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仏教ライフを考える西原祐治のブログです

正しい絶望のすすめ⑳

2018年02月10日 | 正しい絶望のすすめ
正しい絶望のすすめ⑳

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。

仏さまは、すべての人が安らぎと悦びと包まれることを願っています。その仏さまの働きによって、安らぎと悦びの世界におさめ取られるという心が湧きおこるそのとき、迷い多きこの身のままに、比べることのできない慈しみの大地に立った人生が開かれていきます。


“ロゴセラピー”といいうものがあります。アウシュビッツの体験談「夜と霧」の作者である精神科医・哲学者、ヴィクトール・E・フランクルが創始した精神療法です。
「ロゴ」とは、ギリシャ語のロゴスに由来し「意味」を表します。ロゴセラピーにおいて、自分の人生に「意味」を見出そうとする意志は、人間の根源的な動力であるという。
 フランクルの言葉に「人生から私たちがまだ何を期待できるか。ではなく、むしろ人生が私たちに何を期待しているかが問題である」とありあます。人間とは、「意味」によって方向づけられた存在であるとのことです。
 
「3人のレンガ職人」の話があります。
 3人のレンガを運ぶ仕事をしている人がいた。一人は、とてもつまらなそうにレンガを運んでいる。その人に、何をしているのですかと聞くと「レンガをただ運んでいるだけです」とつまらなそうに言う。
 2人目の人は、がんばってレンガを運んでいた。その人に、何をしているのですかと聞くと、「今、壁をつくっていて、このレンガはその壁につかわれるのです」と言った。
 3人目の人は、とても楽しそうにレンガを運んでいた。その人に、何をしているのですかと聞くと、「今、世界一のお城をつくっていて、このレンガはそのお城の壁に使われるのです!!」と、とても楽しそうに話していた。(以上)
しかしわたしが通常理解する意味の世界は、わたしの経験値のもとづくので、無→有、苦→楽、無価値→価値という具合に、プラス思考を越えることはできません。わたしの思い通りになったところに意味を見出す考え方です。
 
仏教が教えている覚りは、プラス思考ではなく、プラス、マイナスからの超越です。たとえば仏さまのおさとりの内容を示した言葉に「一切皆苦」があります。「一切は苦である」というと、人生を否定した敗退的な理解のように思われるかも知れません。「一切は苦である」とは、「すべてのものは執着すべき価値がない」ということです。“苦しみ”イコール“思い通りにならない”イコール“すべては思い通りのならないものとして存在している”という真理を開かれた言葉です。思い通りになったことの中に生きがいを見出すのではなく、思い通りになれというわたしを手放すことです。

 レンガが職人の続きがあります。4人目のレンガ職人にたずねると、「レンガを一つ積むたびに、大自然の恵みに感謝しています。つらい時は愚痴も出ますが、愚痴のまんまを神にゆだねて生きた」という。これはわたしの創作です
思い通りになれというわたしを、どう手放すか。この働きが「如来の恩徳」です。恩徳とは、覚りの境地のそなわっている三種の徳で、分別を超越した智徳、煩悩を断じ尽した断徳、人々を救うためにはたらく慈悲を恩徳といいます。如来の人々を救おうとする願いとはたらきは、涅槃そのものに具わっている徳であり、その功徳が言葉として表現されたのが、阿弥陀如来の救いです。救われなければならない存在として、自分を受け入れていくということです。
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