日本いきいき倶楽部

地球環境問題から地域創生、少子高齢化など様々な社会問題について、日本いきいき倶楽部で提言いたします。

「日本いきいき倶楽部」日記Z

2016年12月31日 20時55分43秒 | 日記
「日本いきいき倶楽部」日記Z
叔母さんとの出会い。

目当てのモチノキは、すっかり枝を失っていましたが、幹はしっかりと残っていました。
そして、その奥に、当時としては最も家らしい建物が立っていました。
一番上の伯母の努力で建てられていたのです。
玄関が開け放たれていましたので、敷居をまたぎながら、祖母が、「ただ今・・・」と言いましたら、すこし奥におられた母の下の叔母さんが、丁度、学校への出勤の準備中でした。
弁当箱を包みかけておられたのです。
そして、本当に飛び上るほどびっくりされて、ものも言わずに、駆け寄って来られました。
そして、「よう帰って来たな・・・」と、祖母の手を取っていました。
そして、包みかけの弁当を持ってきて、「早うお食べ・・・」と、差し出して下さいました。
あのような時、食欲を忘れていましたので、「叔母さんの方が、気を回して下さっているのだ・・・」と、感心していました。
そして、学校への連絡は、電話が無い時代ですから、お手伝いさんへ連絡を頼んでおられました。
「今日は、母をもてなすのだ・・・」と、決めてかかっておられたと思います。
そして、叔母が、本当に意外な情報を話して下さいました。
「今日、これから、お姉さんの媒酌で、田舎の神社で、私の父と、母の妹が、結婚式を挙げることになっている・・・」と、話してくれたのです。
「直ぐに電報を打って来る・・・」と、電話局へと行かれました。
駅前の風景で、すっかり気落ちしていた祖母は、何時の間にか元気になっていました。
「あれは、サツマイモだよ・・・」と、畑に茂っている作物を指差して教えてくれました。
かなり広い敷地ですのに、隅からに隅まで、畑になっていました。

返電が来ました。
「夕方そちらへ帰る・・・」とのことでした。
今度、母になって下さる叔母とは、面識が無かったものですから、戸惑いながら待つことにしました。
後日、この時の叔母をお世話することになりましたが、それは、この時の出会いが有ったからだと思っています。
あと僅かになりました。どうぞ、良いお年をお迎えください。
平成28年12月31日

「日本いきいき倶楽部」日記Y

2016年12月30日 19時35分24秒 | 日記
「日本いきいき倶楽部」日記Y
広島、姫路、明石。

朝食を終えましたら、広場に集まるように・・・と、話があり、広場に行きました。
長い屋根がありましたので、屋根の下に入りましたら、半円形の人垣が出来ました。
熱心に説明がされていましたが、私には解りませんので、キョロ、キョロとして過ごしました。
大人の方達は、もう、挨拶抜きの状態になっていました。
生死を共にして来ていましても、生きることがはっきりとして来ましたら、先のことが大切になっていたのでしょう。
帰る先の情報を必死に求めておられました。
私自身、竹馬の友との挨拶をすることさえ、忘れてしまっていました。
何だか、「何時でもあえる・・・」と、思い込んでいた節もあります。
祖母は、特別な切符と、当座のお金を貰っていたようです。
山陽線に乗りましたが、その時はそれほど混んでいませんでした。
途中、急な坂がありました時、機関車を連結して、歩くような速さで、喘ぎながら登っていました。
やがて、順調に走っていました時、大人達が、一斉に立ち上がって、窓の外をじっと凝視しておられました。
ヒロシマだったのです。
その時は、その事を知らなかったのでずが、窓の外の景色が、異常なものでした。
大きな、大きなコンクリートの塊が、津波の様に線路の方へ押し寄せていたのです。
後日、広島のことを知った時、あの時の風景が、そうだったのだ・・・と、気付いたのでした。
姫路に着きましたら、そこまでの汽車でしたので、一斉に降りました。
それから、連絡が無いものですから、一晩駅舎で過ごしました。
始発に乗って、ほっとしたことを覚えています。
ガラ空きの列車に乗って、御機嫌でした。

