仏教を楽しむ

仏教ライフを考えるコラムです。浄土真宗本願寺派僧侶

一人ではない

2017年03月08日 | 日記
2017年3月5日のNHKラジオ『深夜便』「明日へのことば」は、藤井理恵(淀川キリスト教病院)さんで「人生の最期に寄り添って」で印象的な話でした。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/search?updated-min=2017-01-01T00:00:00%2B09:00&updated-max=2018-01-01T00:00:00%2B09:00&max-results=50
参考。

何人か、死の恐怖が安らいだという方の紹介をされていました。


69歳の男性の方、重たい病気で片足を切断している男性、病気の経緯を話してぽろぽろ涙を流して、だんだん悪くなって死を迎えてしまうんだ、とグルグル頭が回って病気の苦しみを訴えてこられた。
ある時、一緒に聖書の詩篇23篇という有名な個所を読みました。
「死の影の谷を行く時も私は災いを恐れない。あなたが私とともにいて下さる」
人生のどうにもならない苦しみに行かない事を願うのではなくて、たとえ行ったとしてもそこで必ず一緒にいて下さる神様が守ってくださるという事で、その安心感だと思います。
その方が、もう治りたいと思わなくなりました、心が安らかなのが何より幸いですといいました。


死の恐怖の苦しみで辛い思いをしていて45歳の女性の方、余命一月と宣告されてきました。
夫、娘3人を持つ母親ですが、宗教は支えにならないと言いチャプレンとは会いませんでしたが、死と子供に対する不安から自分の気持ちを抑えきれなくなります。
極限まで追い詰められて、接することになりました。
人とのつながりではどうにもならない限界にきていて、そんな時にその人の部屋に行く事になりました。
私は死刑囚のようだと叫んで、死にまつわる不安がいろいろ出てきました。
その時、ヨハネによる福音書を読みました。
「私を信じる者は死んでも生きる」
存在はなくならないということですね。
肉体は死んでゆくが、その人の存在自体は無になるわけではない。
神様のところで新しい命が生きるという事を伝えました。
絶望から希望に変わったと思います。
死を恐れていたのに葬式の相談をしました。

以上

死というのは人をして覚醒させる縁となります。それはどうにもならないという状況下にあって、どうする必要もない世界へ開かれるということです。自力無効の体験が、一人で居ても一人でないという広い世界に開かれるということがあるようです。

その契機となるのが、一人ではないという自分を超えたところから届くられる言葉によるのでしょう。
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