○傍系男子皇族の悩み
前回の記事にて,今上陛下による新しい天皇制の形への模索とその苦悩について述べたが,それは自らの存在意義の解釈に関わる苦悩であるとも言い得る。
ただ,自らの存在意義の解釈に関わる苦悩という点では,傍系の男子皇族の苦悩という問題も,見落としてはならないものであり,そして,ある意味,それはより深刻なものであるといえるであろう。
男子皇族は,生まれながらに皇族であり,そして,婚姻後も皇族であり続けるわけであり,その人生は,常に,皇族としての規制が伴うものである。
皇族であることによる特権というものもあるにせよ,その特権ですら,皇族として存在しなければならないという規制の一部であるわけである。
そして,ここからが悩ましいところであるが,そのような規制が存在する中で,それでは「皇族」とは何なのかとなると,まったく曖昧な話になってしまうのである。
「天皇」については,一応,「象徴」という概念が憲法で定められている。
しかしながら,「皇族」とは何かとなると,どこにも定めはない。
もちろん,「皇族」という概念については,「天皇」の血族として「天皇」を助ける存在であるというのが取りあえずの答えではあろう。
ただ,そもそも,象徴としての「天皇」という概念自体が曖昧であるし,また,「天皇」を助ける存在であると言ってみたところで,具体的にどのようにお助けするのかとなると,現在においてはかつてのような皇室令の体系も失われており,それまた曖昧になってしまっているわけである。
さらに,天皇,あるいは,将来皇位を継承することが確実な直系長子の男子皇族であるならば,曖昧ながらも「象徴」という立場の出番というものはある。
ただ,傍系男子皇族については,そのような出番は(余程のことがない限りは)ないわけである。
傍系男子皇族というのは,曖昧な概念によって存在意義の規制を受けるだけではなく,そこに,出番の見込みは無いのだという,自らの存在意義に関する何ともネガティブな規制をも受けてしまうわけである。
その境遇は,例えれば,温かい牢獄とでもいうべきものであろうか。
そこには,確実な保護があるわけではあるが,そこから逃れることは許されず,ひとたび自らの存在意義について考えを巡らせたとき,必然的に,深い悩みに陥らざるを得なくなるのではないか。
○傍系男子皇族の自己主張
さて,曖昧な概念によって自らの存在意義の規制を受け,さらには,出番の見込みはないというネガティブな規制をも受けるとなれば,人間の心理として,屈折したものを生じることとなるとしても,やむを得ないことであろう。
その屈折の表れ方としては,ワルっぽく,不良っぽく振る舞うというのは,極めて分かりやすい例であると言えるであろう。
それは,皇族という概念への反抗であり,自己主張のための反抗であるわけである。
そして,自己主張のための反抗である以上は,そこには甘えの要素が伴うことともなろう。
その典型は,制度上も困難で,周囲から止められることを十分に承知した上での,皇籍離脱発言ということになるであろうか。
ここで,甘えという言い方は,酷であるかもしれない。
本人としても,そのような振る舞いを甘えであると認識し,それではいけないと思い直すことはもちろんあるであろう。
ただ,思い直してみたところで,それでは何か道が開けるかとなると,それもなかなか難しいのではないか。
そこには,温かい牢獄の壁が,厳然と存在しているわけなのである。
もちろん,温かい牢獄の壁に対し,別な向き合い方というものもあるであろう。
一つには,超人的に仕事をこなして,その仕事の中に,自らの存在意義を見出すという生き方があるであろう。
それは牢獄に対する超越の試みであると言い得る。
また,もう一つには,それとは逆のベクトルで,いわゆる隠遁者のようになって,自らの存在意義の葛藤に囚われない在り方を求める生き方もあるかもしれない。
実際には,それぞれの個性によって,これらの向き合い方が重なった形になったり,あるいは揺れたりということがあるかもしれない。
○皇族という存在の再評価
筆者としては,生まれ持った境遇とそれに伴う自らの存在意義に関する悩みということについては,皇族に限るものではないと思う。
それは,多かれ少なかれ,誰にでもあるものであろう。
