日刊ミヤガワ

作家・表現教育者宮川俊彦によるニッポン唯一、論評専門マガジン。

9月17日 意地悪とっちゃまん

2006年09月17日 | Weblog
日刊ミヤガワ 990号    2006.9.17
「意地悪とっちゃまん」

 講演会がまた盛会だった。学士会館210室満席。出席者に感謝する。真剣に学習しようという姿勢でピーンと張り詰めている空気がある。静寂ではなく静謐だと思った。不思議な空間だ。ボクも思わず背筋が伸びる。
 自主講演会はいい。遠慮が要らない。招かれた場合も主催者の意向など気にしない方だが、そう見せて深部では必要以上に敏感になっている。サービストークは楽しいが急に飽きてくる。そんなことで喜んだり感動しているうちはダメなんだよと思う。かといって厳しく明確に云い切れば困惑を招く。作文研やこの自主講演会は、なんの遠慮もない。だから一気に真剣になれる。それが通じるのだろうし、その雰囲気が好きだと来る人もいる。
 今回は特に男たちも多かった。いいことだ。子どもよりも自分が学びたいという親も少なくない。それもいい。最近大人たちの入会、自由なワンコマ受講も増えている。親が開花していけば子にも反映していく。ただの教養講演で開花するものか。親が学問も思索も表現も舐めないで真摯な姿勢を持てば、それが家の基軸になる。頭でっかちの浅薄さは駆逐されていく。空洞人間はいずれ排除されていく。それは違うと云う人は迎合していればいい。真剣に語っても、わからぬ者や自分なりにしかわからないという者の顔を手で押さえてわからせようという徒労をする気はないし時間もない。
 粛々と淡々とやっていくさ。すべきことが山ほどある。探求し光を当て整理すべきことがあり過ぎる。猫の手も借りたいが金を払ってやってもらう質のものではない。これもまたすべきだと思う者に指針を提示していくしかないのかも知れぬ。
 作品集を作った。刊行は一年ぶり。特講で水準を越した作品を網羅した。
 講義の時には出席した親から渡されたのだろう。持参して真剣に読んでいる。活字になることで作家・表現者としての階段を上がる。自覚も自分の足りなさも考える。単純に喜んでいるだけではない。その姿勢にボクは無論だが、徹夜状態で選別しパソコンに向かい打ち込み編集していた助手の亮介や洋平も満足そうだった。こいつらの生徒や作品に対する情熱は並々ならぬものがある。何年経ってもそうであることが嬉しい。
 自分の子の掲載に関係なく勉強のためと買っていく人も多く、完売した。残りはボクの分をいれずに八部しかない。
 講演会に参加しなかった人は残念ながらこの本を手にできない。子が懸命に書いたものが掲載されていてもだ。他の子の作品に触れるチャンスもない。
 ボクは事前に案内を出している。わざわざ葉書で受講生には送っている。ところがだ、メールでもファックスでもいいがウンともスンとも返事のない者がいる。態度が悪い。講演のために何時間もかけて来る人もいるのにだ。勤めている人などは事情をメールで送ってくる。ボクも丁重に謝辞を云う。それは浮世の常識だろう。
 教え子の学生たちが後輩の教え子のための精務を思えば何か申し訳なく思える。
 馬鹿親というべきだろう。自分が行けないから祖父に代わりに行って録音してくれという人だっているのにだ。
 増刷はしない。来ない人はこれは手にできないとボクは講演で云った。笑いが起きる。そういうことだ。子に対しても申し訳ないと思える親でないのは失格なのだ。
 意地悪だよね。意地悪だ。そう、正しい意地悪だ。

          (日刊ミヤガワ千回まであと10回)
Copyright(c) TOSHIHIKO MIYAGAWA All Rights Reserved.