二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

文学全集を立ちあげる  丸谷才一・鹿島茂・三浦雅士

2010年02月14日 | 座談会・対談集・マンガその他
本書の刊行は2006年。つまり21世紀初頭という「現在」の時点で、「世界文学全集」「日本文学全集」を立ちあげるとしたら、どうなるか?
商売としては成り立たないけれど、リストだけでもつくってみようという試みである。
丸谷才一を中心に、鹿島茂、三浦雅士という博覧強記のご三方による鼎談集で、ときおりはめをはずし、放談・漫談といった趣のある、愉しい文学談義。

はっきりいってしまえば、三人とも文学的スノッブ(俗物)。ただし、それを十分承知した上でやっているから、おもしろい。むろん、わたしにも、そういうスノビズムがあるし、「へええ、こんなこといってやがる」と笑ってすましてもいいし、そこにいわば、時代の風が吹いている。
読みおえたいま、「世界文学」のほうでは、シェークスピアの評価が異常なくらい高いなあ、という印象が強い。それに比較し、トルストイへの評価が低くなっている。なにしろ、全133巻のうち、エントリーできたのは「アンナ・カレーニナ」一作のみ。
まあ、ブローティガンやカーヴァーやマルケスまでの現代文学がふくまれるのだから、仕方ないのだろう。

一方、日本文学のほうは、セレクションの範囲を1960年代までとしているので、「日本」と「世界」では、基準のずれがある。
「日本」で評価が低いのは、北村透谷、志賀直哉、芥川龍之介、堀辰雄、そして小林秀雄である。それに比して、優遇されているのは、詩人では北原白秋、萩原朔太郎、小説家・批評家としては、内田百、中島敦、坂口安吾、大岡昇平、吉田健一。
21世紀ならではの新機軸を打ち出したいといった思惑も多少は感じられる。同じスノッブとはいっても、丸谷さんと三浦さんのあいだには、そうとうな好みの違いがあり、鹿島さんもまた、独自の尺度から、文学史へのアプローチをかけようとしている。

実現不可能なのを承知の上で、なぜ、こんなばかばかしい本がつくられたのか?
その意味で、丸谷さんが本書冒頭で「現代はキャノンなき時代」と定義しているのが、たいへん興味深かった。
キャノンとは、聖典ではなく、正典のこと。
ある一定の文化、文明を共有する世界のなかで、権威、あるいは、最高の評価をえている書物のことである。
丸谷さんは、現代でも「正典」はやっぱりあったほうがいいのではないか、という観点から、あらためて文学全集を立ちあげるとしたらどうなるか、と提案し、この三人で、その作業をおこなうというものなのである。
いってみれば、典型的な「反時代的考察」といえる。

昭和20年代生まれのわたしの思春期には、文学全集はまだ現役で、書店の棚に、ずらりと各社の「世界文学全集」「日本文学全集」がならんでいたものであった。
いま、そのほとんどは、BOOK OFFなどの古書店で105円の「ゾッキ本」コーナーに移動している。
こういう全集が重んじられた「教養主義」的な時代は、映画やテレビ、サブカルチャーの抬頭などによって、いつの間にかその権威を失墜していった。これは、偶像の破壊と軌を一にしているようにも思われる。百科事典も、インターネット検索にとって変わられた時代。

いうまでもなく、この三人ではないメンバーが選出すれば、違った文学全集となるだろう。
河出書房新社からは、池澤夏樹個人編集を謳った「世界文学全集」が刊行されている。果敢なこころみだと、わたしは評価している。
権威がなければ、反抗もできないし、敵の所在も見えないのである。
正典が生み出されるにあたって、数百年という時間の蓄積と、その蓄積のなかを生きた人びとの生涯がこめられている。中心がなければ、すべてが周縁だし、どこにいても、「隅っこ」たるをまぬがれない。また、こういったものがなければ、反時代的という態度すら、空回りするだけ。
それでいいではないか、結局は新たなヒエラルキーが形成されるだけ、という意見もある。しかし、これは、暇つぶしの「文学談義」なのだから、あるいは遊びなのだからあなたも参加してみては? というスタンスだと思われ、そのあたりにおもしろさが噴出している。

わたしは、そう読んだ。


評価:★★★★

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