国の「禅苑清規」をもとに書かれたものです。「禅苑清規」には、すでに悟りを開いた僧侶のための葬儀である「尊宿葬儀澎」と、修行中の雲水のための葬儀である[亡僧葬儀法]の二つのやリ方が示されていました。そこで紹瑾は、後者の「亡僧葬儀法」を一般の在家の人の葬儀に応用しました。雲水は。正式な僧侶になっていないという点で、俗人と近い立場にあったからです。(以上)
鎌倉時代から葬式仏教が始まったことと、曹洞宗から始まったことは意外でした。ご紹介までに。
瑩山紹瑾((けいざん じょうきん、1268年11月21日―1325年9月29日)という人があらわれます。多くの方は、初めて聞いた名前かもしれませんが、曹洞宗では、道元を[高祖]と呼ぶのに対して、瑩山紹瑾を「太祖」と呼んでいます。道元と紹瑾は、いわば曹洞宗の二枚看板だったわけです。
瑩山紹瑾は宗教家である一方で、経営者だったのかもしれません。道元は、もっぱら修行のことだけを考えていて、いかに悟りに近づくかだけを求めていました。
紹瑾は、そうした道元とは異なり、修行道場としての永平寺を経済的に支えるためのシステムを作り上げました。
どうやったかと言うと、兼修の伝統に戻って密教を取り入れていったのです。つまり、坐禅だけを行なうのではなく、密教の儀礼を導入して、祈祷を中心とした儀式を開拓していきます。そのときに。紹瑾は、それまでなかった仏数式の葬儀を編み出します。 仏教式の葬儀を編み出す際に、紹瑾は道元の「永平清規」にならって、[瑩山清規]を作ります。これは中国の「禅苑清規」をもとに書かれたものです。「禅苑清規」には、すでに悟りを開いた僧侶のための葬儀である「尊宿葬儀澎」と、修行中の雲水のための葬儀である[亡僧葬儀法]の二つのやリ方が示されていました。そこで紹瑾は、後者の「亡僧葬儀法」を一般の在家の人の葬儀に応用しました。雲水は。正式な僧侶になっていないという点で、俗人と近い立場にあったからです。(以上)
鎌倉時代から葬式仏教が始まったことと、曹洞宗から始まったことは意外でした。ご紹介までに。