それ故に,過剰に同情するのも不適切なことであり,また,失礼なことでもあろう。
ただ,皇族という存在が,象徴天皇制という国家の制度に伴うものである以上は,その境遇に思いをめぐらすことも,必要なことではないかと思うのである。
ただ,思いをめぐらしてみたところで,具体的な解決策となると,なかなか難しい。
皇族という立場に積極的な存在意義を与えるとすれば,一つには,統治機構の中における公的な役割・権限の創設ということが考えられるけれども,現行憲法を前提にする限りは,困難なことであろう。
可能性があるのは,あくまで事実上の役割の付与ということであり,要するに,皇室内部において,「天皇」を助けるということのシステム化,充実化ということが考えられるわけである。
例えば,皇族をご名代として海外に派遣する機会を増やしたり,ある分野のご奨励などを大幅に任せたりだとかもあるであろう。
あるいは,皇族の方々が独自に行われている個々の活動について,皇室全体にとっても意義のある活動であるとの評価を与え,役割としての位置づけを付与するという方法もあるであろう。
後者の方が,皇族の方々の個性を生かすことができ,よりふさわしい方法であるかもしれない。
ただ,このように皇室内部のこととなると,外からは手の届かない世界の話ということになり,まずは,皇室の長である「天皇」にリーダーシップを発揮してもらうということが必要となる。
さて,ここで,「天皇」のリーダーシップということであるが,これがまた大きな問題であるかもしれない。
実のところ,筆者としては,随分と長いこと,そのようなリーダーシップは当然に存在しているのであろうと思い込んでいたのである。
ただ,今にしてみれば,間違いであったと認めざるを得ないのであろう。
例えば,孫にもっと会いたいというようなことについてさえ,わざわざ宮内庁長官に言わせているような現状があるのだから,皇族の役割に関するリーダーシップの発揮など,望めるような状態ではないのではないか,ということである。
筆者の勝手な主観であるのだが,どうも,今上陛下は,皇室の中でもちろん最高位にあり,そして,その位に相応しい在り方の追求に熱心でおられ,それは素晴らしいことであると思うのだけれども,ただ,皇室の長としての役割は,十分には発揮されておられないように感じるのである。
それには,おそらく幾つかの理由があり,一つには,新しい憲法下の「天皇」の概念において,統治者,支配者という意味合いが薄められ,除かれたということがあるのかもしれない。
そのような傾向が,「天皇」が皇室内部に向き合う際にも,持ち込まれてしまったのかもしれない。
また,もう一つには,新しい天皇制の形を構築する上で,もっぱら「天皇」としての自らの活動の在り方を追及するあまり,皇族を自らのサポート役として活用するということについてまでは,考える余裕がなかったということかもしれない。
これらの理由については,それぞれやむを得ないところがあったであろうと思うし,また,天皇皇后両陛下がとにかく前面に立つというスタイルも,これまでは,意義があったと思うのである。
ただ,今や,これまでのスタイルについては,(その路線をいくら強化したところで)通用しなくなりつつあるのであり,これまでに見落とされていた矛盾や歪みというものに対し,いよいよ目を向けなければならない状況になっているのではないかと思うのである。
(つづく)
前回の記事にて,今上陛下による新しい天皇制の形への模索とその苦悩について述べたが,それは自らの存在意義の解釈に関わる苦悩であるとも言い得る。
ただ,自らの存在意義の解釈に関わる苦悩という点では,傍系の男子皇族の苦悩という問題も,見落としてはならないものであり,そして,ある意味,それはより深刻なものであるといえるであろう。
男子皇族は,生まれながらに皇族であり,そして,婚姻後も皇族であり続けるわけであり,その人生は,常に,皇族としての規制が伴うものである。
皇族であることによる特権というものもあるにせよ,その特権ですら,皇族として存在しなければならないという規制の一部であるわけである。
そして,ここからが悩ましいところであるが,そのような規制が存在する中で,それでは「皇族」とは何なのかとなると,まったく曖昧な話になってしまうのである。
