私は誰か? 私は在る

存在する全ては縁によって起こっている3D映像である=縁起の法。縁とは意識(アラヤ識)⇒ダンマ・エネルギー⇒関わりのこと。

無我の体験の序文:2

2017-07-25 20:20:31 | 無我の体験の序文
日本版「無我の体験 バーナデット・ロバーツ著」の表紙の帯に、

『 著者の体験を通して語られる、無我(無自己)への二つの段階

第一段階:「神と一体」になるワンネス体験
     (3D眼鏡で見るように世界が見える。主客はまだ分離)

ワンネスが虚無に変わり、「大いなる通路」を経て、
第二段階:「主体」「対象」「それ自体」が三位一体の認識      』
                              とあります。


仏教的に観れば、

第一段階の体験は、サマタ(止)瞑想によって体験することができます。

第一段階の体験に執着しますと、後の悟りにつながることに支障が出るために、第一段階の体験を経験させない場合もあります。

第一段階の体験に執着してしまいますと、これだけで一生が終わってしまう人もいます。

第一段階の体験を「ワンネス」と表現するのは、ヨーガ的、クリスチャン的、といえるでしょう。

釈尊は、第一段階の体験から「縁起の法を知っていること」を導いています。なかなか、普通では、「縁起の法を知っていること」に導くことは難しいでしょう。



第二段階の体験は、ヴィパッサナー(観)瞑想によって体験することができます。

第二段階の体験は、「西方(さいほう)」体験です。かっこよく言えば、無我体験です。

なぜ、西方なのか?

晴れた日の夕方、太陽が西の空に吸い込まれるように落ちていきます。

第二段階の体験が、太陽が西の空に吸い込まれて落ちていくのに似ているものですから、むかしから「西方」と暗号化して伝えられてきています。

ついでに、第一段階の体験は、「無量光」と暗号化しています。

もう一つついでに、慈の心理内観は、「無量寿」と暗号化して伝えられています。

三つの体験を合わせて暗号化しますと、「西方阿弥陀(さいほうあみだ)」という暗号になります。

「阿弥陀」は、無量光と無量寿の両方にある「無量」を、「阿弥陀」という暗号にしています。
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 無我の体験の序文:1 | トップ | 無我の体験の序文:3 »

コメントを投稿

無我の体験の序文」カテゴリの最新記事