一駅ごとに、大勢の方が乗り込まれて、あっという間に満員となり、明石に着きまし時は、ギユウ、ギュウ詰めで、降りるのに戸惑っていましたら、窓から降りるようにと教えられ、、手伝って貰いながら、やっと、ホームに降りることが出来ました。
まだ、薄暗がりの早朝でした。
急ごしらえの駅舎を出ますと、見晴らしの良い景色が拡がっていました。
街全体が、空襲で焼き払われていたのです。
祖母は、一瞬、茫然としていましたが、気を取り直して、「モチノキがあるから、それを目印にすれば、直ぐ分る・・・」と、言って歩き始めました。
平成28年12月30日


「日本いきいき倶楽部」日記X

2016年12月29日 11時33分52秒 | 日記
「日本いきいき倶楽部」日記X。
博多港。

その日の夕方、博多港に入りました。
港の入口に、小さな緑の島がありました。
マシュマロのような形になっていて、冴え冴えとした緑の松が、小さな島を包み込むようにして生えていました。
「箱庭の様だー・・・」と、感動しました。
日本って、小さな国だなー・・・とも思ったのでした。
大きな輸送船から見る港の風景は、本当に一回りも、二回りも小さく見えて仕方ありませんでした。
遠くを走る汽車を見た時、「あれは汽車に違いが無いけど、何だか、トロッコにも見えるなー・・・」とも、思うくらいでした。
何時の間にか岸壁から離れ、沖合に停船しました。
何故こんな所に・・・? と思っていましたら、それから一切動かないのです。
皆退屈して、釣りを楽しむ人まで現れて来ました。
夜には、船の明かりを求めてかなりの魚が集まっていましたので、結構釣れていました。
一週間ほどしまして、やっと、動き始めました。
その訳は、「疫病の発生が無いか」確認しておられたからでした。
上陸しました時は、すっかり日が暮れていて、大きな建屋に入って行きました。
広い所に何時ものように場所決めしていましたら、「丼に入った煮込みご飯」が運ばれて来ました。
一口、口にしました時、何とも言えない甘い味がするので、「何が入っているのだろう・・・」
と思いまして、良く見ましたら、イワシが入っていたのです。
イワシは、あちらでも、「塩イワシ」として、入って来ていましたので、知っていたのです。
長い間、タンパク質の食事から遠のいていましたので、お魚がこんなにも甘いものだったのか・・・と、再認識しました。
一杯の丼も、あっという間に無くなりましたが、「本当に、日本へ帰ったのだ・・・」と、実感した一瞬でした。平成28年12月29日



「日本いきいき倶楽部」日記W

2016年12月28日 16時12分03秒 | 日記
「日本いきいき倶楽部」日記W
引揚船。

思いのほか早く船に乗ることが出来ました。
船は、アメリカの輸送船でした。
大きな港でしたので、幾つもの桟橋があり、ずっと向こうの方に、日本の格好の良い船がいました。
夕日が傾きかけました頃、日本の船が一足先に出航して行きました。
友達と、「日本の船の方が良かったなー・・・」と、悔しがったのですが、暫くしますと、
先に出ていた日本の船が、真横に並ぶようになり、あっという間に、遅れて行ってしまいました。
アレーと言っている間に、どんどんと小さくなってしまいました。
アメリカの船は、胴が太く、ズングリしていましたが、速さでは日本の船を相手にしていなかったのです。
「日本が負けたわけだ・・・」と、心底そう思いました。
夕日に暮れて行く港は、素敵な風景画の様でした。
波も静かで、順調に進んでいると安心して船倉に降りて行きました。
割り当てられた位置は、船の中央部で、体育館の様に広かったです。
旅慣れた手順で、敷物を敷いて休みました。
その夜、かなり揺れましたが、船だから仕方ないなー・・・位の気でいたのですが、翌朝船上に上がった時、「昨夜は転げまわって、寝られなかった・・・! ! 」と言う話で、もちきりでした。
船の前部と後部の揺れは、凄かったそうです。
その荒れた海も、昼になりましたら、すっかり落ち着いて、なぎの様になっりました。
玄界灘で有名な海でも、寒天を流したように、大きなうねりだけが有って、普通の波が全くないのです。
船が、前に進むとき、斜めに波を作って行きますが、その時、どっちボールくらいのクラゲが、ゆらりっと、落ちるように全体が見えました。
百メーターくらい離れて、イルカが並走していて、なんと逞しいことかと、見とれたものでした。
三時頃に、これから水葬を行いますので、集まって下さい・・・とのことで、船上に参りましたら、船のへりからせり出すように「滑り台」が設けられていました。
その上に、毛布で包まれた方が横たわっておられました。
皆で、ここまで帰って来たのに・・・・と、静かに手を合わせてお見送りしました。
汽笛が大きく鳴く中、静かに滑り落ちて行かれました。
足の方には、おもりが付いていましたので、底の方へと沈んで行かれました。
平成28年12月28日