「天皇」については,一応,「象徴」という概念が憲法で定められている。
しかしながら,「皇族」とは何かとなると,どこにも定めはない。
もちろん,「皇族」という概念については,「天皇」の血族として「天皇」を助ける存在であるというのが取りあえずの答えではあろう。
ただ,そもそも,象徴としての「天皇」という概念自体が曖昧であるし,また,「天皇」を助ける存在であると言ってみたところで,具体的にどのようにお助けするのかとなると,現在においてはかつてのような皇室令の体系も失われており,それまた曖昧になってしまっているわけである。
さらに,天皇,あるいは,将来皇位を継承することが確実な直系長子の男子皇族であるならば,曖昧ながらも「象徴」という立場の出番というものはある。
ただ,傍系男子皇族については,そのような出番は(余程のことがない限りは)ないわけである。
傍系男子皇族というのは,曖昧な概念によって存在意義の規制を受けるだけではなく,そこに,出番の見込みは無いのだという,自らの存在意義に関する何ともネガティブな規制をも受けてしまうわけである。
その境遇は,例えれば,温かい牢獄とでもいうべきものであろうか。
そこには,確実な保護があるわけではあるが,そこから逃れることは許されず,ひとたび自らの存在意義について考えを巡らせたとき,必然的に,深い悩みに陥らざるを得なくなるのではないか。
○傍系男子皇族の自己主張
さて,曖昧な概念によって自らの存在意義の規制を受け,さらには,出番の見込みはないというネガティブな規制をも受けるとなれば,人間の心理として,屈折したものを生じることとなるとしても,やむを得ないことであろう。
その屈折の表れ方としては,ワルっぽく,不良っぽく振る舞うというのは,極めて分かりやすい例であると言えるであろう。
それは,皇族という概念への反抗であり,自己主張のための反抗であるわけである。
そして,自己主張のための反抗である以上は,そこには甘えの要素が伴うことともなろう。
その典型は,制度上も困難で,周囲から止められることを十分に承知した上での,皇籍離脱発言ということになるであろうか。
ここで,甘えという言い方は,酷であるかもしれない。
本人としても,そのような振る舞いを甘えであると認識し,それではいけないと思い直すことはもちろんあるであろう。
ただ,思い直してみたところで,それでは何か道が開けるかとなると,それもなかなか難しいのではないか。
そこには,温かい牢獄の壁が,厳然と存在しているわけなのである。
もちろん,温かい牢獄の壁に対し,別な向き合い方というものもあるであろう。
一つには,超人的に仕事をこなして,その仕事の中に,自らの存在意義を見出すという生き方があるであろう。
それは牢獄に対する超越の試みであると言い得る。
また,もう一つには,それとは逆のベクトルで,いわゆる隠遁者のようになって,自らの存在意義の葛藤に囚われない在り方を求める生き方もあるかもしれない。
実際には,それぞれの個性によって,これらの向き合い方が重なった形になったり,あるいは揺れたりということがあるかもしれない。
○皇族という存在の再評価
筆者としては,生まれ持った境遇とそれに伴う自らの存在意義に関する悩みということについては,皇族に限るものではないと思う。
それは,多かれ少なかれ,誰にでもあるものであろう。
それ故に,過剰に同情するのも不適切なことであり,また,失礼なことでもあろう。
ただ,皇族という存在が,象徴天皇制という国家の制度に伴うものである以上は,その境遇に思いをめぐらすことも,必要なことではないかと思うのである。
ただ,思いをめぐらしてみたところで,具体的な解決策となると,なかなか難しい。
皇族という立場に積極的な存在意義を与えるとすれば,一つには,統治機構の中における公的な役割・権限の創設ということが考えられるけれども,現行憲法を前提にする限りは,困難なことであろう。
可能性があるのは,あくまで事実上の役割の付与ということであり,要するに,皇室内部において,「天皇」を助けるということのシステム化,充実化ということが考えられるわけである。
例えば,皇族をご名代として海外に派遣する機会を増やしたり,ある分野のご奨励などを大幅に任せたりだとかもあるであろう。
