日刊ミヤガワ

作家・表現教育者宮川俊彦によるニッポン唯一、論評専門マガジン。

3月15日 不惑

2010年03月15日 | Weblog
日刊ミヤガワ2255号 2010/3/15                   

「不惑」

結構イチョウが話題になっている。
生徒たちも何かを見い出そうとしている。
千年・・・。武士の時代を見てきたのだ。西行も。
そこには源平の合戦あり。頼朝は無論政子も、その子たちも見た。義経も梶原も見た。
北条の天下も見た。時宗も見た。新興宗教も見ている。末期元寇で慄く人々を見、新田義貞も足利も見た。きっと尊氏が弟を殺すのも見ている。
戦国の世を見て、平天下を見た。江戸時代を見た。維新を見、近代国家作りを見た。千年・・・。
そうだ。この国の武士の台頭からその終焉を見た。確かに千年。ついこの間まだサムライはいた。
戦後の復興の意志は武士のものだ。
それがこの国から去った。右顧左眄の小商人の全盛になった。
イチョウはもう「見るべきほどのものは見つ」の心境かも知れない。
あるいはもう見るに耐えられなかったか。終わりたかったのかもしれない。
「命を絶った」と今日誰かが書いていた。その一文が目に焼き付いている。
そうか。イチョウの自殺、自死か。そんな観点でこれを見ている子がいることに唸る。
実にエコ的発想だ。木の意志。そうしたことをいつしかボクらは忘れている。
感情移入と云わば云え。それで成り立つ世界観ではなかったか。認識はこれをも包含するのだ。
予兆だと考える見識の浅さをその子の前で恥じる。木に木の歴史と視座と見識がある。意志だと。エコ的だ。
そこには人より遥かに長く生きられるという事実がある。きっと嫉妬している。
彼らから見たら人間の営みやチャンバラなど笑い種だろう。中生代の名残りだもの。

不惑の講義をしていた。人は惑い迷うものだ。40になったら惑わなくなるのではない。むしろ而立から10年。最も惑う時期だ。そこでしかし心のままにしたいことをしたら実は何も残らない。
そこで絞り込むことだよと話した。惑わないようにすることだと。そんな主体の判断の言葉だと解釈して見せた。体験からだ。そして知天命、耳順、従心と生きていく。それなら分る。
不惑は意志なのだ。「不惑なのにフラフラしています」という言葉を聞くと、それを云うなら一生だよと云いたくなる。
だからこそあえて定めるのだ。いずれ大惑は人の必然だ。
定めて生きるときに根が張る。だが・・。それはきっと最終面で倒れる。使命をそうして全うする。
イチョウは役目を終えたのだ。

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源平の合戦
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