「日本いきいき倶楽部」日記V

2016年12月27日 15時39分20秒 | 日記
「日本いきいき倶楽部」日記。V
雨の中の旅。

大きな収容所で、一週間ほど過ごしてから、南の方へと走り続けました。
これまで、晴天に恵まれていましたので、雨のことはすっかり頭から消えていたのですが、南の方へと向かい始めました頃、突然雨がやって来ました。
本格的な雨で、皆戸惑いましたが、どうすることも出来ず、頭を下げて耐えるしかありませんでした。
どれほど冷えて来るかと心配したが、案外暖かいのです。
なぜだろう・・・と、思っていましたら、貨物列車一杯に人が詰め込まれていますので、体が隙間なく引っ付いていたのです。
それで、お互いのぬくもりが補い合って、雨の冷えを防いでくれたのでした。
勿論、季節が良かったから、それで済んだことですけど・・・。
長い旅が終わって、列車から降りたのですが、さあっ、収容所へ出発と言う段になって、全く踏ん張りが利かなくなっていました。
祖母は、急いで、焼き芋を調達してくれました。
小さなものでしたが、食べおわりましたら、不思議なことに、しゃんっ、と立てたのです。
また根気よく歩くことになりましたが、無事収容所に入ることが出来ました。

大きな収容所でした。
後からの人々が、蟻の行列の様にこちらへと歩いて来ておられました。
満洲のあちこちから、沢山の日本人が、引き揚げて来ておられる縮図のように見えました。
そこは、南方と見えて、サツマイモの産地だったのです。
大きな窯に、沢山の美味しそうなサツマイモが、ふかされていましたが、とても買うことは出来ません。
そこで、友達と、その雰囲気と、香りをかぐだけの散歩によくいきました。
ただ、そこでは、毎日、高粱のご飯が出ました。
それは、リーダーの方の配慮で、高粱が運ばれて来ていたのです。


そして、日本への帰国がはっきりとして来ましたので、高粱を一杯振る舞って下さったのでした。
その収容所に居ましたら、次第に中がすいて来たのに気が付きました。
そうしましたら、最終の船が明日出るから、皆用意をするようにとの通達がありました。
やっぱり、収容所の中が、空いて来ていたのです。
しかも、「最終の船」と聞いたとき、ぞっとしました。
これに乗り遅れていたら、翌年までここにいることかと、思ったからです。

港までは、三時間ほどとのことでしたが、今度は、「囲も無い台だけの貨車」でした。
男の方が外側に座り、子供たちを護って下さいました。
途中の景色は、お昼間で、絶好のお天気の中の旅でしたから、周囲が良く見えました。
真っ白な場所があり、何だろうと思っていましたら、「あれは、塩の泉だよ・・・」と、教えて下さいました。
あんなに沢山の塩があるなんて、信じられない思いでした。
やがて、大きな港に着きました。
平成28年12月27日