あるいは,皇族の方々が独自に行われている個々の活動について,皇室全体にとっても意義のある活動であるとの評価を与え,役割としての位置づけを付与するという方法もあるであろう。
後者の方が,皇族の方々の個性を生かすことができ,よりふさわしい方法であるかもしれない。
ただ,このように皇室内部のこととなると,外からは手の届かない世界の話ということになり,まずは,皇室の長である「天皇」にリーダーシップを発揮してもらうということが必要となる。
さて,ここで,「天皇」のリーダーシップということであるが,これがまた大きな問題であるかもしれない。
実のところ,筆者としては,随分と長いこと,そのようなリーダーシップは当然に存在しているのであろうと思い込んでいたのである。
ただ,今にしてみれば,間違いであったと認めざるを得ないのであろう。
例えば,孫にもっと会いたいというようなことについてさえ,わざわざ宮内庁長官に言わせているような現状があるのだから,皇族の役割に関するリーダーシップの発揮など,望めるような状態ではないのではないか,ということである。
筆者の勝手な主観であるのだが,どうも,今上陛下は,皇室の中でもちろん最高位にあり,そして,その位に相応しい在り方の追求に熱心でおられ,それは素晴らしいことであると思うのだけれども,ただ,皇室の長としての役割は,十分には発揮されておられないように感じるのである。
それには,おそらく幾つかの理由があり,一つには,新しい憲法下の「天皇」の概念において,統治者,支配者という意味合いが薄められ,除かれたということがあるのかもしれない。
そのような傾向が,「天皇」が皇室内部に向き合う際にも,持ち込まれてしまったのかもしれない。
また,もう一つには,新しい天皇制の形を構築する上で,もっぱら「天皇」としての自らの活動の在り方を追及するあまり,皇族を自らのサポート役として活用するということについてまでは,考える余裕がなかったということかもしれない。
これらの理由については,それぞれやむを得ないところがあったであろうと思うし,また,天皇皇后両陛下がとにかく前面に立つというスタイルも,これまでは,意義があったと思うのである。
ただ,今や,これまでのスタイルについては,(その路線をいくら強化したところで)通用しなくなりつつあるのであり,これまでに見落とされていた矛盾や歪みというものに対し,いよいよ目を向けなければならない状況になっているのではないかと思うのである。
(つづく)










しばしば言及させて頂いている福田和也氏の『美智子皇后と雅子妃』、この最終章で、皇太子殿下は従来の皇室の徳である「仁」から「愛」へ踏み出し、皇室を変革しようとされている、という旨を書いています。皇太子が語った「愛」は象徴天皇制に終止符を打つものかもしれない、とも書かれています。西田様の記述と合わせ、いろいろ考えさせられます。
仁から愛へー男子のいらっしゃらない皇太子御夫妻は、「仁」の字を使うことがお出来にならなかった代わり、御長女の姫様に、「愛」子と名付けられました。宮内庁の発表でこのお名前に初めて接しました時は、「なんとお可愛い御名をおつけになられたことか。」と、普通に胸が熱くなりました。今、正に「愛子」様としてご成長あそばされていらっしゃいます。しかし、今、改めて思いますと、両殿下は、本当に深い思いを込めて、この御名をつけられたのかもしれないと思われます。
「愛」という言葉ー自分自身は、朴念仁のせいか、愛だの恋だのという言葉は、どうも苦手であります。見た目、甘えた感じがありますし、気恥ずかしく。(今は、それ以上に、「慈愛」という言葉に怖気が立ちます。)しかし、実は、なかなか難しい言葉です。
私の認識では、これはとてもキリスト教的な言葉で、聖書によく見るように思われます。大昔ですが一時期、よく聖書を読んでいたとき、修道尼から次のような言葉をもらいました。「キリスト教が日本に伝わり、聖書を日本語訳する時、何に困ったかというと、現在使っている「愛」を、どう訳したらよいかということだったのです。日本にはない価値観でしたから。ですから、伝わった当時は「お大切」という言葉を使ったのです。こちらの方が、キリスト教のいう「愛」の性質をよく言い当てています。あなたのように、「愛」という言葉に気恥ずかしさを感じるなら、この「お大切」で理解なさるといいです。」
皇太子御夫妻が、「愛子」という御名と共に、もしかすると新しい皇室の徳として心しようとされた「愛」は、そして、実際御一家で体現されていらっしゃる「愛」は、キリスト教的という意識の有無はともかくとして、この「お大切」という考えに近いものなのではないかと思われます。そう考えてみると、しっくり来るものがあります。相手を大切に思う心、敬う心があれば、この殺伐とした世の中、生きてゆけるのではないかと。価値観を同じくする者同士は確かに仲良く出来ます。が、価値観を違える者は、排除するのでなく、その者も大切に思い、敬意を払えば、仲良くすることは出来ずとも、共存することが出来ます。話し合う余地も生まれます。愛子内親王殿下のお生まれになった年は、あの9.11が起こった年です。これからの世界が、どうなっていくのか、大きな不安と緊張感に満ちた年でした。これからの価値観が多様する世界で現実に生きていくにあたり、どうしたらよいか。大切なのは、慈愛でも祈りでもなく(と御夫妻が考えられたとは思いませんが)、愛=周りを大切に思う心・敬う心、と考えられ、お子様の御名前に託されたのではと想像します。皇太子御夫妻、やはり大変な見識をお持ちと思わざるを得ません。一見、容易そうであるのもみそであるように思われてなりません。誰もが親しめる、とっつき易い言葉。しかし、深い意味合いを持つ言葉。卑近な視点から、より広い視野への扉を開く言葉。そして確かに我々は皇太子御一家の「愛」に溢れた御姿から安らぎと英気を頂けるのです。
ところで現在の皇室の長である方々。「愛」が、感じられないのです、まるで。慈愛だの祈りだの大義名分振り回して大騒ぎなさる割に。俗な言葉で解決するのは、不本意極まりないと思われるかと思いますが、今現在のご皇室のこの惨状、上にいる方々に「愛」のかけらもないことが、原因の全てと思います。身近な家族にあのような仕打ちをする方が、どうやって民草を、世界の人類を慈しめるのか。信用出来ないのです。そして、昔と違い、「格差」に敏感になっている今の民草は、ただ馬鹿にされているようにしか思えなくなるのです。
「象徴」であるべき立場なら、「手本」となって頂きたい。そうであるにはどうしたらよいか。公務や祭祀に狂奔し、男子を作成することではありません。全く価値がないとは申しませんが、強調されるとかえって、己の自信のなさ、威厳のなさ、無能振りを引き立てます。空威張りしているように見えるだけです。思い通りにいかないと拗ねるのも、みっともないばかり。真面目であって頂きたい。人を大切に思い、病める者や幼い子供を労わって頂きたい。秩父宮妃殿下は、御父上の教訓であったとして、次のような言葉を御著書でご紹介下さっていらっしゃいます。「正しく、らしくあれ。」子供は子供らしく、学生は学生らしく、皇族は皇族らしく、正しく、真面目に己の役割を果たせ、という意味であるとのことでした。正に、こうあって頂きたいものです。そうであれば、我々は、「象徴」として「手本」として仰ぎ見ることが出来るのです。残念ながら、今上夫妻、殊に弟一家にその資質があるとは全く思われません。
そして、「仁」と「愛」は、対立項でもない筈です。孟子曰く「仁なる者は人を愛す」。
まとまりが悪くなりました。申し訳ございません。
秋篠宮殿下(あるいは三笠宮殿下のご長男の鬚の殿下)は、つねづね傍系男子皇族(天皇になれない皇族)の虚しさを吐露されていて、そういうものなのかなとも思わされますが。
でも、三笠宮さまや常陸宮さま、故高円宮殿下などは、そのような不満はおっしゃらずに、
傍系男子皇族にしかできないことを思い、使命感と責任感をもってその責務を果たされているように思います。
使命感をもって責務を果たされている方々に共通しているのは、天皇(皇太子)というお立場の難しさ不自由さ苦しさをよく理解され、そこから一歩離れた自由を持つ皇族だからできることを大切にされ、国民と皇室の架け橋になろうとされていることです(傍目からそのように理解しています)。
それは逆に言えば、国民と皇室が繋がり続けること、象徴天皇制がしっかりと根付き続けることの難しさ大切さをよく理解されているということでもあります。
ずっと青信号でノンストップ走行だから羨ましいとか(なぜ自分が特定の大好きな国にだけ、宮中晩餐会までさぼって出掛け得るのかという部分は認識せずに)、
皇室記者を抱き込んで、提灯記事と報道規制を重ねれば、国民なんてちょろいもの、とかいうお考えではないということです。
情けないのは皇室関係者が求めるプロパガンダを唯々諾々と垂れ流し続けるマスコミです。
いまの平成皇室から垂れ流される姿が、慈愛と祈りと無私(自己犠牲)の御皇室像を結んでいると本気で思っているなら、なんて脳天気で、バカなんでしょう。
それとも、そのまま垂れ流すことで、かえって国民が、形式主義と欺瞞と自己愛と自己陶酔に満ち満ちた本質に気付くはず、と言う遠謀深慮なのでしょうか。
マスコミは、皇太子ご一家からは未来の皇室像についての深慮が窺えないとか書き立てますが、名も無き者さまではありませんが、私も皇太子さまこそが、これからの皇室に必要なものを見据え、誠実に一歩一歩積み重ねていらっしゃると思います。
まあ、殿下の水問題へのご関心を、くだらないと切って捨て、それよりは(誰が実質的に研究しているのか甚だ不可思議ですが)ハゼやナマズやニワトリやカッパの研究こそが皇室にふさわしい研究、とか褒め称えるのが皇室評論家のようですので、そういう人たちには、殿下の誠実な歩みは全く見えないのでしょう
(愛子さまのお可愛らしい笑顔、気品と聡明さを兼ね備え、のびやかに成長されているお姿が見えないのと同じように)
今上が新しい皇室の在り方として選んだのが、皇室全体で一生懸命公務をしている姿を国民に見せ、それに依って国民の支持を得たい。
確かに
今上の新しい天皇制の形として,公務をひたすら行い,それによって,国民から支持されるということを基本的な構造としようという発想は,非常に優等生的な発想 ですね。
この優等生的な発想が、公務が出来なくなってしまわれた雅子妃殿下に対する苛立ちで、それは相当なものなのでしょう。
それ故、マスコミ等の雅子妃殿下バッシング記事への完全なる放置、 その反面自分達への批判や誤った記事等への敏感な反応、数年前から急に公務に熱心になったごいっとさんへの歯の浮くような賞賛の記事の多さ、全て理解出来ます。
でも残念な事に
いくら公務を熱心にしても、あれが公務なのか?と言った類の物が多過ぎですし、美辞麗句を並べたてても、報道される回数が増えても
あの国会を止めてしまった懐妊騒動で、全て水の泡となってしまったのでは無いでしょうか?
こちら側が優等生的な発想をさせて頂くなら
“いくら何でもあれはないだろう” と言うことです。
40数年ぶりの男児誕生の慶事の筈が、全く盛り上がらず、胡散臭さだけが残り、何とも形容のし難い感情を国民側は持ってしまった・・・こんな誤算は想像もしなかったのでしょうか。
いいえ、これが誤算では無く、始めから想定内で、構わない兎に角 急を要するのだから強引でもやってみよう、やるしか無い、後は情報操作で何とでもなる、と考えていたのなら空恐ろしい事だと思います。
そしてもし、国民が許すなら、あわよくば皇太子殿下を排除して・・・なんて・・・
事実、今はその情報操作なるものを手変え品変え、子供達を使ってまで熱心にやっているように見えます。
本当にこれで良いのでしょうか?
これが今上の目指す新しい皇室の在り方なのでしょうか?
現代皇室論2では
傍系の男子皇族の在り方についてですが、今思えば高円宮殿下は大変優秀な傍系男子皇族であられました。
西田さんが仰る温かい牢獄を牢獄とは感じさせず、爽やかに潔くご自分を傍系男子皇族として受け止め、非常に活動的でありながら、且つ分を弁え、真面目でユーモアを解す上品な紳士ぶり、明日を見据えしっかりとしたお考えをお持ちであったように見受けられ、皇太子殿下と良く似ておられた様に思われます。
あのお方がもし、今、御存命であられたら必ずや東宮ご夫妻の盾と成って下さっていた事でしょう。
失礼ながらその他の傍系男子皇族ではお人柄の良いお方はいらっしゃいますが、高円宮殿下のようなこれといった方が私的には見当たりません。
それを思うと本当に惜しい方を失くしてしまった、皇室にとっては大きな損失だったと思われます。
返す返すも残念です。